日本人は価値ある仕事を国外に出し、働かなくなって、当然のように貧しくなった
2000年と22年を比べると日本は年間200時間以上労働時間を減らしている。アメリカはほとんど変わっていない。欧州各国はもともと労働時間が短かいが、減らし方は日本より緩やかだ。かつて働きバチと言われた日本人。資源がないため、ものづくりに励み、技術立国、貿易で外貨を稼ぐしか生き残る方途はなかった。ところが90年代、アメリカから貿易不均衡の原因は不公正な働き過ぎという労働慣行であり、失業を輸出している、だから時短と現地生産を進めるよう言われ、素直に信じてそのようにしてきた。
その結果、多くのものづくりの現場がアメリカに移転し、次の世代はかつての働き蜂のようには働かなくなった。
日本でも生産性はそこそこ上がっているのに、ひとびとが働かなくなったために(すなわち労働投入度が下がったために)、実質GDPは最低の伸びにとどまるようになってしまった。「親の世代より貧しくなった」と不満をいうのだが、親の世代より働いていないのだから、これは当然の帰結ではないだろうか?(アメリカから日本が働きすぎ、失業の輸出と批判されていた90年代、時間管理されている製造業であっても年間総労働時間は2300時間を越えていた。一方、為替は95年に80円を切るほどの円高。当時、世界の株価時価総額トップ10の大半は日本企業。ロックフェラーセンターを買ったりハリウッドの映画会社を買ったりということが世評をにぎわした。日本人はエコノミックアニマルと軽蔑されなくなり、敬意をもってリッチと見上げられる存在になった。要するにRising SunでありJAPAN as No.1だったのだ。)
今日図書館を訪ねると、書架には休むことを勧める特集コーナーがあった。「とにかく休め」だそうだ。コロナが在宅勤務に拍車をかけた。アメリカではグーグルやアマゾンも出社を再び推奨するようになり、イーロン・マスクはDOGEの募集で週80時間無償で働く人材を求めている。日本ではいまだにブラックだゆとりだと働くことを悪のように批判する。東京都では役人に週休3日導入するのだという。今ごろかつての英国病、ソ連病にかかってしまったのだろうか?
2001年に中国がWTOに加盟すると、日本の企業はこぞって中国進出した。今や1万数千社が現地で事業を行っている。筆者は90年代にアメリカで、2000年代に中国に駐在したが、当初現地化したのは第一線の生産や販売に従事するものだけで、マネジメントは日本人出向者がになっていた。今日では幹部からトップまで現地人がそのポストに就いている。しかも、安定した日本国内と異なり、滑った転んだの現地事業を切り盛りするうちに、日本人より現地人の方がずっともまれてたくましくなった。
同じ頃、事務系の仕事や技術系の仕事が大連やベトナム、インドというオフショアに移転した。コールセンターや判例のデジタル化、設計業務などホワイトカラーの業務系の仕事が、インターネットやCADなどテンプレート設計の進化に伴い、労働力が豊富で賃金の安いアジア各国に流出した。
研修生制度によって国内でも、いわゆる3Kと言われる現場の仕事がアジア各国を中心とした外国人によって担われている。工場、建設、運輸などエッセンシャルな仕事である。日本人にはもはやbull sit jobしか残っていない。
そしてAIの進化だ。最近筆者を驚かせたのは、ChatGPTからお礼を言われたことだ。西洋哲学と仏教の相互関連についてエッセイを書くため問答を繰り返していた。終わりにこちらから「ありがとう。助かった」と入力したところ、「こちらこそ刺激的な思考に参加できて楽しかったです。お礼申し上げます。またお役に立てれば幸いです」とコメントが返ってきた。
コミュ力に乏しい最近の人間を使うより、AIとともに働く方が気分がよい、教え甲斐がある、と感じる経営者やビジネスオーナーが増えていくのではないか?
働くことが好きな人たちを「働きバチ」「ワーカホリック」果ては「ブラック」と揶揄する風潮が止まらない限り、次の世代はさらに貧しくなり、日本は長い闇夜へと没していくのであろう。そうならないことを祈るばかりだが、もう手遅れだと危惧している。