ぼくは2.5者だと考えています。
絶賛上映中「きみが死んだあとで」(代島治彦監督)👉映画に登場する14人のその後の物語をまとめた本『きみが死んだあとで』が晶文社より発売
撮影カメラマンに話をききました【「きみが死んだあとで」backstoryI】
https://www.shobunsha.co.jp/?p=6587
語り手=加藤孝信さん
聞き手🌙写真撮影=朝山実
©️きみが死んだあとで製作委員会
▲予告編の動画を見ることができます
加藤さんを見かけた最初は、前作の「三里塚のイカロス」の試写会場だった。後ろの隅っこの方に立ち、代島監督が客席と問答するのを見ている。熱心な人だなぁという印象があった。次の仕事にこころを向けている時期だろうに。4年前くらいのことだ。
今回の「きみが死んだあとで」の関係者向けの上映会の際にも加藤さんの姿を見かけた。壇上でカメラマンとしてスピーチでもするのかと思ったが、距離をとって眺めているだけ。変わらない姿勢に興味をもったのがインタビューの動機のひとつだ。聞きたかったのは、撮影現場の様子だった。
インタビューしたのは、「きみが」の東京での公開初日。渋谷ユーロスペースが入るビルのオープンカフェで、コロナ下とあってお互いマスクをしながらだった。じつはこの日、代島監督と映画に登場する作家の三田誠広さんとの対談があり、その様子を見に行くという加藤さんとカフェの前で待ち合わせることにした。壇上で挨拶するんですかと聞くと「いえいえ僕なんか」と笑い返された。
「ぼくが入った頃にはもう三里塚や牧野村での撮影は終わっていて、山形国際ドキュメンター映画祭の記録映画の手伝いをしたのが小川プロでの最初。そのときのキャメラマンは大津幸四郎さんで、助手をしていました」
カメラマンのキャリアの最初から話をうかがった。
大津幸四郎は、代島治彦監督の「三里塚に生きる」(14年)の撮影が最後の仕事になったベテランカメラマンだ。成田空港建設に反対する農民たちの激しい抵抗運動が60年代末から78年の開港にかけて続いた(反対闘争はいまも継続している)。小川紳介監督の下、大津さんは初期の三里塚ドキュメンタリー作品を撮っていた。「三里塚に生きる」は、その大津さんが付き合いのあった農家の人たちを訪ねたいという思いを受けとめるかたちで撮られていった。完成まもなく大津さんは他界。代島監督の三里塚シリーズの次作「三里塚のイカロス」(17年)は、かつて大津さんの助手だった加藤さんが後継カメラマンを務めた。「管制塔占拠事件」の活動家や、支援で現地に行き反対派農家の青年と結婚した元女学生たちの「その後」を追ったドキュメンタリーだった。加藤さんが代島監督と仕事をともにするのは「きみが死んだあとで」で2作目となる。
加藤さんが撮影の仕事に就いたのは25歳(89年)のときで、仕事の範囲は「ドキュメンタリーに限定してはいない」というが、硬派の印象がつよいのはやはり、あの「小川プロ」に参加したのがスタートだったというのはおおきいだろう。
社会派ドキュメンタリーで知られる小川プロに入ったのは憧れがあったのかと聞くと「とくになかった」という。にこやかな表情で、いきなりの肩透かしだ。明治大学に「映研」に所属していたことがあり「その伝手で、若い人を探しているというのを聞いて」行ったのが小川プロに加わった。その前は映画とは関係のない「雑誌編集プロダクションの手伝い」をしていた。
独学で8ミリと16ミリをいじりはしていたが、ドキュメンタリーを撮ってやるぞ、といった野心やこだわりをもったことはないと語る。ちょっとシャイな佇まい。映像に表れる一人ひとりの「語り」の安定感はこの人ならでは、かなと思った。3時間20分、14人に対するインタビューをつなげたドキュメンタリーであるにもかかわらず、退屈だと思わせない。語られる内容ゆえ、というのはあるのだが。
🌙映画の冒頭がインパクトあります。降雨の中、遺影をもった学生服の男が立っている。えっ、何だろうという。そして、ちょっと情緒的な、この映画を撮るにいたった「動機」がテロップで映る。遺影は1967年の羽田闘争で亡くなった山﨑博昭さんで、学生服を着ているのが監督だとわかっていくんですが。あの場面はどのようにして撮られたのでしょうか?
「あれは去年(2020年)の5月に撮り足しているんです。一度4時間版をつくったあと、最初の緊急事態宣言の頃ですね。予報だとこの日は確実に雨だからお願いしますと言われ。じつはその前にも2度行っているんですよ。
最初は2019年の11月上旬、この日は晴天で、宣伝ビジュアルに使われている弁天橋のイメージショットはこの日撮ったものです。雨降りを狙いだしたのは2回目以降で、映画で使われているのは3回目に撮ったものです。
2回目の日は雨が弱かったので、撮らないまま。映像に雨を写そうとすると土砂降りでないといけないんです。だから、そういう悪天候の日を選んで。カメラは防水ですから大丈夫なんですが、ただ野外で、しかも距離が離れているとなると雨音もあり、むこうで何を言っているのかわからない。カメラのスイッチを入れてから(代島監督は)橋で写真を持ったまま、なかなか手が上がらない。そして、今度はなかなか下げない。10分くらい立ったままだったんじゃないかなあ。
早朝だったので、声を張ると周りの民家に迷惑になってはいけないし、そもそも50メートルくらい離れていると声が届かないですから。しかし、あんなに字幕を載せるとは思わなかったですね。せいぜい2分くらいかなと思っていたので」
🌙代島監督からの現場での指示は?
「あの場面に限らず、あんまりないですね。こんな感じで、というのはありますけど。ここは寄りでとか、引きでとか、それくらい。
あの遺影を掲げるところで、たまたま漁船が橋の下を通過していくのが撮れたのはよかったですね。ああいうのは前もって仕込まないと撮れないですから。ただ、あの冒頭のシーン。なかには、監督が何であそこまで出てくるんだろうという感想を持たれる人もいるでしょうね。だけども「何で今この映画を撮ったのか」と言われたときに、納得できる言葉としてあれは必要だったと思いますね。やはりあれがないと、すっと中に入りづらかったかもしれない。
じつはあの撮影の前に代島さんは足を怪我して10㌔くらい痩せたんですよね。スリムになったおかげで、無理なくあの学生服が着られたというのは、映画の絵としては災い転じて福というか」
🌙撮影時間は延べ100時間を超えたと聞いています。
「そうですね。一人あたり4時間から5時間は撮っていました。完成版の前のものを含め3パターンくらい編集されたものは見ているんですが、最初の方ではそれぞれの証言者の現在の姿、山﨑博昭さんと関わりのない、現在の仕事の場面とかがところどころに残っていたんですね。多少なりとも。
たとえば(山﨑博昭さんと高校の同級生だった)黒瀬さんが新幹線の駅構内で、お土産物店にお弁当を卸しにいく場面だとか、売り場に箱の角を揃えて丁寧に並べていく。ああいう普段仕事しているところは撮っていると面白いというか、手ごたえを感じる場面でもあって。そもそもこの映画は座ってしゃべる人の「顔」だけをずっと見ている映画になるだろうというのはわかっていました。代島さんは「ナラティブ(口承)」という言葉を使われたりしていますが。だから、屋外に出られるというだけで解放感はありました。
いっぼうで、こうした日常のシーンは最終段階で残らないだろうというのも予想はしていました。枝葉にあたるというか。これを入れようとすると、もう3時間では収まらないでしょうから。インドで舞踏を教えられている岡さんが河原で踊っているところとかも、実景部分を撮っているんです。ダラムサラまで山道を車で半日かけて行ったんですよ。だけど使われたのは家の外観と後ろの山、これは日本じゃなさそうだなとわかるくらいのものだけで。仕方ないんですけどね」
ここで、まず簡単に「きみが死んだあとで」について説明しておくと、1967年10月8日、佐藤栄作首相(当時)が南ベトナムを訪問するのを阻止しようとする全学連の学生たちと機動隊とが衝突。その中で京都大学文学部1年生の山﨑博昭さんが亡くなる。
山﨑博昭とはどういう人だったのか。
大阪の大手前高校の学友たち、兄、同校出身で東大全共闘代表の山本義隆さんら14人のインタビューを積み重ねながら、ベトナム反戦に若者たちがのめりこんでいった時代背景と「山﨑博昭」の人物像を立体化していくというのが第一部。前後編で3時間20分となる後半の二部では、山﨑さんが亡くなったあと、弔い合戦のように高揚した学生運動が急速に衰退していく。語り手の中には活動家としてセクトに加わりやめるに至った心模様を振り返るものや内ゲバに深く関わったものもいる。全共闘運動から遅れた「しらけ世代」だった監督が聞き手となり、表に出ることのなかった市井の参加者だった彼ら彼女らの肉声を通して、あの時代は何だったのか、なぜ運動は潰えていったのかを考える「証言」ドキュメンタリーの構成になっている。
🌙今回、加藤さんにお聞きしたかったのは、撮影現場の様子なんですね。前作の「三里塚のイカロス」の際に代島監督にインタビューすると、インタビューした文言すべてを映像をもとに大学ノートに一度書き起こし、それをもとに映画を編集をしたという。その手間のかかる作業の仕方に驚きました。そして「きみが死んだあとで」の場合には手書きからパソコンに換えはしたけれども、やはり延べ100時間をこえるインタビューを文字起している。つまり完成版に対して、97時間の使われなかった「ことば」があると聞いて、監督に無理をいい、14人の文字起こしの全文を読ませてもらったんですね。
過程で落とされていったのは、テーマである山﨑博昭さんとは直接関わりのない各人の「個人史」にあたる部分でした。山﨑さんと高校の同級生で現在介護の仕事をしている向さん、彼女の職場のエピソードや大学時代に知り合った夫を看取るまでの話。学習塾を営む田谷さんの病身の娘さんの成長をたどる話。山﨑さんの追悼集会で友人として弔辞を読んだ女性で、教師を退職したのちに田舎で子ども文庫を開くようになった人。内ゲバでの獄中体験を経てセクトを離脱し、政治とは異なる新たな職場に就き生きがいを見出したという人。学生運動を体験した、市井の人たちの半世紀にわたる濃厚な時間を感じ、これを本にしたいと監督に告げ、紆余曲折はあったけれど晶文社で出版してもらえることになったんですね。イメージしたのは同じ晶文社から出ていたスタッズ・ターケルの『仕事!』という本なんですが。
文字起こしの全文を読むと、代島さんは一人ひとりの取材に膨大に時間を注いでいて、これはカメラマンとして付き合うのは大変だったろうなぁと。それで聞きたかったのは、カメラを回しながら加藤さんがどんなことを考えていたのか?
「まず本になるというのは嬉しいですね。映像で使われなかったものは何も残らないと思っていましたから。
それで代島さんのインタビューの特色ですが、たしかにひとつの質問が長いんですよね。現場では、ひたすら撮っているので、何を考えながらと言われると、そうだなぁ、、まず取材の仕方でいうと、テレビの人たちは最初にシナリオがあるんです。構成表を作って、それを局のプロデューサーに見せ、それから取材に入るのが一般的なんですね。そうするとインタビュアーが望む答え以外は受け付けなくなる。なんとか「答え」を言わせようとして、決まったコースに乗せるための質問を繰り返すんです。誘導するというか。キャメラを回しながら「この人は、そういうことを言いたいわけじゃないんだよなぁ」と心の中でツッコミを入れていることがあります。
代島さんは、そういうのではない。落しどころを決めずに相手の話を聞こうとする。そのぶん、どうしても時間は長くなるんですよね。大変か、といわれると技術的にはインタビュー時間が3時間を超えてくると、光の加減が変化して難しくなります。それは置いても、質問が長い。「ここでまた代島さんが意見を言わなくともいいのに」ということもあって。でも、一つひとつ掘り下げながら質問を重ね、理解していくという代島さんなりのスタイルなんでしょうね」
🌙それは、自分はこう理解していますということを伝え、認識の齟齬をなくしていくという意味も含んでいるということなのかな。現場スタッフは監督とカメラマンの二人きりだったそうですが、事前の打ち合わせとか、反省会のようなことはされているんですか。
「ときどきは。ただ、カッチリ話し込むということはなく、最初に注文があって、あとはこっちにお任せというやり方でしたね。注文も「生活しているその場で撮りたいから」というくらいで、見た目のルックがどうのという注文はなかったです」
🌙映像で興味深いのは、加藤さんは、嗚咽しかかっている人の眼にカメラをあえてズームさせたりはしないんですね。
「しないですね。どうして? 対面で話しているときの距離って、そんなに変わらないんですよね。資料を取りにいって、それを持って説明しようとするぐらいで。だいたいキャメラは聞き手のすぐ傍にいるもので、となるとキャメラと話し手の距離も一定にしておくことになる。今回もそのやり方をしているんですが。ズームレンズを使っているので、多少は寄ったり引いたりはしているんですが、極端にすると何かズルをした気になるんです。
ええ。ズルを。言われたように、泣きそうになると寄っていって目のところをアップにするというのをよく見かけます。でも、意気消沈している人にそういうふうにカメラが寄っていくというのは、日常ふつうの人はしないですよね。でも、テレビはやっちゃう。あれは見ていて、ぼくは気持ちいいものじゃない。その人の感情なり情動を、こっちが勝手に利用しているように感じるので。だから黒瀬さんが橋のところで(当時の機動隊との衝突場面を説明をされていて)感情を爆発させそうになったときも、無理にカメラを動かさず、出来るだけ見守る姿勢でいようと。ただ、そうは言っても本能としては寄っていきたいというのはあるんですけどね」
🌙前作の「三里塚のイカロス」のときにも感じたんですが、インタビューを終わろうとして雑談的な空気が醸し出てからの場面がよかったりするんですよね。室内のインタビューだとスタートは自然と決まっていくと思うんですが、黒瀬さんのように、場所を移動している合間の会話が面白いとかいうことがあったりしますよね。たとえばわたしは文字媒体のインタビューをしているとICレコーダーを出して、録ろうかどうしょうかとよく迷うことがあるんですが。ドキュメンタリー映画はもっと繊細かなぁと。
「ああ、わかります。目立ちますしね。どのタイミングで撮りはじめるかというと、代島さんからとくにサインのようなものはないです。場の雰囲気で「ヨシ、じゃあ」というのを見計らって。ただ、その「じゃあ」についてはいつも考えています。このへんかなぁというのは。もちろん早めに回すと無駄にはなるんですが。ただ、インタビューというのは予想がつかないんですよね。さあ、始めましょうと言って面白い話が出てくるわけでもないですし。
そういう意味では撮り始めることよりも、どこでカメラを止めようかというのは考えますね。技術的な限界が来たらもう止めるしかないんですが。SDカードの残りが尽きるとか、バッテリーがなくなるとか。ただ、だいたい他のインタビューだと1時間、早いと30分くらいで話は終わるんですよ。重要なところは」
🌙スタートと終わりが確定していないというのは劇映画との大きな違いですよね。
「そうです。とくにデジタルになってから変わってきましたね。フィルムの時代はムダ使いはできないですから、ギリギリまで詰めて「ここから」というところからやっていましたけど。いまだとバッテリーかカードの容量でリミットがかかるまでは。だから基本的にインタビューが行われている間は撮りつづけています。たとえば山﨑建夫さんが昔暮らした町を訪ねて回るところ、あそこはずっと手持ちで撮っていました。半日くらい。だけど一か所1時間くらいでしたから、手持ちとはいえそんなに大変な撮影はなかったですね。室内は板付きで三脚に載せてというのが多かったです」
🌙文字起こしされたもので強く惹かれたのは、学習塾をやられている田谷さんが難病の娘さんを育てられ看取られるまでの話。その田谷さんの職場である下町的な塾での子供たちとのやりとりの様子なんですね。面倒見のいい下町のおっちゃん的なというか、映画で感じたのとは別の人物像が見えてきました。
「そうですね。田谷さんは2日間の取材でした。初日に授業風景を撮らせてもらって。もしも塾の授業風景として構成することがあれば、こういうカットがあったらいいだろうなぁというのを考えながら撮っていました。ただ、ほとんど使われてなかったですけど」
🌙カメラマンとしては、どれぐらい使われるというふうに考えていたりするんですか?
「構成にもよるんでしょうけど、この映画の場合、しゃべっている人を撮ることに徹底していて、当時の新聞とか写真を写すことはあるにしても、風景のようなものは入らないだろうとは予想はしていました。ただ、もし使うとなると無いと困ると思うものはぜんぶ撮っています。場所を見て、絵としてこういう場面があるといいだろうのを頭の中でリストアップして。同じしゃべっているところを撮るにしても、人によっては言いよどんだり、無言になったり、ちがう話に飛んだりしますよね。編集によって、話が逸れたところは切ってつなげるんですが。そういうときに現場の風景を挟んだりする、そのつなぎの部分を後から作るというのは難しいので、その場で必ず撮るようにしています。ただ、それは編集の判断。たとえ言いよどもうが現場の時間を大切にするんだという人は、そのまま使いますし」
🌙撮影中に手ごたえを感じるというのはどういう瞬間ですか。
「観たひとの感想で「しゃべっている人たちの顔を見ていても飽きなかった」、そう言ってもらえると成功しているかなぁと。なかには退屈でしょうがないという人もいるとは思うんですけど。
今回キャメラを回していて面白かったのは、京都で古書店をされている島元さん。「梁山泊」というだけあって、もう本が積み上げられた店内が見飽きない。細かい風景をたくさん撮りました。向さんだと、彼女が介護の仕事をされているのが高円寺の方で、話をしながら町中を歩くところを撮ったカットがあるんですが。映画に出てくるインタビューはその日の夕方にアパートの部屋で撮ってるんですけど、町歩きのカットはまだ最初のバージョンには少しあったのかな。チャキチャキとした人柄が覗き見えて、すごく面白かったですね。
ただ外で撮るのはいろいろ許可のこととかあって、どこかを訪ねていくというのであれば事前に話をしておかないといけないんですが、あのときは、まあ、お散歩しているだけなので成り行きで」
▲加藤さんに選んでもらった撮影中の1カット。子ども文庫などしながら田舎暮らしをする島元さんの家で。インタビューの準備中に監督の膝に乗ってきた。
🌙代島監督は、被写体となる人たちには事前にリサーチというか、カメラなしで、ある程度話を聞かれているわけですよね。しかし、映画ではそれぞれ初めて語りだすという印象を受けました。よくテレビとかで、おさらいをするような喋り方を見ることが多いのですが、どの人も、まったく自然で。何でだろうと考えたんですが、聞き方の技量もあるでしょうけど、聞き手の後ろにカメラマンの存在が大きいんだろうなぁと。
「たしかに第三者がいることで、たとえ一度話したことでも、はじめて語る気持ちになるというのはあるかもしれない。だからキャメラマンは聞き手ではないんですが、現場では私も「聞いていますよ」という空気は出そうと心がけていはいます。ただ技術的なことをいうと、人によっては目線が動いたりすることがあるんですよね。たとえば、代島さんの背後にキャメラがある。視線はこの範囲にしてほしいというのはありますが、なかには目線をまったくちがう方に向ける人もいらっしゃって。山﨑さんのお兄さんが弟のことを語るときなんかはそうでしたが、あれは内容が記憶をたどる繊細なものだったので、それでもいいんですが。そうでもないときにぜんぜん違う方ばかりを見て話されていると、映画を観ている人には説得力がなくなるので「目線は監督の方を見て語りかけてください」とお願いすることもあります。
ただ厳密にカメラ目線で語っているように撮ろうとすると、それは無理というか。鏡を見る自分の姿が撮れないのと同じで、だからできるだけ近いような角度にレンズをもっていくようにしています」
🌙でも、カメラがあると、どうしても気になってカメラをチラッチラッと見てしまいますよね。レンズを意識させないというのは難しいことかなあと。
「そのへんはインタビューを撮るときの腕の見せ所でもあって。キャメラマンとインタビュアーのコンビネーションにもかかわってきますが、難易度が高いのは通訳を交えた場合。「通訳さんと話してください」というふうに決めておくといいんでしょうけど、監督と通訳さんが離れた場所にいたりすると困ってしまう。「監督は通訳さんの後ろの方にいてくれませんか」とお願いすることはありますね」
🌙なるほど。そういう場合、カメラマンは気配を消そうと努めたりするんですか?
「場合によります。ただ、「話を聞いていますよ」というサインは出すようにはしています。キャメラのスイッチを押したあと携帯を操作しているとかいうのは論外でしょうけど」
🌙わたしは取材の際にカメラマンの存在が気にかかるほうなんですね。雑誌のインタビューだと編集部の発注を受けてやって来るカメラマンは、取材相手のことを把握していなかったりすることもあったりして。インタビュー中のカットは不要、ポートレイトだけでいいという場合、カメラマンは取材が終わるまで1時間とか2時間、待たせることになる。その間、仕事とはいえ退屈かもしれないから興味を抱いてもらえるように聞いていこうとするんですけど。カメラマンを記事の仮想読者に見立てて。
「ドキュメンタリーのキャメラは、距離感として第三者ではない、というか。言うなら聞き手寄りの2.5者ぐらいの立場だと思っています。スチールだと確かに、話を聞いているだけで撮らなくともいいということだったら、聞き手よりも離れた位置かもしれませんが。だからといって、2.0でもない。ぼくが話を聞いていくというのではないですから」
🌙たまに加藤さんが質問をするということはないんですか?
「この映画のときにはなかったですね。それでなくとも自分が加わることで話が長くなったりすると困りますから。バッテリーの残り時間とか気になって仕方ない。ただ、聞きたくなるということが無いわけじゃないです。そういうときにプロデューサーがいる現場だとその人が質問するんですけど」
🌙一度、日大全共闘議長だった秋田明大さんを代島さんがインタビューする場面に立ち会ったことがあるんですが、本当に長いんですね。わざわざ広島まで訪ねていったという思い入れもあるからなんでしょうけど、3時間、4時間、5時間。ひょっとするとこれは夜更けまで続くのではないかというくらい。前半は助走というか。それで面白い話は、もう終わろうとして解散モードになってからだったんですね。わたしの体験でも、「取材を終わります」と録音機を止めたとたん文字にする話が出てきたりすることがあるんですが。
「たしかに、そういうことってありますよね。だから逆に「もうこれで終わります」と一度言うのがいいのかもしれませんよね。テクニックとして。映像の場合も、こっちが片付け始めたところで、いい話が出てくるというのがあって、あれは本当に困るんですよ。だから「そろそろカットしましょうか」と言ったあともすこし回しておくとか。このへんで空気を変えるとリラックスしていい話が出そうだというのは何となくわかるじゃないですか。そういうときにはカットせずに回しているのは、まあ、ありますよね。
たとえば、テレビのインタビューだと、話の枠組みが決まっていて、そこから外れそうになると戻そうとするでしょう。そういうやりとりが終わって、世間話になったときにインタビューの内容とも関係する話が出たりもする。そういうところはキャメラは回していたい。三脚を片付けてしまっていたら手持ちにするとか。ただ、難しいのはそういうときに照明を消していたりするので絵としては使えなかったりするんです。
そういうことでいうと、向さんが歌を唄い始める場面があったでしょう。あのへんは手持ちだったんです。なんとなく世間話をしているときだったんじゃないかなぁ。三脚を使った撮影ではなく、ちょっとリラックスしてもらっているなかで撮れたものでした」
🌙向さんのインタビューの文字起こしを読むと、学生時代に知り合った男の人と生活をともにし、年月を重ね、病気がわかってから看取られるまでの日常に関わる話がすごくよかったですね。
「そう。向さんのは、お母さんとの話もよかったですよね。まったく映画の主旨とは関係ないことだけど。母子家庭でどれだけ苦労したかという話なんだけど、それを面白おかしく語るんですよね。たしかに彼女に限らず、時間の制約から、映画から落としたそれぞれの個人史が面白いんですよね。そういう意味では本にしてもらえるというのはすごく嬉しい。ただ、話しているときの表情がね、見えないというのは残念ではありますが」
🌙視覚的なことで言うとそうなんですが、逆にあえて本では場面写真や、語り手の顔写真の類は一切入れないことにしたんです。たとえば小説を読むように文字から場面を想像してもらいたい。そのぶん口調は大事にして。ただ、これは視覚化したいと思ったカットもあって、たとえば向さんの話の中に出てくる、彼女が位牌の代わりにしていたと語る酒瓶。島元さんが営む古書店の店内に飾ってあるドン・キホーテの彫像とか。それは加藤さんが写しているカットを抜き出し入れることにしました。
「ああ、ありましたね。それは見識ですね。同じインタビューのドキュメンタリーでも「三里塚のイカロス」とのちがいは、今回の主人公は山﨑博昭さんだから、その主人公を語る人々ということなので、映画として語る人たち一人ひとりを見せるというのは難しかった点だとは思いますね。それぞれの個人史の部分を生かそうとすると4時間を超えても収まりきらなかったでしょうし。逆に削ることでより引き締まった作品にはなったと思いますけど。ただ、娘さんのことを語る田谷さんのところとかは個人的にはすごくいい場面だったと思います」
🌙難病の娘さんのことを振り返りながら、涙ぐみそうになるところですね。
「そう、いい話なんです。たとえばプロモーション的なミニ・ドキュメンタリーにして、個人史にスポットを当てた一人数分のものを作れないかなぁというのも思ったりはしたんですけど。どうしても劇場で観てもらうには限界はありますから。だから撮りながら、これは本にならないかなぁとは思っていたんですよ。いい話だ、でも、これは映画には残らないだろうなぁというのは思っていましたから」
🌙そう思ったのは、どのあたりから?
「それはもう最初の向さんのときから。このボリュームをあと何人やるんだっけとも思いましたけど。ともあれキャメラマンとしては、撮ったものが何らの形で残るというのは嬉しいですよ。たとえ映像ではないにしても」
🌙「三里塚のイカロス」の際にはそうは思わなかった?
「あのときは、それほど思わなかったかもしれないですね。三里塚の場合、脇道に逸れる話も含めて、もともとそれぞれの個人史の話だったので。たとえば、空港公団で土地買収の責任者だったおじいちゃんが飼っていた犬の話。ああいう場面は、今回の映画だと真っ先に落とされるようなところですが、逆に「イカロス」はそれがメインでもありましたから。開港をめぐるテロにあった結果の話ですから。これは織り込んでいくんだろうなというのは撮っていてわかりました」
🌙「きみが」の中でもっとも緊張するのが、内ゲバに深く関わっていた人の証言でした。どこまでしゃべっていいのか。しゃべるべきなのか。カメラの前だけに、言い直しはきかない緊張感が漂っていました。
「あれは映像ドキュメンタリーならではだと思います。ただ、ほかの人に関しても、誰ひとり事前に想定問答を用意していた人はいなかったですね。問いに対して、自分の言葉でしゃべっている。あと、これはぼくが撮ったのではない、代島さんが撮影したものですが、山本義隆さんがベトナムに行って山﨑博昭さんのことについて演説するシーンがよかったですね。話しているうちに熱がこもり、つい昔のようなアジテーション口調になっていく。そうそう。書店で山本さんの見つけて読もうとはしたんだけど、物理のあまりに難しい本なので棚にそっと戻してしまいましたが」
🌙加藤さんはふだんどんな本を読まれるんですか?
「いま読んでいるのは、シベリア抑留のことを描いた石原吉郎さんの本です。広島の原爆資料館の館長が書いた岩波新書の中に出てきたので。次に読みたいと思っているのは『経済学・哲学草稿』の新しい訳のものを読んでみようかと。インタビューの中に何度も出てきていましたから。撮っていて、とにかく本の量がすごいんですよね」
🌙本というと、山﨑さんのお兄さんが保存されている博昭さんが当時読んでいた本。書店のブックカバーをした上に一冊ごとにタイトルが書かれていて。いまだとそういうことをする人はいないでしょうけど、70年代には自分もあのようにしていたなぁと。しかもよく通っていた書店のブックカバーだったものだというのもあって個人的な記憶が喚起されたりしました。
「あの本棚ひとつからでも、あの時代の人の几帳面さが伝わってきますよね。今回のインタビューを撮るときに思ったのは、ほんとうに本がいっぱいある。詩人の佐々木幹朗さんや三田誠広さんは仕事柄もあるんでしょうけど、ほかの人もそうで。昨今の流行は背景をぼかすという撮り方をするんですけれども、ギリギリできるだけ、どういう本かわかるくらいのぼかし方で撮るのがいいかなと思って。情報として役に立つくらいの映り方というか。やはり本というのは情報になりますからね」
🌙証言の中に、山﨑さんがバスで羽田に向かう日、鞄に10冊の本を詰めこんでいたという。その10冊の中には哲学書とかも入っていて。それをまたお兄さんが大事に保管されている。あのシーンよかったです。
「そんなに持っていったところで、とうてい読めるわけはないのに。でも、そこに人柄がでる。あと、驚いたというと、お兄さんの建夫さんが、お母さんがつけていた家計簿を出してこられた。(羽田闘争で博昭さんが亡くなったと知らされた)あの日から数日の克明な日記になっているんですが、そこに書かれているということにいつ気づいたんだろうと思いましたね」
🌙そうか。家計簿だから気がつかないということもありうることですからね。ところで撮影しているときの体感で、これは映画になると確信するのはどういう瞬間なんですか。
「撮っている側としては、今回は早い段階でこれは映画になるというふうに感じてました。さっき言ったように最初の向さんの初日から「おれは映画を撮っているだ」という感触がありましたから。それが何かというのは、これは理屈じゃなくてね。見ていて、そう感じるというか。単にインタビューを撮っているというよりも、映画の場面を見ている感覚になるんです。ええ。撮りながら。映画によって、それは本当に初日のワンカット目からそう感じることもありますし、なかにはクランクアップ近くになって、そういう感覚が訪れるということもありますけれど」
🌙向さんのときにそう思ったというのは、表情とか、話し手の声とかですか?
「表情もそうですし。リズムの話でいうと、聞き手の代島さんと話し手とが整っているときというのは、これはいいものが撮れている。話の中身が全部わかるわけでもないですが、重要かつ興味深い話をしているというのは伝わってきますから。その手ごたえですね。だいたいそういうときに限って、代島さんが聞き手よりも多くしゃべっていたりするんですけども。それは三里塚のときから変わらないですよね。
代島さんは、ほんとうにすごく丁寧に聞くんです。ときには、話し手にしてみたら「それは言われなくともわかっているんだけど」といいたくなるようなところも丁寧に順を追って説明しつつ話していく。ただ、これはデジタルだからこそ可能になったと思いますね。フィルムだと、こういう撮り方は絶対できない。しかも撮影チームが二人というのも。こういう映画で録音部がいないというのは、なかなか大胆な試みですから」
ここで上映後の舞台挨拶の時間が近づいてきたので、インタビューを終えることにした。下の写真は『きみが死んだあとで』(代島治彦著·晶文社·6月刊行予定)の本を書き下ろすにあたり代島監督が、秋田明大さんを取材した際のもの。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。 爪楊枝をくわえ大竹まことのラジオを聴いている自営ライターです🐧 投げ銭、ご褒美の本代にあてさせていただきます。