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酒は喉には良くないけれど

年度末をこんなにも寂しいと思ったことなどなかった。

合唱部員たちはもんじゃ焼きの店で定期演奏会の打ち上げをしていた。私は内気な1年生で、コミュニケーションに苦労することも多く、特別いい声をしていたわけでも技術があったわけでもなく、ただ邪魔にならない範囲で声を出しながら、先輩方に守られていた。

あとひと月もしないうちに3年生の先輩方はそれぞれの大学がある街へ旅立つし、(勧誘が上手くいけば)後輩が入ってくる。

もんじゃをつつきながら演奏会の準備やこれまでの思い出、そして3年生の進路や次年度以降の部の体制などについて思い思いに語る。放っておけば話に入るタイミングをいつまでもつかめないであろう私に、周囲の部員たちはときどき食べたいものを尋ねたり話を振ってくれたりする。

先輩という人種とこれほど深く関わったのは初めてのことだった。兄姉も年上のいとこなどもおらず、年上の子どもと知り合う機会はもともと少ない。中学校では美術部に所属していたものの、活動上必要とされるコミュニケーションは極端に少なく、しかも3年間ヒラ部員だったため先輩との関わりは薄かった。図書委員となったのは1つ上の先輩が引退したあとのことだった。

中学卒業まではバリアを張りながら過ごしていた。話しかけ方も話しかけられ方もろくに知らなくても特に問題はなかった。よく知らない人と話すことは、何かを得る可能性より何かを失ったり傷ついたりする可能性を高めることだと思い込んでいたし、その思い込みは当時はある程度事実だった。いつしかバリアは分厚く強固になり、周囲にも、本人にも壊せなくなっていた。

合唱部の同期と先輩方が、そのバリアを壊しに来た。殴って破壊した人もいたし、レーザーで穴を開けた人もいたし、なんか知らないけど通り抜けフープを使って内側に入ってきた人もいた。そこで私も楽しくなってきてしまって、嬉々として内側から壁溶かし薬品をぶっかけた。人と関わることは何かを得る可能性を高めることでもあると、彼らが教えてくれた。

自分がこのような温かさの中にいるのが信じられなかった。昨年の今頃は中学卒業の感慨にむせぶこともなく淡々と高校入学の準備を進めていした。新しく買ってもらったスマホに入れた連絡先の数は一桁だったし、それを寂しいとも思わなかった。小学校の統合や転校など、小さな町の同級生より少しばかり多くの出会いと別れを経験していたためか、いつだって出会いには多少の期待をしていたけれど、別れにはそれほど感傷を抱いたことがなかった。仮に一人きりになっても、特にダメージはないだろうと思っていた。

合唱部の彼らが人の温かさを思い出させてくれた。私の目を見て話してくれた。私の話を聞いてくれた。一度温かさを知ってしまえば、一人きりの冷たい風の中に戻るのは本当に辛い。でも人間ときちんと関わるには、いささかブランクが長すぎた。先輩方のいなくなった空間にかつての温かい部屋を作り上げ、まだ見ぬ後輩たちを迎え入れる自信が私にはなかった。

それでもあの日、先輩方と最後に同じ食卓をつついた日、高校入学以降に合唱部関係で私が下した無数の決定は何一つ間違ってはいないと思ったし、先がどんなに不安であっても進んでいける自信、進んでいこうという勇気が静かに立ち上がった。

その後の1年半、力及ばずながらも全力で部に関わった。上手く支えられたなんて全然思えないけど、外界との間に張ったバリアを少しだけ上手くコントロールできるようにはなった。部活をやりきった経験や後輩への思いがなければ大学受験を成功させることなどできなかっただろう。合唱部入部からきっかり3年後、私は(すでに半分以上顔ぶれが入れ替わっている)部員たちに再会を約束し、学校を去った。

定期演奏会は毎年3月下旬。大学1年の年末年始を下宿先で過ごすかわりに、定演に合わせて帰省すると家族に連絡した。2019年の秋のことだった。数ヶ月後、定演中止の連絡が来てすぐに、帰省を取りやめた。それは卒業以来会っていなかった合唱部員たちに会うことを諦めることでもあった。

はじめて寂しいと思った。会いたいときに会えると思っていたからこそ卒業による別れが平気だったのだと知った。それ以来、合唱部員や元合唱部員とは誰とも直接会えていない。

あのとき1年生だった私も成人した。他の同期も3月までに全員20歳を迎える。酒の飲み過ぎは喉に良くないと聞くし、みんなが飲めるわけじゃないだろうから、ちょっと加減するけど。

次に会うときは、乾杯しましょう。

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