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小説 金魚邸の娘 七

2025年 盛夏 六花 2

『おばあちゃん』──三石ゆり婦人は想像していたよりも若々しい、洋服を上品に着こなした女性だった。年齢を訊くのは憚られるが見たところ七十代前半といったところだろう。
六花は三石家の客間のソファに腰掛けて、婦人がアイスティーを運んで来るのをそわそわと落ち着きなく見守っていた。






仕事中、果穂子の顔が頭をよぎる。一人で作業する午後の配架作業中は、うっかりすると自分の世界に入ってしまう。吹き抜けのシャンデリアを見上げる時も、螺旋階段を上る時も写真で見た果穂子の姿が浮かんでしまう。六花は段の途中で立ち止まり、一階の大閲覧室を顧みる。
同じ大きさの、同じ窓枠。
同じプラタナスの樹。
ここと“そこ”が同一の場所である、という事実がいっそう身に迫って六花を動揺させる。
六花より先に生まれた六花より年下の少女。きっとこの絨毯は果穂子が踏みしめたものとは違っているのだろう。それでも、たぶん同じ階段を使って同じ手摺りに触れた。
もしかすると果穂子はここから階下を見下ろして眺めたことがあったかもしれない。六花が見ているのと同じような角度で、同じような景色を。六花は仕事着にエプロンだけれど、果穂子はワンピースやら着物姿だったのだろうか。あの写真のように穏やかな笑顔でいたのだろうか。
写真の少女は果穂子であると、六花は半ば決めつけていた。そうであるという不思議な説得力がその写真にはあった。いったん顔を見てしまうと、六花の中でなんとなくぼやけていた果穂子像は急速にフォーカスが合って、実際に存在していた人なのだという実感が濃くなる。そうするととても不思議な心持ちになった。以前から意識していない訳では無かったけれど、今まではどこか六花とは直接関係のない、おとぎ話を聞くような感覚でいた。でも、よく考えればここは昔本当に個人の邸宅として使われていて、あの写真資料で見た佐伯善彦や環や明彦も実際に存在していたのだ。時間が経っただけで、確かにここに居た人たちなのだ。地繋ぎなのだ。
果穂子はどのような人生を送った人なのだろう。佐伯家とはどのような間柄で、晩年はどんな様子だったのだろう。あの儚げな少女もその時にはお婆さんになっていて、子供や孫たちに囲まれて過ごしたのだろうか。

小学校は下校時刻を過ぎたようだった。そろそろ果音が図書館にやって来る頃だろう。図書館で宿題を済ませて、残った時間を本を読んで過ごす。そして閉館後は六花が家まで送っていく。
ここ最近の果音は宿題に取り組む時も館内を歩く時も、やたらときょろきょろしている。読書さえ控えているようだ。少し申し訳なく思う。彼女の落ち着きのなさの原因は六花の頼みごとに起因していた。『果穂子姉様を知るおばあちゃん』を見掛けたら教えて欲しいと、深く考えずにお願いしてしまったのだ。果音も何かに夢中になると一直線なタイプだから、宿題の時まで気もそぞろなのは少し心配になる。写真を見つけてから二週間ほど経つ。果音によると『おばあちゃん』は今のところ姿を見せていないらしいし、今日は自分のことに集中して良いよと言ってみようか。
一階の方でぱたぱたと誰かが駆ける音がした。静かな館内でその音は非常に響く。何事かと怪訝に思って階下を覗くと、ランドセルを背負って走る果音と目が合った。果音は六花目掛けて円い階段をくるくると駆け上がってきたかと思うと六花のエプロンをぎゅっと掴んだ。
「走っちゃだめだよ」
小声で注意して、人差し指を立てる。果音ははっと気がつき何度か頷いて、しばらく息を整えていた。
「いた」
荒い呼吸と共に、彼女はそう告げる。
「『おばあちゃん』? 」
再び頷く。
「すぐ戻るから、ちょっと待ってて、下さいって、言って走ってきた」



「アイスコーヒーの方が良かったかしら。それとも温かい飲み物が良かった? あなた、お腹は強いほう? 」
大丈夫です、と汗を拭ったハンカチを仕舞いながら居住まいを正す。三石家は白川町記念図書館から小さな通り二つ挟んだだけのごく近所の静かな場所に佇んでいた。古そうな外観だが、どっしりしていて洋風の趣がある。センスの良い調度品。きちんと整えられた室内。窓から見える庭も広くはないが小綺麗に整えられていて、イングリッシュガーデンのような雰囲気だ。普段他人の家に訪ねていくという機会がないので、こういう時どうしたら良いのか分からない。
「いいのいいの、そんなにかしこまらなくて」
婦人は明るく言って向かいのソファに腰掛けた。
「あの、びっくりされませんでしたか、突然こんな──」
言ってしまってから唐突に話を切り出したことに後悔したが、婦人は気にする風もなくゆったりと頷く。
「そうね」
そしていたずらっぽい笑みを加える。
「でも嬉しかったの」

二日前。
──存じておりますよ。
早ゆり婦人はそう答えたのだった。
果音に連れられて図書館で婦人と対面した六花はポケットに忍ばせていた例の写真を取り出して、この人をご存知ですか、と尋ねてみた。婦人は驚いたように写真を手に取って、
「ああ、右側のこの人は母ね。懐かしいこと」
骨張った指で高篠昱子を差す。
「お母様、ですか」
この人が高篠昱子の娘。それはそれで驚きだったが、本題はそこではない。
「あの、この隣の人のことは」
「勿論存じておりますよ。この方は──」
婦人はしばらく間を空けて目を細めながら写真に見入っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「果穂子姉様ですよ」
そして、あなた、お休みの日に宜しければうちにいらっしゃらない──と意味ありげに囁いた。

「百年も経てばね」
わずかに微笑みながら早ゆり婦人はアイスティーを差し出す。
「余程丈夫で運のある方でない限り、大抵は死んでいますでしょ」
「はあ」
返答に困って、六花はどうでも良い相槌を打った。
「ですから、別段しんみり語るのはよそうと思うのだけれど。母も含めて当時の方は皆亡くなっているのだし」
婦人はテーブルに積まれたアルバムに手を伸ばす。
「あなたがいらっしゃると思ったら張り切ってしまってね。何か残っているかしらと思ってあちこち探してみたの。わたくし自身も久し振りに見て、ちょっと懐かしかったわ。こちらがあなたがお調べになっている果穂子さんでしょう」
慣れた手つきで重いページのとある箇所を迷わず開く。随分古びたそれは、けれど丁寧に台紙とフィルムとの間に挟み込まれていた。
「同じですね」
思わず溜息が漏れた。
「資料の背表紙に挟み込まれていたものと、同じ」
状態が良いせいか、こちらの写真の果穂子の方が一層笑顔が優しく美しい。持ってきた写真を取り出して隣に並べる。
「時間を」
その四角い空間に吸い寄せられたのを気取ったのか、婦人は六花に話し掛けた。
「──切り取ったみたいでしょう」
婦人の表情は変わらず穏やかだ。
「昔の写真って、モノクロームだし、画質も悪いのだけれどなぜか惹きつけられるものがあるでしょう? 物語性があるというか。今とは写真に対する捉え方が違っていたからなのかしら」
「捉え方、ですか」
「そう。心構えというか、こう、気合いを入れて撮ったのよ。精一杯のお洒落をしたりとかね」
早ゆり婦人は写真をするりと撫ぜた。
「母はよくこうして愛おしそうに触りながら話していたわ。これは二人きりの秘密のパーティーをした日に撮ったものなのよ、って。なんだか思わせぶりよね」
「パーティー? 」
「そう、パーティーって。母が十八の頃と言っていたから、ひとつ年下だった果穂子姉様は十七ね」
果穂子姉様が写っている写真はこれ一枚きりよ、婦人の深い皺が刻まれた、でも美しい指に見惚れながら六花は聞き入る。
「子供の頃はね、果穂子姉様についてそれほど知っていた訳ではないの、わたくしは一度もお会いしたことがなかったし。時々娘時代の思い出話として聞かされる程度でね。母が果穂子さんのことをよく話すようになったのは、そうね──痴呆を発症し始めた辺りからかしら」
痴呆。あの輝くような笑顔の美少女が歳を取り、痴呆になる。人は皆平等に歳を重ねて死んでゆくと知っているのに、なぜだか俄かには受け入れられなかった。昱子は三十年程前、九十一歳で亡くなったのだという。
「随分長生きしたでしょう。これは米寿のお祝いの時のよ」
別のアルバム帳を開いて見せてくれたその写真には、早ゆり婦人を含む何人かの人達──恐らく子や孫達──に囲まれて真ん中の椅子で微笑む老婆がいた。当然ながらカラー写真で、柔らかそうな白髪に目がいく。明るい色のカーディガンもよく似合っていた。
「子供の頃から、母が美人なのが自慢でね。子の欲目かも知れないけれど、歳を取っても母はずっと綺麗だったと思っているの」
「私も、そう思います」
確かにその顔は皺深く、少女のままの美貌を保っている訳では無い。けれど、完璧な弧を描いた唇は変わらず彼女の魅力を引き立てていた。果穂子とはその後どうなったのだろう。
「母と果穂子姉様は御相手だったのよ」
「おあいて?」
「要するに家柄の釣り合う親公認の同性の遊び相手ね。元々は華族の方々のしきたりだったらしいけれど。昔は学校にいくら気の合うお友達がいたからといっても、家柄によってはその娘さんを必ずしもお家に呼んで遊べるわけではなかったようなのね。佐伯家と高篠家はお互いの家柄が釣り合っていたから。初めて会ったのは母が七つの頃だったらしいわ」
母と果穂子姉様は元々そういう関係だったの──婦人の説明を六花は不思議な気持ちで聞いていた。家柄が釣り合う者同士のお付き合い。佐伯家と深い親交があった高篠家。
「──ということは、果穂子さんはやっぱり佐伯家の娘さんということなんですよね」
「ええ。佐伯果穂子さんとおっしゃるもの」
それならば、どうして果穂子は佐伯家の娘としてどこの資料にも出ていないのだろう。どの本を調べても佐伯家に子供は一人、息子の秋彦だけとしかなかった。見落としたとは思えない。
その不可解さに婦人に目を遣るも、それに気づいたはずの彼女ははぐらかすように、あら、お喋りが楽しくて喉が渇いてしまったわ──とアイスティーに手を伸ばす。六花も彼女に倣って冷えたグラスを手に取った。不自然な沈黙が流れる。六花はストローでグラスを掻き混ぜる。カラカラと、涼しげな氷の音だけが辺りに響いた。
「──果穂子姉様のことは、どうして? 」
どうして彼女の事をお調べになっているの──沈黙を破って、婦人がそっと尋ねた。
「日記を見つけたんです」
「日記? 」
顔を顰めて聞き返される。
「本当に偶然で。偶然、閲覧用大机の裏にびっしり日記が書いてあるのを見つけて。びっくりしたんです、あんなところに日記があるなんて。そうじゃなければ果穂子という人の事なんか知らなかった──早ゆりさんはご存知でしたか、日記のこと」
「いいえ。初めて知ったわ。──そう、日記が」
そう──と繰り返して、どんなことが書いてあったのかしらと尋ねる。
「それが、まだあまり詳しくは読み込めていなくて。言葉遣いも難しかったですし、 何よりあそこは常に人がいてじっくり見る機会があまりないんです」
「そうなの。残念」
婦人は溜息混じりに相槌を打つ。
「それでも、昔のものだというのと、果穂子さんという人が書いたものだという事は目星がついたので、それからずっと佐伯家の資料を調べていました」
「そう」
調べても見つからなかったでしょう──婦人がさらりと言う。
「だからこそこうして此処に、わたくしの家にいらしている訳だものね」
あそこの資料を調べても無駄よ、いかにもきっぱりとした調子で婦人がそう口にするので、思わず唾を飲み込んだ。
「あの」
それは、早ゆりさんがその詳しい事情を知っているという事でしょうか──六花は無意識のうちにソファーから身を乗り出す。
「いえ、知っていらっしゃるんですよね。それを話して下さるつもりで、だから私を誘われたんですよね」
婦人は六花を正面から見て、確と頷いた。
「ええ、そうね。そのつもりよ」
穏やかな口調とは裏腹に、婦人の笑顔が硬くなる。そしてそのまま二つ並んだ白黒の写真に目を移して、
「その写真。資料本に忍ばせたのは、恐らく母でしょうね」
そう言った。
「昱子さん? 」
「母は果穂子姉様を居ない事にしたくなかったのね、きっと」
お母様の願いは叶ったのかも知れないわ──婦人は六花が持ってきた方の写真を手に取り六花に返す。




「果穂子姉様はね。十九歳で亡くなられたの」
息を呑む。顔色一つ変えずに婦人は続ける。



「その後、佐伯家の奥様が佐伯家の歴史から果穂子姉様の存在を消したのよ」







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