見出し画像

日本の公鋳貨幣32「ヨーロッパ人による日本銀の発見」

全回はコチラ

めちゃくちゃ忙しかった書籍が無事校了しました6月13日に書店に並ぶ予定です。パソコン初心者向けのレクチャー本です……。僕は、noteで書いているような話を本にして生活したいのに……。まあ、ぼちぼちこちらの続きも書き始めます。

撰銭が浸透し各地で撰銭令が出されたことで、日本の経済状況は混乱した……わけでもなく。世界的にも希有な8世紀ごろから紙幣による信用取引のようなものが行われていたり、あるいは「つけ取引」の一般化により人々は工夫して貨幣のやりくりを行っていました。

と、同時に不足する銭を別のものに置き換える道も探し始めていました。
今回は16世紀ヨーロッパの動きを中心に、日本のとある産業の勃興を紹介していきます。

ヨーロッパ人は何故海へ出たのか?

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/map/001572916/

ここに1枚の地図があります。これは「ティセラの日本図」と呼ばれている地図で、16世紀にオランダで発行された、おそらくヨーロッパで初めてのメルカトル図法で描かれた日本地図です。

モデルとなったのは、日本人が少なくとも奈良時代ごろから用いていた行基図とされています。

明暦2年(1656年)発行 『拾芥抄』の写本より行基図

行基というのは、奈良の大仏の造成責任者になったり、関西を中心に溜池やら治水事業やらを行った史跡が大量に残っているお坊さんのお名前ですね。行基がつくったとされるこの丸い線でなんとなく描かれた地図が、江戸時代まで日本人が考えていた日本全土図でした。

「ティセラの日本図」は、この行基図をベースに、当時日本へと訪れていた宣教師が自分たちで得た情報を書き足して言ったものと考えられており、16世紀としては極めて正確な日本地図となっています。

同時に、当時、大航海時代を迎え日本に進出してきたヨーロッパの宣教師たちにとって、日本のどの都市が重要な街であったのかが伝わる内容となっています。さて、巨大な都市ばかりが描かれているこの地図の上に唯一、都市名以外の文字が記されている箇所があります。

それが、島根県の石見です。

「Hi(イ)va(ワ)mi(ミ)」という都市名の北部には「Argenti fo dina」と書かれています。「銀鉱山」という言葉です。

石見銀山。この銀山の発見が、日本という極東の島国を、ヨーロッパ社会に強烈に印象付けることとなりました。

ヨーロッパはイスラム勢力が誕生した10世紀以降、失われたビザンツ帝国の領土を取り返すべく、十字軍の遠征を続けていました。十字軍の遠征というと悲惨な戦争のイメージばかりが付きまといますが、身近に自分たちと異なる文化の国家が誕生したということで地中海を通じた海上交易が盛んとなりました。

13世紀ごろになるとこの地中海貿易がヨーロッパ経済の支柱となっていきます。同時に、モンゴル帝国が洋の東西をつないだことによって、より遠方の国家とシルクロードを用いた陸上交易も行われるようになりました。こうした貿易により、14世紀に成長したのがイタリア半島の諸都市国家群です。有り余る経済力を背景にイタリアでは14世紀にルネッサンスが起こります。

ところが、15世紀になるとモンゴル帝国が衰退してしまいます。シルクロードは放棄され陸上の交易網は急速に縮小していきます。代わりに登場したのが、1453年にビザンツ(東ローマ)帝国を滅ぼし、アナトリア半島に強大な軍事帝国を築いたオスマン帝国でした。オスマン帝国は、イタリア諸都市国家との戦にも勝利し、地中海の制海権を独占します。

オスマン帝国は、地中海交易に高い関税をかけはじめました。ヨーロッパ諸国を支えた経済秩序が崩壊し、ヨーロッパでは大不況が起こりました。この時ヨーロッパでは百年戦争→薔薇戦争というイングランド、フランスを中心とした終わりの見えない紛争も続いていました。戦費の捻出のため各国で銀貨の品位を落とすという流れが起こっており、ただでさえ貨幣価値の下落が問題となっていました。通貨の価値下落を食い止めつつ、貿易決済を安定させるべく、このころからヨーロッパ全土で銀貨の大型化が始まりました。所有している銀貨だけでは貨幣需要を満たすことができないため、残った財力を用いて王や商人たちは銀山の採掘も行いました。

こうしてヨーロッパの貿易決済通貨は、金ではなく銀へと切り替わっていきました。

地中海交易が一時的に後退するなか、オスマン帝国の関税を逃れるようにスペインやポルトガルといった地中海の西の外れに位置する小国たちが、力をつけ始めます。百年戦争や薔薇戦争、そしてオスマン帝国からの侵略とも関係のなかったこれらの国々は、他のヨーロッパ諸国に先駆けて強大な絶対王政国家を樹立。北アフリカから進出していたイスラム勢力をイベリア半島から追い出し、逆に北アフリカのモロッコより先へ進出することに成功します。

この2国は、当時イスラム国家が持っていた最新技術である羅針盤と、追討のために身に着けた外洋を渡る航海術で、アフリカの南西部をどんどん侵略していきます。新天地で獲得した植民地の資源は、ヨーロッパに持ち帰ると莫大な富を生みました。当時の外洋航海はまだまだ生還率20%程度。それでも、一獲千金を夢見た無謀な若者たちは外洋へと旅立ちました。もともと仲の悪かった両国は、成功すれば新たな植民地が手に入るということで、競うように無謀な若者たちの冒険をバックアップしました。こうして、大航海時代が始まりました。

ポルトガルのバスコ・ダ・ガマは、アフリカ大陸を一周し、オスマン帝国を無視してインドの香辛料を持ち帰る航路を発見しましたし、スペインの支援を受けた奴隷商人・コロンブスは大西洋を横断しアメリカ大陸を発見しました。

以後、スペインはアメリカ大陸の侵略を。ポルトガルはインドからさらに東へと侵略を進めていくことになります。スペインのアメリカ大陸侵略がいかに悲惨なことになったかは、歴史の証明する通りです。インカ帝国は滅び、原住民はヨーロッパから持ち込まれた病原菌によってほぼ死に絶えました。あらゆる人々を殺戮し支配したスペインは、南米でとんでもないものを発見します。

それが、ポトシ銀山とサカテカス銀山です。

ポトシ銀山

この2つの銀山から発掘される銀は莫大であり、ヨーロッパの銀よりも高品位でした。スペインはこの銀を用いて各国との貿易を拡大します。大量の品位が高い銀がヨーロッパに持ち込まれたことにより、銀貨の信用は回復しましたが、銀の価格は暴落しましたが、おかげで庶民が銀貨を用いることができるようになりました。銀の価格が下がったことで喜んだのは庶民だけではありません。中国大陸を筆頭に、アジアでは銀を本位通貨とする文化が定着していました。アジアへ進出をしたポルトガルは、貿易決済の手段として、ヨーロッパで流通した南米銀を持ち出したのです。

ちなみに、ポトシ銀山はあまりに多くの銀を算出したため、世界経済を大きく狂わせました。スペインは多くの奴隷に掘らせた南米の銀を、メキシコへ運び貨幣の形に鋳造。これを世界中の貿易の現場にばらまきました。鋳造した国の名前を取りスペイン銀といいます。スペイン銀は、初期は既定の重量の銀塊を8分割していたことからピース・オブ・エイトとも呼ばれました。のちに貿易銀の額面が「8レアル」に固定されたのは、このことからきています。スペインが植民地を失った後の時代もスペイン銀はメキシコ銀と名を変えて作られており、20世紀初頭まで形を変えながら貿易の現場で使用されていました。

17世紀初期のメキシコ銀ピース・オブ・エイト。17世紀中期を過ぎると硬貨の形の打刻銀貨へ改良される。

さて、世界中に植民地を作り始めたヨーロッパ人たちでしたが、予想外だったのが極東アジア諸国でした。ヨーロッパという地域は、現在もそうですが、気候的に恵まれておらず巨大な国が誕生する土壌がありません。ところが極東地域には、自分たちの国よりもはるかに巨大な中国・明という中央集権国家があったのです。

ポルトガル人は明を植民地化することができませんでしたので、通常の交易を申し込みました。主に彼らが買い求めたのは、茶や陶磁器の類でした。しかし、インドならともかく、南米大陸からスペインを経由して極東まで銀貨を運搬してくることは大変なコストとなりました。大体、スペインはポルトガルと敵対していた国です。

南米からではない形で、貿易決済用の銀をなんとかできないか、とポルトガル人たちは頭を悩ましていたところ、中国のさらに東の海上に、巨大な銀山があるということを知りました。

それが日本の石見銀山です。

この時代の世界の銀は、南米全体で全世界産出量の60~70%、そして日本で残りの20~30%を占めていたといわれています。

石見銀山とは何か?

大永6(1527)年、博多商人・神屋寿禎が、「海上から山が光るのを見た」と領主・大内義興に報告。応仁の乱後、実質西日本の支配者となった大内家と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、それまで細々と露天掘りのみ行われていた現在の島根県銀峯山で地下の銀を掘りはじめました。神屋寿禎は戦国時代、九州征伐で博多に訪れた豊臣秀吉に直談判を行い博多復興の約束を取り付けた神屋宗湛の祖父に当たり、この時代の貿易商であったとみられています。

これが、石見銀山の始まりです。

寿禎は、中国の精錬技術を身に着けた職人を、博多から銀山に呼び寄せると、灰吹法という最新の技術でもって採掘した銀を精錬させました。すると、ほぼ純銀に近い完璧な品位の銀が出来上がりました。

この銀は、万国共通でソーマ銀(SOMA)と呼ばれ、ほぼ純銀に近いその品位から、価値だけなら南米銀を上回るものとなりました。応仁の乱後、日本全国で戦国時代の幕があけたころのことです。寿禎は、そのことも見越して大内家に保護を求めたのですが、このころ大内一族は本拠地である周防から西の北部九州での争いに巻き込まれていたため、当然手薄となった銀山は争奪戦の舞台となりました。

以後、尼子家→大内家→毛利家→豊臣家→徳川家と領主が何度も切り替わりますが、今のロシアと異なり、坑道に手をだすような争い方はしなかったため、石見銀山は安定して銀を産出し続けました。

産出した銀は、一定の品位に揃えられたインゴット(丁銀)の形へ鋳造されました。この時代の長銀は現存数がかなり少なく、市場にでればうん百万円という高額が付きます。理由は、主な輸出先であった中国が、銀をさらに溶かして別の形状に作り替えて保管していたからです。ポルトガル人に渡そうが、スペイン人に渡そうが、彼らはその銀を最終的に中国との決済で用いるため、当時の形状のままのものは極めて貴重になります。付け加えるなら、江戸時代になると徳川幕府がこの時代の銀塊を回収し、貨幣の形へと作り替えておりますので、ますます数が少なくなっているのです。

当時製造された丁銀は、「しまねの美術館・博物館デジタルミュージアム」という島根県のサイトで画像を見ることができます。以下は上記サイト内からです。

「御取納丁銀」。弘治3年(1557)、正親町天皇の即位に際し毛利元就が献上したものです。 約1100枚製造されたとみられますが、現在見つかっているのはこの1枚のみ
「石州文禄丁銀」。朝鮮出兵にあたる文禄の役(1592~1593)の際、豊臣秀吉が諸大名への賞賜用として作らせたもの。
「御公用丁銀」。永禄7年(1564)頃~慶長4年(1599)頃に製造され、毛利氏が朝廷・室町幕府へ貢納したものと考えられています。

石見銀山の成功を見た全国各地の大名たちは、自分たちの領内にも金銀鉱山がないか、積極的に開発を行い始めます。鉱業が戦国時代の日本を支える一大産業となりました。こうして日本全国で銀が潤沢に採掘されるようになると、市場に銀が出てきました。

貨幣的な使い方ができる銀が市場にあふれると……。銀を貨幣として利用しようという流れとなるのは、宋銭や明銭と同じ流れでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?