見出し画像

日本経済と日銀ヒストリー②

引き続き動画・noteをご覧いただきありがとうございます。

前回まではバブル崩壊後の経済政策の迷走を振り返りました。

最後は不祥事により総裁が辞任となり、日銀は改革待ったなしの
状況に追い込まれたと言っていいでしょう。

そんな逆風の中、日銀はどのように難局に立ち向かったのかを
解説していきたいと思います。

“独立性と政府との軋轢”


第28代 速水優(1998年3月~2003年3月)

◆混乱の中での総裁就任


前任の松下氏が汚職事件の責任を取り辞任しましたが、後任人事は一筋縄ではいきません。
汚職による逮捕者まで出たため、批判が殺到する中でそういった不祥事とは無縁な人が当然必要でした。

そこで白羽の矢が立ったのは、速水優氏です。
速水氏は日銀理事となったあと1981年退職し、妻の父親が創業者の一人であった日商岩井(現双日)の専務取締役に就任し、1984年には社長、1987年には会長と社会的地位を確立していました。
加えて速水氏は敬虔なクリスチャンであり、20歳から礼拝を欠かさないほどでした。

経営者としての経験と崇高な精神という現状において最も日銀総裁に求められている資質を持った速水氏はまさに適任だったと言えます。
しかし、日銀を退職して17年経過していることや日商岩井在籍時の業績が決して良好ではなかったこともあり、一部で不安視されていました。

1994~1999年3月期の日商岩井業績
利益率は1%を下回っており、有利子負債圧縮の道はかなり遠い

速水氏が退任した1998年までとその直後の1999年の日商岩井の収益です。
6年間のうち2年間は赤字、しかも1999年には多額の赤字を計上し、自己資本比率は3.5%まで低下します。
バブル崩壊に伴い保有する有価証券が不良化し、評価損が膨らんだことが原因でした。
つまり、速水氏在任中この含み損を抱え続けていたということでもあります。
日商岩井は1999年3月時点で売上高8.7兆円に対して有利子負債が3.3兆円とかなり過大な水準で、かつ不動産や有価証券に向けられていたため現預金水準は低位であり財務体質は脆弱。
しかも上記の通り利益水準は低く、有利子負債の圧縮はかなり難しい状態でした。
結局同業のニチメンと2004年4月合併し、双日株式会社が誕生。
結果論ではありますが、速水氏の日商岩井経営は残念ながら良好なものとは言えなかったのです。

◆続く景気低迷とゼロ金利


速水氏は就任後、バブル崩壊後の経済回復が遅れていたため1998年9月政策金利を0.25%まで引き下げました。
それでも景気悪化が止まらなかったため、速水氏は1999年2月ついに
「ゼロ金利政策」に踏み切ります。

長期的に見ても、日本は低金利が続いている

※ゼロ金利政策とは
政策金利を0.15%へ誘導することを目標とし、その後より低くしていくことを目指すものです。
最初からゼロ金利にするのではなく、あくまで段階的にゼロ近辺にまで誘導するという慎重な手法です。

2000年3月にコールレートは0.02〜0.03%の超低金利で推移するようになります。
この低金利が功を奏し、2000年3月国内卸売物価指数は前年同月比で+0.1%とわずかながら上昇しました。
2年1か月ぶりのプラスに転じ、日本経済は緩やかなデフレからの回復の兆しを見せます。

実は2000年時点では物価下落は止まらず、デフレは長期化した


◆ゼロ金利解除をめぐる攻防


しかし速水総裁はゼロ金利政策に対しては元々否定的でした。
ゼロ金利にすると利下げによる緩和ができないため、更なる景気後退時に打つ手がなくなってしまいます。
日銀としては常に利下げという手札を残しておくため、ゼロ金利はなるべく早く解除し、余力を持たせておきたかったのです。
また速水総裁は”いいデフレ理論”を掲げ、個人としてもゼロ金利解除にかなりこだわりがありました。

※デフレとは
一般的に、デフレは”貨幣の価値が上がり、物価の価値が下がる”状態のことを指します。
1999年以降日本はデフレ傾向にあり、CPIは1999年前年比▲0.5%、2000年同▲0.5%と1999年から始まったマイナスは2005年まで続いていました。

今では世界的に年+2.0%のインフレが理想とされており、デフレは物価低下だけでなく経済の収縮も伴うという意見が多くなっています。

なぜなら、物価が下がることでモノを売ったとしても企業の収益は減少し、従業員に支払われる賃金も減少するからです。
賃金の減少は購買意欲の減退につながり、それによって企業業績が悪化。
最悪リストラや倒産で雇用そのものが失われてしまうことになります。
いわゆるデフレスパイラルですね。
日本が長年デフレにより経済成長が停滞した理由がまさにここにあります。

◆いいデフレ理論とは
一方速水総裁は、在任中デフレが進行したにもかかわらず容認を続け、大規模な金融緩和には踏み込みませんでした。
なぜなら、新商品の価格低下などデフレの中には良性もあるという
“いいデフレ理論”が当時存在し、速水氏はそれに倣ったと言われています。

「生産性向上に伴う物価低下は歓迎すべき」・「日本の高価格が是正
され、デフレにより買いやすい環境になることは望ましい」といった
いいデフレ理論の意見には正しい一面もあります。
 
速水総裁は実際に2003年3月「最近の物価下落は、情報通信分野の技術革新などの変革を背景とした『良いデフレ』に分類される」といった趣旨の発言をしています。
実際この時期はパソコンなどの技術革新による価格低下が進んでおり、多くの人に低価格で高性能製品に手が届きやすい状況となっていました。
この頃パソコンが急速に高性能化・小型化していったのを私も鮮明に覚えています。

しかしながら現在“いいデフレ理論”には否定的意見が多いのが実情です。
理由としてはいくつかあります。

①先に述べたように、特定の商品価格が下落したとしても、余剰資金が
 別の商品に向かうため物価全体の下落にはつながりません。
 Aという商品が値下がりしても、Bという商品に人気が集まって
 価格が上がればプラスマイナスゼロですね。
 デフレによる個別商品価格の下落よりも、企業業績悪化や賃金低下
 などの悪影響のほうがはるかに大きいです。
 日本はまさにそうでしたね。

②他国と比較して価格の高い商品(A)があったとして、規制緩和により
 価格が国際水準まで下がったとします。
 農作物で該当するケースがありますね。
 一方で輸入の増大によって価格が変動するわけでないサービス業の
 価格(B)が元々高い国の場合、他国と比べて全体の物価が高くなることが
 あります。
 現在のインフレが進んだアメリカがまさにこの事例です。

 このAとBの生産性に差がある限り、他国との物価の差がなくなるこ
 とはありません。
 たとえBが高かったとしても、あくまでBの生産性の高さに起因した
 ものであり、物価全体が下落したからそれにつられてBも下落する
 ことはいいとは言えません。

 例えば皆さんが加入している動画配信サービスは、ある程度の価格
 ですがそれはサービス内容に納得しているから支払っていると
 思います。
 それが物価全体の下落に影響されて値下げすることはユーザーから
 すればありがたいことかもしれません。
 しかしながら値下げにより企業の収益は低下し、賃金の停滞など経済
 への悪影響は避けられません。  
 つまり、デフレは“購入するハードルを下げる”効果よりも“賃金を
 下げる効果”のほうが強いわけです。

現在では否定されているものの、この考えを背景に速水総裁はゼロ金利解除を模索し、2000年8月にとうとうゼロ金利を解除。
政策金利を0.25%に戻しました。
消費者の購買意欲が回復半ばであったにもかかわらずゼロ金利を解除したため政府や経済学者などから異論が噴出しましたが、ゼロ金利解除は強行されました。

ゼロ金利解除に関して政策委員会の政府代表より議決延期請求権が行使されましたが、反対多数で否決されました。
政府としては解除は時期尚早という考えでしたが、日銀はあくまで解除にこだわります。
この背景には、一つにゼロ金利政策はあくまで緊急措置としての施策であり、市場の競争原理を阻害しているという速水総裁の強い意志がありました。
金利はあくまで市場の需給によって決まるもの。
それを恣意的に歪めることは市場原理に反しているということですね。
※この時解除に反対した2名のうち1名が2023年4月新総裁に就任した
 植田和男氏。
 当時財務官であった黒田東彦氏もゼロ金利解除に反対。

そしてもう一つは、日銀の独立性強化です。
改正日銀法で日銀の独立性が強化され、中央省庁や政府の介入が大幅に制限されました。
速水総裁はこの独立性を非常に重んじ、ゼロ金利解除以降も政府の介入を非常に嫌いました。
これは想像ですが、長年中央省庁の支配下にあった日銀からすれば、やっと勝ち取った独立性を侵害されることは許せなかったのではないでしょうか。
「散々今まで横槍入れてきたんだから、これ以上口出しするな」
日銀の長年溜まった不満は想像以上に根深かったのかもしれません。

しかし政府と日銀は独立した存在ではありますが、同時に経済政策において間違いなく歩調を合わせる必要があります。
改正日銀法にも独立性とともに政府との協調を記載していますが、その理念が果たされることはありませんでした。
この時から政府の日銀に対する不信感が高まり、数年後にある意味意趣返しと言えるような出来事が起こります。

話は戻ってゼロ金利解除を果たした速水総裁に予想外の事態が襲い掛かります。
2001年アメリカで起こったITバブル崩壊です。

FRBの利上げによりバブルはあっさり崩壊


ITバブル崩壊&ゼロ金利解除のダブルパンチが株安を加速させた


この出来事をきっかけに世界同時不況が発生し、最悪のタイミングで利上げをした日銀へ批判が集まりました。
通常であればゼロ金利の再実施するところですがそうはいきません。
ここですぐ利下げをするのは速水総裁の判断が誤りだったと認めることになってしまうからです。

そこで知恵を絞った日銀は、2001年2月“日本版ロンバート型貸出”を導入しました。
この“日本版ロンバート型貸出”は一体何か説明したいと思います。

◆日本版ロンバート型貸出


そもそもロンバートとは、イタリアのロンバルディア地方のことです。ロンバート型貸出は、ロンバルディアの商人が生み出した担保付貸出を指します。

ロンバルディア地方
サッカーのACミラン、インテルが有名


日本の場合、取引先に融資をしたい金融機関が日銀に申し込めば、日銀が金融機関から担保を取得して資金を貸し出すという形式です。
通常は日銀が自ら判断して金融機関へ資金供給するのに対して、ロンバート貸出は金融機関が手形や国債などを担保にして貸出を申し込めば日銀が『自動的に』資金を提供するという点が大きく異なります。

メリットとしては、不況下で金融機関同士で資金供給できない場合でも、担保提供すれば低利で借入可能になる点です。
この際の金利(=従来の公定歩合・現補完貸付制度)が金利上限の役割を果たします。

ロンバート型貸出でいったんつないだ後、日銀は2001年2月に政策金利を0.25%→0.15%に引き下げてゼロ金利を再導入しました。
しかしたった0.1%の引き下げでは効果が薄く、市場には「日銀は手詰まりではないか」という印象を与えるだけでした。


ゼロ金利を再導入したら理論上これ以上の利下げはできません。
加えてこの時期はデフレにより物価下落分が預金利子のような働きをしていまい、利下げの効果が薄くなってしまったことも日銀にとっては逆風でした。


※利下げにより銀行預金利子がほぼゼロの場合
 デフレにより物価は下落(仮に1%CPIが下落したとする)。
 100万円預金した場合、1年後預金は100万円のままですが物価が99万円に
 なったため差額の1万円分が利子のような働きをしてしまいます。
 実質利子があるため利下げをして設備投資を促したくても、企業や国民は
 デフレを受け入れてしまい預金>投資となり利下げの効果がなくなって
 しまうというわけですね。
 さらに利下げの影響で株など有価証券の利回りも低下しているため、国民
 の投資意欲そのものが大きく減退していたことも響きました。

◆量的緩和の登場


日銀は金利操作による景気刺激策に対して限界を感じていました。
そこで登場したのが“量的緩和(Quantitative Easing)”です。
2004年までに35兆円の量的緩和を実施しましたが、量的緩和とはいったいなんでしょうか。
新聞などでよく聞くけれどそれが何なのか、改めて解説していきます。

量的緩和は、現金を日銀から直接金融機関へ供給するのが金利操作との最大の違いです。
①日銀が金融機関が保有する国債を購入
②その代金を金融機関が保有する日銀口座に振り込む。
③金融機関は口座残高が増加し、その余剰資金を企業に貸し出す
この3段階のステップで、市場に資金を供給する仕組みです。

2001年3月日銀は「主たる操作目標をコールレートから日銀当座預金残高に
変更」し、当座預金残高目標を4兆円→5兆円に引き上げます。
これからは金利ではなくて量そのものを増やすという宣言です
要は「引き上げた分は貸出に回しなさい」という日銀からのメッセージですね。

日銀は量的緩和の期間を「CPIの前年比上昇率が安定的にゼロ以上になるまで」と定めました。
これは時間軸効果と呼ばれます。
市場の期待に働きかけるもので、景気回復してもCPIが上がらなければ市場は「利上げはまだ先だ」と考えるため、金利の急上昇を抑制できるという
効果があります。
同時に国債の買い入れも4,000億円/月から1.2兆円/月に増額し、市場への資金供給を加速させました。
 
日銀が量的緩和の期間を「CPIの前年比上昇率が安定的にゼロ以上になるまで」と設定したのは、実質的にインフレ目標を導入したことを意味します。
2023年現在で「CPI上昇率2%」という目標を日銀は掲げていますが、目標達成のために金融緩和を継続するという点で非常に似通っています。
当時日銀は「一旦インフレになるとそれを抑制するのは難しい」としてインフレ目標導入に否定的でしたが、国内外からデフレ脱却のために意図的にインフレへ誘導すべきだとの批判が集まり、間接的にインフレ目標を導入しました。

※この時日銀を批判していたのが当時プリンストン大学教授、のちの
 FRB議長のバーナンキです。
 バーナンキは日本経済の長引く不況を詳細に研究し、彼がFRB議長に就任
 した際にはリーマンショックに対して大規模な量的緩和を実施し、不況
 からの脱出に大きく貢献しました。

◆量的緩和の拡大と効果

日銀は量的緩和の手を緩めず、下記の通り当座預金残高の引き上げを以下のように順次拡大していきます。
 2001年  8月           6兆円
          12月    10~15兆円
 2002年10月    15~20兆円
 2003年  3月    17~22兆円
            4月    22~27兆円
            5月    27~30兆円
          10月    27~32兆円

しかし日銀の緩和策とは裏腹に、資金供給はなかなか進みません。
一番の理由は、『リスクとリターンのバランス』でした。
超低金利下では、当然ながら金融機関は貸出による金利収入がほとんどありません。
例えば1,000億円を1日0.01%で他金融機関に貸与した場合、利息は
1,000,000,000,000÷365×0.0001=27,397円にしかなりません。
人件費や手数料などの諸経費を含めたら場合によっては赤字です。
バブル期は金利が公定歩合が9.0%あったので、同じ条件だと約2,500万円が
わずか1日で得られます。
不良債権化するリスクなども勘案すれば、当座預金残高が積み上がるだけでハッキリ言って貸すことにメリットがまったくない状況でした。   

しかしデメリットばかりではありません。
金融機関が大量の現金を保有しているため、「いざとなれば金融機関が助けてくれる」という安心感が広がり、信用収縮を抑えるとができました。
バブル崩壊時は金融機関の手元に資金がないことで大幅な信用収縮が
起きたため、景気を上向きにはできませんでしたが、下向きにすることを
阻止できたというわけです。

しかし一難去ってまた一難。
今度は2002年9月不良債権問題への警戒感から銀行株を中心に売りが入り、
日経平均は9,000円を割り込む事態に陥ります。


当時銀行は貸出先企業の株を保有し、企業側も銀行の株を保有する持合いが一般的でした。
持合いにすることで企業側との結びつきを強め、他社からの買収を阻止
できるというメリットがあったからです。
しかし企業株下落すると、銀行側の資産価値が下がり銀行株も下がるという悪循環に陥り株価下落が加速しました。

株価下落のスパイラル


これ以上の株価下落をなんとしてでも止めたい日銀は大胆な策に出ます。
大手銀行が保有する株式を時価で買い入れ、銀行のリスクを直接取り除いたのです。
つまり、日銀が損失を肩代わりしたわけですね。
当初2兆円で設定しましたが、後に3兆円に拡大しました。
これが功を奏し株価下落は一段落し、景気回復すると日銀は株を売却して結果的に利益を得るというwin-winの取引になりました。
日銀からすれば底値で株を購入したわけで、非常に強かな施策であり個人的に非常にいい判断だったなと思います。 

一方量的緩和に踏み切ったのは、そもそも早急なゼロ金利解除が失敗し、ゼロ金利再導入後も効果がほとんどなかった日銀が批判回避を期待した面も否定できません。
ゼロ金利解除にこだわった速水総裁とゼロ金利継続を希望した政府との対立が深刻化し、将来的に大きな軋轢を生むこととなりました。
ここまでの流れでわかる通り、速水総裁は自身の考えに非常にこだわりを持つ人です。
一度改めて速水総裁の思想を振り返っていきます。

◆速水総裁の思想

速水総裁は、経済発展が通貨流通量増加を生み出す”イノベーション理論”を採用していました。
また円高=通貨としての評価が高いという考えから、金融緩和には消極的でした。

イノベーション理論は大変複雑なため、ここではざっくり説明します。

イノベーション理論はオーストリア・ハンガリー帝国生まれの経済学者ヨーゼフ・アロイス・シュンペーター(1883~1950年)が提唱しました。
イノベーション(技術革新)によって市場は常に変化しており、イノベーションがなければ市場は均衡(=沈滞)に陥るため、企業者は常に創造的破壊を起こさなければ生き残ることができないという考えです。

例えば、起業者が金融機関から貸出を受けると貨幣が市場に創出され、”信用創造”が行われたことになります。
貸出を受けた企業がイノベーションを実行することで経済が撹乱され、これにより経済が拡大し、更なる通貨流通増加がもたらされるという考え方である。
昨今ChatGPTや電気自動車(EV)の普及がこのイノベーションに該当しますね。

また速水総裁は熱心な”強い円”理論の信奉者でもありました。
自身の著書『強い円 強い経済』において、
「通貨は強くて安定し、使い勝手のよいことによって信認を得るのであって、先進国の中央銀行ではみなこのような通貨の強さを目指している。
そして、その国の通貨の強いことがその国の国力や発言力に直接、間接に影響を持つのであることを、私は半世紀を超える国際会議の現場での経験から特に強調しておきたい。
国民所得(GDP)はドル換算で世界的に通用しているが、日本が仮にGDP500兆円とすると、1ドル=100円なら対外的には5兆ドル、世界第2位となるが、仮に1ドル=120円であれば対外的には約4.2兆ドル程度になり、2位も怪しくなるかもしれないのである。
事ほどさように、各業界においても、円の価値が強いことが対外的な信認を得ることにつながる。
また、内外の円保有者にとって、日本の国外では円が強ければそれだけ使い勝手のよくなることは言うまでもない。
日本の軍事力、外交力を補填する存在感、発言力は、通貨の強さから出てくるという事を、過去半世紀の動きで私は十分に理解している。」
こう述べています。
身近な例ですと、海外旅行へ行った際に円高だと非常にありがたいですね。

確かに速水総裁のいう通り円高=円の信用力が高いという側面はあります。
しかし本当に各国は自国通貨高を目指しているのでしょうか。
むしろ自国通貨安を目指している国も一定数あるように思います。

速水総裁時、日本では円高が進んでいました。
1998年年平均で1ドル=131円だったものが翌1999年には114円となり、2000年には108円まで円高が進行。
日本の主要産業である自動車などはこの円高により大きなダメージを受けました。


この影響でGDP名目成長率は1998年▲2.00%・1999年▲0.75%と2年連続でマイナス。
2000年はアメリカのITバブルに伴いプラスに転じたものの、崩壊後大幅なマイナスに転じ、総じて円高局面において経済は縮小しました。

実は1999年のG8で日本のデフレ突入を防ぐため円高是正が議論の中心となり、見事な外交で円安誘導が認められてました。
プラザ合意後の円高不況の再来は回避されたかに見えました。

しかし速水総裁はその後の会見で「日銀の政策に変化はない」と事実上円高是正を否定しまいます。
G8での決定を完全に無視したこの発言に当時の米財務長官であったサマーズが激怒し、FRB議長であったグリーンスパンもこれに同調。
会見をやり直すハメになり、速水総裁の面子は丸つぶれとなってしまいます。

結果的に対外的な信用を失い、政府との関係も悪化して四面楚歌となった速水総裁は、5年間大きな実績を上げられないまま2003年3月任期満了で退任しました。
不祥事からスタートした5年間は、マイナスのまま着地してしまったと言って過言ではないと思います。
そしてデフレ脱却など問題は山積したまま、次の総裁に託されることとなります。

次回は、この難局を次期総裁がどう乗り越えたのか解説していきます。

それではまた次回お会いしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?