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日本の公鋳貨幣30「室町幕府の撰銭令」

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自らの首を占める撰銭令を出した室町幕府

なんだかんだでこの記事も30本を超えてきました。今回から、16世紀の話へと本格的に移っていきます。

16世紀は、本格的な戦国時代に入った時代です。日本全土が一度バラバラとなり、そして新たな権力の誕生によって再統一されるまでの100年間と考えてよいでしょう。それまで東アジア間のみで行われていた日本の貿易のプレイヤーにヨーロッパ勢が加わってきます。モンゴル帝国が繋いだ西洋と東洋の交易は、陸路から海路へと切り替わり、その速度も加速しました。本当の意味で現在の世界経済に近い状態が生まれてきています。ヨーロッパで起きた事件が、日本の経済状況を狂わせることが当たり前となりはじめました。

また、戦国時代となり群雄が狭い日本国内で争いを続けるためには、ライバルを出し抜く必要が生じてきます。もっとも手っ取り早くライバルを屈服させる方法は、強大な軍事力であり、軍事力を支えるための経済力です。そこで、誰からともなく自国内で統一した貨幣を作ろうと言う動きが起こり始めたのもこの時期です。

とはいえ、今回紹介するのは16世紀が始まったばかりの頃の話です。「明応の政変」及び「両細川の乱」により、室町幕府の権威は崩壊しました。以後、将軍が直接的に政治を動かすことは、ほとんどなくなっていきます。ですが、将軍職の影響力は京を中心にまだ残ってはいました。

すでに数回にわたり解説してきましたが、室町幕府の主要な財源は京の大商人から上がってくる租税でした。ということは、幕府が力を盛り返すには、京で商業を盛んにするべく応仁の乱で焼けた京の復興が必要条件となります。

ですが、実際の室町幕府はその逆のような撰銭令を出しています。

明応9(1500)年、室町幕府は初めて京に対して撰銭令を出しました。室町幕府が最初に出した撰銭令の内容は、「中国でつくった銭、すなわち明成立以前に輸入されてきた銭と、永楽通宝、洪武通宝、宣徳通宝は、必ず1枚=1文で通用させよ」というものでした。

この年は、明応の政変が起こり、将軍足利義材が細川政元の手で強引に廃位された事件の年ですから、将軍権力の低下というのは誰の目から見ても明らかな時代です。そのためやはり、この令はあまり浸透しなかったようで、

6年後の永正3(1506)年には、自分たちの出した撰銭令の規定を変更しています。すなわち「京銭(日本産の模造銭のうち無文銭と破損銭を除くものと考えられる)・打平(無文銭)は排除し、輸入銭のうち「永楽通宝」・「洪武通宝」・「宣徳通宝」、その他破銭は、緡銭100文中32枚まで使用してよいという制限緩和です。

室町幕府の撰銭令は「商売輩以下(しょうばいともがらいか)」、つまり、京の商人に対して名指しで出されていました。京で行われていた撰銭を、商人が受け入れないことが多かったために行われた指導です。

さらに言うならば、永正3年の規定改定は、商人の中でも米の卸売市場へ限定して出されています。京には三条と七条の二ヶ所に米市場がありました。室町幕府は、商品米は全てここを通してでしか購入できないという独占を認めておりました。いわゆる「米座」です。幕府は、米座に所属する「座人」に米売買利益の特権を与えた代わりに、莫大な献上金を納めさせていたのです。

つまり幕府にとっての重要な収入源の一つに対して、多少損をするけれど撰銭をやめて、規定を守ってねと頼んだわけです。困窮状態の幕府において、銭を献上してくれる米市場がわざわざ苦しむような政策を打つことが、どれだけ矛盾したことかわかりますか。

ですが、室町幕府には強気にでなければならない理由がありました。

幕府が保護するべきは民草の生活……ではなかった

「米座」から米を買うのはどういう人かと言うと、米を一般人に売る小売商。つまり、庶民が買う米の小売価格を最終的に決定する人たちです。

『七十一番職人合』より米の小売人

もし、小売商が仕入れによる撰銭を受け、通常よりも高い価格で米を買わされたら彼らから米を買う庶民が苦しみます。

とはいえ、幕府が米を買うとしたら小売商を通すよりは、卸から直接買うでしょうから、あまり関係がない。もちろん、庶民生活を守るという大義名分は幕府にもあったでしょうが、他人の心配をしていられないほどこの当時の幕府は弱体化しています。「米座」からの献上金は、喉から手が出るほどほしかったはずです。

なのに、幕府は米座を抑えつけ小売を守ることで、売りて保護ではなく買い手の保護へ踏み切りました。永正6(1509)年に三度目に出された撰銭令では、より具体的に、撰銭をきっかけとして商品の価格を引き上げることを禁止しています。

「撰銭をきっかけとした商品の価格引き上げ」とはどういうことかと言いますと、悪銭を30%混ぜて100文にして使用することを矯正されると、米の卸としては、実質価格で収入が目減りしてしまいます。その分の穴埋めをするために、米の卸価格そのものを上昇させる行為が永正3年から増えたようなのです。

ただでさえ困窮しており、自分たちのことでいっぱいいっぱい。なのに室町幕府は、貴重な財源である売り手ではなく、買い手を保護する撰銭令にこだわりました。その理由は、撰銭令を定めた時期とその年に幕府の身に起こった出来事を比較してみるとわかります。

最初の撰銭令が定められた明応9(1500)年は、明応の政変により管領の座から追い落とされた畠山政長の息子が、河内国で蜂起しています。時の権力者であった細川政元は、これを討伐すべく幕府軍を派兵しています。

永正2(1505)年、再度河内国で畠山一族が蜂起。再び政元は河内侵攻の命を出しました。この戦は最終的に紀伊にまで広がる長期の戦争となります。

翌永正3(1506)年には、これらの争いの後ろにいる、前将軍・足利義尹をとりまろうと、彼が逃亡していた越前若狭の攻撃も河内攻めと並行して開始しました。これに合わせる形で、撰銭令の改訂が行われました。

永正5(1508)年に再度出された令は、細川政元の暗殺(永正の錯乱)後に出されています。細川家と幕府が、管領の後継者をめぐり混乱しているあいだに、足利義尹(義稙)と大内義興ら西日本の有力大名が大量の兵を連れて入京したからです。

この後に、室町幕府が出した撰銭令も

・永正9(1512)年の撰銭令…京で飢饉が発生する。
・天文11(1542)年の撰銭令…天皇の信任を失った足利義稙が廃位され、細川政元政権時の将軍で、追放されていた足利義澄の嫡子・足利義晴が第12代将軍に指名。細川高国軍とともに入京する。

といった具合に、飢饉、もしくは軍事行動が行われたときに
限られます。

飢饉と軍事行動に引き寄せられる現象の共通点。それは、人口の大幅な増減による米の価格の変動です。前回、大内氏が地元に兵を連れて帰ったことにより、米価が混乱するのを防いだ話をしました。室町幕府はもっと早くから撰銭令で米価の調整を行っていました。

基本的に戦争や飢饉が起こると、食料の需給にゆとりがなくなります。そのため、買い手はなんとしてでも米を買おうと、普段は排除していたような悪銭まで引っ張り出してきて、取引に使い始めます。「他の買い手よりも、私は多く払うからこっちに米を回してくれ!」ということです。

すると、米の卸売商はいちいち撰銭を行う手間が増えたり、精銭と思って受け取った銭が悪銭で想定していた卸値よりも安くで売ってしまう危険性があ生じます。結果、米座の人々は撰銭を行ったり、米価を上昇させて損益分を補填しようとしたのです。

が、米価の上昇はまさに、軍事行動を起こしている当事者である幕府軍の兵糧調達に影響します。管領の細川政元は、できることなら軍事行動を控えようとしていたことがわかっていますが、当時の将軍である足利義澄はかなり好戦的な人物で(まあ、自らが追い落とした足利義材[義尹であり義稙]がのうのうと北陸で幕府を名乗って政治を行っているわけですから、不安だったのはわからなくもありません)、16世紀初頭から積極的に軍事行動を起こしています。ただでさえ、お金がないのに軍事行動を起こすわけですから、間違いなくカツカツでの行軍だったでしょう。そこに、兵糧の値上がりなどという事態が起これば、軍事計画が根底から破綻してしまうのです。

なので、室町幕府は軍事行動を起こそうという場合や、想定外の食糧危機が起こるときは、積極的に米座に対して撰銭令を出していたのです。

中国大陸では、政権が自らの貨幣発行益を最大限まで確保するために、撰銭令を出し、撰銭を禁止していました。その結果として物価が上昇し、社会混乱を産んだ挙げ句、革命が起こるという行程を繰り返しています。

ですが、室町幕府は、物価上昇を防ぐために撰銭令を頻発しました。主従が逆になっているのは、絶対権力者であり、最終的には臣民のことを深く考える必要がない中国の皇帝と、所詮天皇の家臣でしか無い征夷大将軍という立場の違いなのでしょうか。ともあれ、実は、世界的に見て珍しい中央政権による撰銭の形として、知っておいて損はないと想います。

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