見出し画像

鷗外とその家族⑥ 怒りと静けさの筆致の間で 作家の顔を持つ鷗外妻・志け

 森鷗外の二番目の妻、志けは気性が激しく、鷗外が夫婦のやりとりをモデルにした短編小説「半日」を発表したことで、世間に悪妻として知られている。その汚名が今日にまで残っている不運に比べ、彼女が明治の一時期作家として活動していたことはあまり知られていない。

 志けは気が強かったが、嫁ぎ先で同居していた義母・峰(鷗外の母)も我が強かった。二人は衝突し、志けはヒステリーを起こして不満を夫にぶつけていたが、鷗外はこれを小説にしたのだった。

 志けが作家活動を始めたのは、日々怒りを撒き散らす妻に辟易した鷗外が、「君、そのエネルギーを創作にむけてみたら」と勧めたことがきっかけだった。

 もとはといえば、いつまでも家庭で采配をふるい続ける母に頭が上がらない夫の優柔不断さが、志けの不満の原因であったのに、いくら怒りの度がすぎるとはいえ、頭を冷やすために小説を書けと転化する鷗外はどうかと思う。鷗外も鷗外だが、「ふん、ひとつやってみるか」と思う志けもなかなかのものである。

 志けの原稿は鷗外の添削で真っ赤になったという。もしかすると鷗外は、この創作を一種の精神的な療法というか、セラピーのように扱っていたのではないか。

 志けは鷗外同様再婚で、一度目の結婚は夫の女性問題が原因で短期間で終わっている。短編「あだ花」では結婚前から噂されていた情婦と夫の関係が切れておらず、結婚初日にそのことを悪びれもしない夫の口から聞かされた、新婚生活が淡々と描かれている。鷗外は添削を通じ、妻の心にあるものを探ろうとしたのかもしれない。

 長女・茉莉はエッセイの中で、父(鷗外)は母のヒステリーの原因は最初の結婚にあったと考えていた、と記している。一方次女の杏奴は、お母さんのヒステリーは、お父さんが結婚後は家を出る(両親らと別居する)という約束を守らなかったからだとしている。


 志けの三人の子供たちは、自著の中で母の欠点を認めつつも、母の率直さ・正直さを美徳とみなしている。他方、前妻の子であり、志けでなく鷗外を育てた豪傑・峰に養育された長男於菟は、義母のこの性質について、少し違った見方をしている。

 志けの激しい感情の集中砲火を浴びてきた当事者として、正直といえば聞こえはいいが、それは単なる幼児のわがままであると言い切り志けの精神年齢の低さを指摘している。一方その神経の鋭さについて、誇大な例えだと断りながらも「芸術的な素質」を見出し、思慮より直感的な好悪に行動が支配されているとも分析している。志けの作家活動のことをふまえてのことだろう。一歩引いたところにいた於菟らしい、客観的な指摘である。

 志けの実子の三人は、エッセイを通じて母への愛を表明しても、母親の著述活動については触れていない。志けの性質を芸術的資質と結びつけて論じているの血のつながらない於菟だけだ。


 志けの子供たちは、鷗外が四十を超えてできた子供だったこともあり、鷗外が亡くなった時、十分な大人になりきれていなかった。長女・茉莉(まり)は19歳、女学校を卒業して既に嫁いでいたが精神的には未成熟、その下の杏奴(アンヌ)、類(ルイ)は13歳と11歳だった。

 茉莉は離婚して社会的な基盤を無くし、下の二人も父親の庇護を失った味方の少ない母の元、学業も芸術も中途半端なまま、父に愛されたプライドを胸に作家としての地位を打ち立てるのに腐心していたようなところがあった。

 一方、父・鷗外を育て上げた教育熱心な祖母・峰に育てられた於菟は、途中優秀な父との比較で自信をなくして道を見失いかけるも、無事大学を卒業し、最終的には医学部の教授になった。

 彼の著作は森家の長男として、父に関する記録を後世に残そうとする趣旨が強く、個人の記憶に頼りつつも、学者らしく資料を引用するなどして客観的な記述を心がけている。

 これは私の推論だが、三人は自身が芸術家(作家)であるという自負があることとで、かえって母親の芸術的資質を軽視、見落とすことになったのではないか。
 
 鷗外はまさか妻が作家として大化けするとは思っていなかったと思うが、妻の中にある種の文学性を見出していた可能性はある。鷗外が軍医として従軍した日露戦争中に詠んだ詩歌を編んだ「うた日記」には、初めて海へ連れて行かれた茉莉が、波を怖がって泣く様子を詠んだものがある。これは娘の様子を知らせる妻の手紙がもとになっている。


 鷗外の死後、志けは杏奴と類を絵の勉強のためにパリへ送り出し、子供たちに頻繁に手紙を書き送った手紙を読むと、その文体がよく分かる。
  多くが「今、目が覚めた」で始まる手紙は、現代のそっけない男の恋人がよこすメールのようである。行政文書のような簡潔さだが、今日の出来事、会った人、その時々の所感が飾らない文体の中に過不足なく浮かびあがり、判事の娘であった志けの、理知的な一面が浮かびあがってくる。

 夫から自分だけが愛されることを深く激しく求め、そのために周りとの対立が絶えない志けだったが、自身の筆で世間から認められたい、という欲求は希薄だったように思われる。とある編集者に自身の小説の話題を向けられた時は「あれはパッパ(鷗外のこと)が書いたようなもの」とそっけなかった。

 長女・森茉莉のエッセイには今日も多くのファンがおり、鷗外・志け夫婦について書かれたものも人気だが、その中の一つに鷗外が日露戦争から凱旋した日を描いたものがある。
 これは娘の執筆の材料になれば、と志けが語って聞かせたもので、夫不在の母娘二人の心細い暮らし、深夜に夫が帰宅して家の戸をドンドン叩いた時のうれしさなどが、茉莉の優美な文章によって情緒豊かに描かれている。

 同じエピソードは「最近茉莉に話したのだが」と、パリにいる杏奴と類に宛てた志けの手紙の中でもつづられている。
 表現こそ簡潔であれ、構成は茉莉のエッセイとほとんど同じである。志けに物語を語る素質が十分にあったことがうかがえる。

 当時茉莉は離婚して実家に戻っており、エッセイや小説がまだ世に認められていない時期であった。自身でもそれを書くことはできたのに、ましてやそれは夫との大切な思い出なのに、その素材を娘の作家としての成功を願って惜しげもなく提供するところに、志けの気質が垣間見られる。

 
 志けの作家としての活動は近年見直されているのか、「森志げ全作品集」が2022年に京都の出版社より刊行された。また島根にある森鷗外記念館より家族資料として、1910年に刊行された「森志げ小説全集」の復刻版が平成24年(2012年)に刊行されている。
 年長者を敬い、家長夫制が色濃い明治・大正期において、一人の女性としての自我が強すぎた志けの人柄や著述が、現代的な視点で見直されれば、色々と面白い発見があるかもしれない。

***
鷗外の妻・しげの表記には「茂」「志げ」「志け」などがあります。
このシリーズでは森茉莉がエッセイで用いている「志け」を採用しています。

参考図書:
父親としての森鴎外 (森於菟、ちくま文庫)
鷗外の遺産 2 母と子 (小堀鴎一郎, 横光桃子 編、幻戯書房)
「森志げ小説全集」(森鷗外記念館)
晩年の父 (小堀杏奴、岩波文庫)
ベスト・オブ・ドッキリチャンネル (森茉莉、ちくま文庫)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?