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あの夜を An oiche (The night)私訳


あの夜を

きみ思ほふやあの夜を
帽子、手袋、外套なしに窓辺にをりぬ
われは手を延べきみ握りしか
帽子、手袋、外套なしに
恋人よ、わがもとへ来よと
ひばり歌ひぬ
きみ思ほふやあの夜を ひどく冷ゆる夜なりき

われは手を延べきみ握りしか
帽子、手袋、外套なしに
恋人よ、わがもとへ来よと
ひばり歌ひぬ
きみ思ほふやあの夜を あれはひどく冷ゆる夜にして……


原文(ゲール語からの英訳)

Do you remember that night when you were at the window
Without a hat or glove or overcoat on you?
I gave my hand to you and you clasped it to you
Without a hat or glove or overcoat on you?
And the lark spoke
My love, come to me some night
Do you remember that night? And the night was so cold

I gave my hand to you and you clasped it to you
Without a hat or glove or overcoat on you?
And the lark spoke
My love, come to me some night
Do you remember that night? And the night was so cold...


Anúna  An Oiche


補足

「An oiche(The night)」はアイルランドの伝統歌のテキストにAnunaの主催である作曲家Michael McGlynnが曲をつけたもの。
こちらのサイトでは”This is an original song composed by Michael McGlynn with a traditional Irish language text.”と説明されています。
歌詞はゲール語ですが英訳がされており、拙訳は二重翻訳しています。

And the lark spoke
My love, come to me some night

恋人よ、わがもとへ来よと
ひばり歌ひぬ

中盤の歌詞ですが、雲雀(ひばり)とはどのような鳥でしょうか。
シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』にはこんなやりとりがあります。

ジュリエット
もう行ってしまうの? まだ朝じゃないわ。あなたのおびえた耳を貫いたのはナイチンゲールよ、ヒバリじゃない。毎晩あそこのザクロの木に止まって鳴くの。本当よ、ね、ナイチンゲールよ。

ロミオ 
ヒバリだった、朝の先触れだ、ナイチンゲールじゃない。

(ロミオとジュリエット・松岡和子訳)

『ロミオとジュリエット』の主人公、ロミオとジュリエットは仇同士の家に産まれました。舞踏会で二人は互いの素性を知らぬまま恋に落ちますが、ロミオはジュリエットの従兄を殺してしまいます。
ロミオは殺人罪で街から追放されることになりますが、いずれ戻ってこれるように取り計らうというロレンス修道士の言葉を信じ、ジュリエットの家で一晩を共に過ごし、別れます。
上で引用したやり取りはバルコニーのやり取り(「どうしてあなたはロミオなの?」のシーンです)と並ぶ名場面、いまだ別れがたい二人のやり取りです。雲雀は朝や昼間に鳴く鳥ですが、ロミオと別れたくないジュリエットは、あれは夜に鳴くナイチンゲール(小夜鳴き鳥)だ、だからまだここにいてほしいとロミオに訴えます。朝の雲雀と夜のナイチンゲールが、ここでは対象的に使われています。

雄の雲雀がさえずるのは繁殖期の春です。My love, come to me some nightとは、まさしく雲雀の歌う恋の歌です。
俳句の世界では、雲雀は春の季語にもなっています。とはいえこの歌はアイルランドの歌なので舞台も当然アイルランド、日本の北海道に近い気候の土地でのことです。歌詞の主体が帽子、手袋、外套のいずれも身に着けずに思い人のところへ向かった……と歌うのは、春とはいえまだ朝夕の冷える時期、本来ならばそうした防寒具を身につけるべき時期だったからでしょう。
余談ですがアイルランド詩人Francis LedwidgeのJuneという詩は、さあ床を掃き暖炉の柵を片付けろ……という一節から始まります。つまり、アイルランドにおいて暖炉は五月まで現役なのです。ちなみにANUNAはこの詩を歌詞にした歌も歌っています。
Do you remember that night……遠い夜の追憶から歌詞は始まりますが、その記憶のなかで雲雀が鳴いた(spoke、過去形)ということは、歌の主体とその思い人はその夜、夜から朝までを共に過ごしたと思われます。

この「帽子、手袋、外套なしに(Without a hat or glove or overcoat on you)」ですが、『ハムレット』にはこんなくだりがあります。

オフィーリア 
お父さま、部屋で縫物をしていると
ハムレットさまが、上着の胸をはだけ
帽子も被らず、汚れた靴下は
足枷のようにくるぶしまで下がり、
お顔は真っ青、両膝をがくがくさせ
まるで地獄の恐ろしさを告げるため、
そこから抜け出していらしたばかりというように、
悲しげな眼差しで、ふいに私の目の前に。

ポローニアス
お前に恋焦がれ、狂われたか?

『ハムレット』松岡和子訳

父王が叔父に殺されたと知った王子ハムレットは叔父に復讐するため、愚かな道化として、偽の狂気を振る舞うことを選びます。ハムレットの恋人オフィーリアは、これまでとはまるで変わってしまったハムレットの様子を父ポローニアスに報告します。
オフィーリアの台詞に「帽子も被らず」とあります。当時、帽子は正装の一部であり、それを身に着けないことはありえない、異様なことと捉えられていることがわかります。平安貴族が烏帽子も被らず……というのに、もしかしたら近いのかもしれません。

「ハムレット」の上記台詞を踏まえると「An oiche」の「帽子、手袋、外套なしに」は、恋に落ちて何も取り繕えなくなっている「われ」のかなり切迫した精神状態を表すものではないか、と思われます。
またこの歌の「われ」は帽子が正装である……つまり平民ではない、身分の高い、貴族階級の人物と考えられます。

歌詞は冒頭4行で"Without a hat or glove or overcoat on you?" のフレーズが繰り返されますが、前半2行が思い人たる「きみ」への、覚えていますかという呼びかけ(Do you~)であるのに対し、後半2行に「きみ」はおらず、あれは本当に起こったことであったろうかと自分自身に問いかけているようです。
この歌の歌詞はすべて過去形、回想です。Do you rememberと歌いかける主体が今現在どのような状況に置かれているのか、歌詞のなかには何も書かれていません。

だけどいつかの夜、帽子も手袋も外套も身に着けずあなたの元へ走った。

あなたへと手を伸ばした、そしてあなたもわたしの手を取ってくれた……遠い夜の奇跡のような邂逅、その回想は、しかし、朝の雲雀の声によって終わります。まるで夢から醒めるように。そして主体はもう一度、覚えていますか、とひとり呟くのです。あれは酷く寒い夜のことだった。

テキストだけを見ればこの歌の歌詞の主体「われ」は、恋に敗れ一夜の美しい思い出をひとり孤独に抱きしめる哀れな人物としても、一夜の美しい思い出を切ない思いと共に懐かしく思い返す、自己陶酔的な人物としても、いずれにも解釈可能です。

冒頭で紹介した通り、「An oiche」は、”original song composed by Michael McGlynn with a traditional Irish language text.”です。作曲家としては歌詞のテキストを後者のイメージで捉え、曲をつけたのでしょう。

中世ヨーロッパでは騎士から貴婦人へのプラトニックラブ、叶わぬ恋こそが真の恋として尊ばれたといいますが、この歌も叶わなかった尊い恋、それこそロミオとジュリエットのようなたった一度の美しい思い出、という世界観があるように思います。

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