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「しょぼい喫茶店」とプカジャと力雀

「メシ通」というweb媒体初仕事で、「しょぼい喫茶店」を取材させてもらった。
 西武新宿線「新井薬師前」駅から徒歩5分。住宅地に隣接した道路沿いにあり、店名が「しょぼい喫茶店」。店主は24歳の若者で、その彼が書いた『しょぼい喫茶店の本』(百万年書房)という本のインタビューだった。

 本の内容をかいつまむと、就職活動がうまくいかず「会社に向いていない」と落ち込んだところから、ネットで見かけた「しょぼい起業」のススメに触発され、試行錯誤しつつ「100万円以下の資金」で店をオープン。開店当初はSNS効果で賑わいを見せたものの、潮が引き、客数ゼロの窮地陥るなどの一年間を綴ったセルフ・ノンフィクション。

「起業」とかオシのつよい自慢話は苦手なんだけど、「メシ通」の編集者のムナカタさんからススメられて読んだら、めちゃ面白い。発売前に電子版のゲラを送ってもらったのだけど、電子は苦手で書籍を再購入。記事にも書いたけどイバるところのない、こんなふうに失敗して、こう改善しました、といったことが謙虚に書かれていて好感がもてた。

 にしても、実際にお店の前に立ち、ダンボールに手書きで店名を描いたものを目にしたときは笑った。感心もした。ほんと、しょぼい。そのぶん味がある。その看板や店名を変更するしないという問題が客足の激減したときに出たらしく、そのときのことなど詳しく聞かせてもらったけれど「しょぼい」答えがまたよかった。

 よくある成功物語であれば、気取った回答になるんだろうけど、そんなことかい?というリアルさで。店長さんの話し方も、ほかのインタビューを読むと、すらすら受け答えしているふうだったのでハキハキしたひとかとおもっていたら、考えかんがえしながらトツトツと話すひとで、精確に音源を文字起こしをすると「、」が多い。で、記事はしゃべりの誠実さをいかすことに気を配った(論理も大切だが、より重要なのは語り手の言葉遣い、場の雰囲気だ)。会話のリズムに人柄が出ていたのが印象に残っている。

 ご興味があれば、どういう取材だったのかは、記事を読んでください。
 記事はこちら👇
https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/jitsu-asayama/19-00135

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 ここでは、文中に書きもれていたことをちょっと。同席された編集者の北尾さん。すごく興味をひかれた。30年ちかく著者インタビューの仕事を続けているけれど、版元さんの会議室をお借りしてするとか以外のケースだと、担当編集者が出かけてきて同席するというのはめずらしい。近頃はとくに。だからそういう編集者のことは記憶にも残る。尚且つ、この日はゴールデンウィーク初日の土曜日だった。

 北尾さんの「百万年書房」は出来て二年目の「ひとり出版社」で、以前はサブカル系の有名な雑誌の編集長だったひとだ。
 ひとり出版社だから、ここは頑張って販売したいというのもあるんだろうけど。この本をつくるに至る経緯も聞くと面白かった。これは記事に書きました。
 意外といえばドリンク注文の際、北尾さんがピンク色のクリームソーダを頼んでいたことだ。こういう場合コーヒーだろう(笑)。

 おかげで、カウンター越しに店長で著者の池田さんの仕事の手つきをライブで目にすることができた。凝ったパフェとかもメニューに写真が載っていて、池田さんはどうすればきれいに仕上がるかネットを見て勉強しているという。ワタシは、完成したソーダを目にして心惹かれながら「すごい」というネーミングの「すごいコーヒー」と、開店以来の定番のチーズケーキにした。

 これは、いささか些事だけど、勘定の際に「コーヒーとチーズケーキはセットで〇〇円です」と割引料金なんだけど、北尾さんが「ボクも」とチーズケーキを追加したぶんは「セット対象外のドリンクなので」と割引ナシになりますと説明、カッチリと料金をもらっていた。
 北尾さんも領収書を書いてもらいながら「明日も取材が入っていて、ここに来るから、まとめてもらったほうがよかったなぁ」という。日曜も同席するのか。すごいなあ。池田さんも、お金のことはキチンとするのがイイなあと思った。何を見ているのか。おまえの感心ポイントはそこかいとつっこまれそうだけど。北尾さん、いつかじっくりインタビューをしたくなっている。

 ところで、喫茶店といえば、70年代の頃、関西に「プレイガイドジャーナル」というリトルマガジンがあった。略して「プカジャ」。のちにサイズが大きくなり「ぷがじゃ」と呼ばれたりするが、創刊時はB6判でポケットに丸めて収まる雑誌だった。「ぴあ」にたとえられたりもするが、ライブや自主映画映画にイベントやミニコミ紹介だけでなく、いしいひさいちのマンガをはじめインタビューなど他所にはない読み物が充実していたのとマイナーなサブカル度が高く、しかも書店に直接持ち込む方式で月末発売の月刊誌なのに5日くらいの搬入遅れはしょっちゅう。そういうのも「らしいなぁ」と許容される雑誌だった。

 当時は、よくそのプカジャを手にして京都や神戸あたりに出かけていってはミニコミの置いてある喫茶店や書店をうろついたりしていた。

 学生時代、わたしは大阪生野区の桃谷駅近くのアパートを借りていた。このあいだ旧友と当時の話になったときに「桃谷でチャーハンの美味しい店があるからと連れていかれた」と言われるのだが、まったく思い出せず、チャーハン? うまい? 思い出そうとしてもカケラも出てこない。さらに『十階のモスキート』を観に行った帰りだという。

 友人はそれ以来、内田裕也のファンになったというのだが、ハテ?どこの映画館なのか。封切館ではなかったらしいが、霧の中にいると、「そうそう。マントヒヒというめっちゃ怪しい喫茶店にも連れていかれた」というではないか。阿倍野の再開発で店も通りもごっそり消失してしまったが、赤軍が出入りしていて公安のデカさんが張り込みしているという噂が流布していた店だった。

 昼間でも洞窟みたいな薄暗さが気に入っていたのだが、友人いわく「暗い歌を聞かされ耐えられなかった」。ライブをやっていたらしいが、ミュージシュンが誰なのかがまた思いだせない。友人にとっては「衝撃」の度合が大きかったから間違いないという。

 いま何を思うとのかというと、ああ、こんなふうに記憶をなくしていくものなのか。動揺とともに寂しくなりはしたが、人物ルポの取材をしていると、しばしば体験してきたことでもある。昔のことを周囲の友人たちに聞き歩き、のちに本人に出来事を言い当てると「覚えていない」という。まあ、いい話だから本人は忘れているが友人の誰それさんはこう話す、というふうにして構成することがあった。

 ときには、こういうことをしたという人物が別人だったりすることもあったが、そういう記憶の消失や食い違いを聞き手としては面白がっていた。だから、いずれはこれも面白がることになればいい。

 それはともかく、なぜあの頃は、わざわざ遠くの喫茶店やミニコミを置いている書店に行くためにだけ、特急電車に乗って京都や神戸まで出かけていったのか。たいていはひとりだったが、たまに仙台出身なのに大阪弁がネイティブで松田優作に似ているといわれ夜でもサングラスをかけその気になっていたカマタくんとふたりだった。
 当時はまだフォークの時代で、そういう店に行ったところで、店のスタッフさんたちと親しくなるわけでもなく、見て帰るだけだった。いま思うに何かの出会いを求めていたのだが、一歩踏み出す覇気が欠けていた。引きこもり体質でしゃべるのは極端に苦手だったし、ずっとただただ見るだけの人だった。

 そんなこともあり「しゃぼい喫茶店」に入ってしばらくいると、既視感がわきあがった。通った店々の中で、唯一カウンターの中の人と話すようになったのが「珈琲店・雀(のちに力雀と改名)」という、わずか5席しかない、大阪・阿倍野の商店街の外れに昭和の名残りをのこした路地があり、そこでひっそり猫と営業していた店だった。
 昨秋ママさんが逝ってしまいシャッターが下りたままだが、誰かと話したくなったときだとか心寂しいときには足を向けていたんだな、そういう場所だったんだと40年近く通いつづけ、もうあの空間がないとなって気づかされたのだけど、「しょぼい喫茶店」には「わざわざ」の断片を感じた。

 店構えが似ているとか、コーヒーの味が似ているとかではない。むしろ似ているモノはない。気配というか、雨宿りをするように「居てもいい」と言われている気がしたというのかな。雀さんは、一時間ほど店にいて、居合わせたお客さんの話を聞いたりしながら「きょうは何かあったの?」と話を聞いてくれたりする。店には、聴いたことのないような洋楽ロックやPANTAの唄が流れ、いまとは時代も情況も異なるが、何者かであることを求められたりしなかったのが楽だったんだのだろう。結局ワタシは大した者にもならず、いまもこうしてひとの話を聞いては文字にする仕事をつづけているわけだ。

画像2しょぼい喫茶店のチーズケーキ、おいしい😋🍴

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