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なんか、嫌なこと

私は実名のFacebookアカウントを所有しているのだが、SNSの中で、一番意味を成していない場所になっている。実名でリアルな繋がりはかなり少なく、ただ独り言をブツブツ語ってるようなもので、数十名の友人はいるものの、いつもキレイに無反応で、わろける。

でも、過疎ってる中で書く文章ってのも、何故か小気味よかったりもする。だが同時に、進展・発展が無いだけに将来性の無さを感じる。

他人のFacebookを見てると、日本人の特徴なのか、こんな話題はFacebookで書くのは申し訳ない、などと、軽くお断わり・陳謝している人も散見されるんだが、別に何書いたって構わんと個人的に思うが、なんかダメな理由でもあるんかねぇ…。

公私という二面性は誰でも持ってるのに、日本人って、公私を使い分け、意識しないと表現できない恐怖を、強く抱いてるんだろうね。ならば、ひとまとめで知り合い・友人を集約させてるFacebookって、要らんと思うわけよ。

嫌なら嫌、納得できねぇ、というのなら堂々と言えばいいのに、誰かに気を使わないと人間関係が壊れることを恐れてるのか…、もしくは、自分の意見や話を書き殴って、アイツ気に入らねぇ!ってなり、リアルな世界にまでそれを反映させてくるんなら、そんなの友達じゃねーよ。立場的に損か得か、だけの知り合いだろ、そんなの。

Facebookの「友達」って言葉に酔っちゃいかん。

絆レベルで繋がってる人、
縁で繋がる人、
利得で繋がる人、
学校での同級生、

それぞれ人間関係の距離感違うわけで、距離感が違う奴らが、ひとつのアカウントへ集めて繋がってるもんだがら、もはやどんな距離感で書けばいいかわからん、ってなることもあるかも知れんな。

誰にでも、これを表現してみたい、というタイミングはやってくるはずだが、誰かに気を使わないと伸び伸びと表現できず、躊躇するのなら、SNSって、良いんだか悪いんだか、わからんものだな…。

だから、屈託なく自分を伸び伸びと、好きなタイミングで表現できる形式として、顔知らぬ匿名に流れるんだな、多分。

私的に、リアルな私とネット表現の私を繋げたくない理由は、日本人の隠匿行為、カッコつけ、他人を強烈に意識した公私の使い分けを必要とする空気感、独特な文化スタイルが、私の表現意欲を殺すからだ。

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