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#3 はじめて命を奪った日のことを思い出す。


イノシシの毛皮は柔らかいけど、油をゴム膜が覆っているようにグニグニと攻撃を吸収しやすい。だから、胸に対して垂直に刃物を突き立てなければいけない。先輩はやはりその点慣れているようで、胸の真ん中にしっかりと刃が刺さった。人間でも心臓の位置は左胸と言われてはいるが、実際はほとんど正中線からずれていない。哺乳類も同じだ。


深く刺さったまま10秒程度かかっても、イノシシはまだじたばたと活発にもがいている。目に見える出血はほとんどない。悲鳴よりも吐く息のほうが多くなってきているが、動きが鈍くならない。ずっとしんどい思いをしているのを見ているこちらもいい気分にはならない。


早く楽にしてあげなければいけない。
先輩はなるべく心臓を深く傷つけられるように突き立てた槍をねじる。急に傷口から血液が大量に垂れ、イノシシの動きも次第におとなしくなっていった。





ハコ罠から移動して車両に戻る。僕はゴム手袋を持っていなかったので、獲物を運ばせてもらうことはできなかった。野生動物には野生のダニがついている可能性が高い。寄生されると、ざっくり言うと感染症が厄介なので触るのはリスクがあるのだとか。先輩が運んだけど
やっぱり重いのか、落ち葉の上を引きずりながら運んでいた。すでに血の匂いが濃い。


車両まで運び終えた。そのまま荷台に積むのかなと思ったが、荷台から師匠がコンテナを取り出し、中に入っていたガスバーナーを2つ取り出した。僕と先輩に手渡してくれる。


これはどう使うのか知っている。先輩はさっさと毛の部分にバーナーの火を当て始めている。件のダニの寄生のリスクを減らすため、毛と一緒に皮膚をあぶるのが目的だ。僕も先輩と一緒になってイノシシの全身をくまなく炙る。四肢の付け根は見落としが多いのでしっかりめに。ちりちりと毛が黒くちぢれたぶん、作業が終わるころには少し個体が小さくなったように見えた。表面をさすると煤が手につく。


最低限の処理は終わったので、イノシシはコンテナに入れられ、荷台に積まれる。山を下りたらすぐに完全な血抜きをしなければ肉の味が落ちるので、気は抜けない。





さっさと下山すると、体重を測った後(若い個体なので17.5㎏)すぐに放血作業に入る。肉を販売するのであれば保健所に認可された施設でないといけないが、師匠は趣味で捕って趣味で食べる人なので密集していない私有家屋の人目につかない軒下で放血作業をする。


師匠はまず、止めさしをした胸の傷から下のほうに皮を薄く裂いていく。最初からざっくり刺してしまうと腸が傷ついてしまう。お肉に腸の内容物をぶちまけてしまうと相当悲惨な結果になるため、まずは無傷でワタ(内臓たち)を取り出すことに苦心しなければならない。
師匠と先輩はさすがに慣れているようで、さくさく取り出して腹膜に包まれてまとまっているワタをバケツに入れていく。ずっしりしててやわらかい、一抱えもある内臓たちは巨大なスライムのような感触がした。ただし結局は肉塊なので重さは全然スライムではなく、かなり重い。


「ほら見て、一突きだ」
先輩が僕たちに心臓を見せてくる。血色の良い心臓が大きな切れ込みによってぱっくり割れていた。先輩は獲物に一度しか刺していないので、命中精度の高さを自慢しているのかと最初は思った(実際すごい)が、そういう意味ではないらしい。今回のように止めさし後もしばらく獲物が苦しんでしまうときには止めさしがうまくいかなかったことが疑われるが、そうではなかったでしょ、ということだ。


心臓を突かれて何十秒ももがく生命力は狩猟者からするとかなり恐ろしい。今回の獲物は小ぶりだったけど、もっと大きな獲物がハコ罠ではなくくくり罠にかかった場合、シンプルに互いの命のやり取りになる。くくり罠にかかった自分の脚を自力でちぎることもあり、しかもその程度では死なずに生き長らえていることも多い。止めさしの腕が重要なのは、獲物を苦しませないという理由だけからではないということだ。


野生動物の内臓を食べるかどうかには個人差がある。師匠が洗浄に膨大な手間がかかるためほとんどの狩猟者が食べない腸と一緒に肝臓と心臓がバケツにダンクされているのを僕は見逃さなかった。


『肝臓とか心臓とか食べないんですか?』
『ああ、わしらはあんまり———』
『ください』
かなり食い気味にお願いした。
『え、別にいいけども』


予想外の食いつきに、師匠は若干引いていた。ここまで内臓をねだる人間も珍しいだろう。たいていの人はねだるにしても肉だろうが、僕は勝手に猟にひっついていった分際で師匠本人の目的であるお肉のおこぼれにあずかるなんてことは申し訳なくてできない。ただしそのかわり、猟師が好んで大量に食べない部分は、要らないのであればもらおうというスタンスをとることにした。


そもそも内臓は好き嫌いが分かれる。そして味が好みにあったとしても、一頭からとれる内臓は家庭で調理するには多すぎることがほとんどだ。例えばレバーなんか、今回の小ぶりの個体からとれたものでも1.5㎏ある。一人暮らしなら全部消費するのに一週間くらい食い続けなければならない。調べてみればわかるが、そんな食生活していたらビタミンAの摂りすぎで体に負担がかかってしまうし、レバニラなど肴として優秀な調理をしてビールと合わせれば、痛風持ちになる人もいるかもしれない。


素材自体は栄養たっぷりなだけで問題ないけど、何せ量が多いのだ。師匠みたいに自分で食べるタイプの猟師にはありあまる部分になってしまうのだろう。


ただ、僕には明確な欲求があるのだ。
一度野生動物の内臓を食べてみたかった。『ネイチャーポケット@カメ五郎の狩猟日記』の影響である(サバイバル愛好家のカメ五郎という人が罠猟をしながら自給自足ですごす企画であり、令和2年でもYouTubeに最新の動画が活発にアップされている)。カメ五郎さんは罠で獲物がとれるたびに、竹串に刺したハツやレバーを焚火で焼く『内臓パーティー』を開催する。こんがり焼いた内臓たちを、川のせせらぎや焚火などの自然音を聞きながらたらふく食べるのだ。何度も視聴しては心底うらやましく思っていた。コメント欄には山のごちそうを一度味わってみたい同志たちの刺激された食欲が言語化された文字列にあふれる。『ただ旨そう』なのではなく、『旨そうなものは命をいただいているものである』ことを映像でもって学べることに感謝するコメントも多い。


日記のように3回にわたって初の狩猟の経験を血生臭い部分ももらさず綴ってみたが、僕が伝えたいテーマはそこに集約できると思う。

食べることは奪うこと。
生きることは奪うこと。
僕ら人間が今日を生き延びるために家畜と農作物は死ぬ。僕らが生き続ける間、死に続けている。

人間の人生に悲観的になる必要はないというのもわかっている。人間の営みも食物連鎖の範疇だから。

でも、仮にも命を奪う現場を知る人間として、食べきれない量の食料を生産しては廃棄している社会の現状に何も思わないといえば嘘になる。子供たちに本当の意味での『いただきます』を教えられる大人はどのくらいの割合いるんだろうか。僕は大学生のクソガキながら勝手に不安がっている。

本来はこんな真面目なことを書く予定ではありませんでしたが。笑
次回からも思ったことをそのまま書いていこうと思います。
それでは。

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