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"意気がない"ってことに、気がついた話

頭をガーンと殴られたような・・経験をしたことがある方は、結構多いのではないかと思います。実際に殴られていたら、衝撃だけでは済みませんが、強烈な体験や発見などのことを、こう表現することがあります。

ここnoteでの記事を読むにつけ、多かれ少なかれ衝撃をうけているような気がします。そのなかで、自分自身もっと反省しなくちゃな・・と思っているのは、なぜこんな風に毎日投稿しているのか、自分でも漠然としていること。

毎日、何かしらの話題を見つけては、半ば無理矢理進めてしまっている面があります。僕が、勝手に「誰にも聞かれていないシリーズ」と名付けている話で、毎日更新のコツみたいなことを書きたいと思っているのですが、うまく書けない。

それは、誰に向けて書くのか分かっていないのです。

まがりなりにも毎日更新をして(つぶやきだけの日もありました)、300日なんて結構な長い日数になっているにも関わらず、「伝える」という姿勢が、まったくと言っていいほど足りていないことに気が付いてしまったのです。

かねてから言い続けている、「独り言」がその所以ですが、結局のところ「自分語り」であることが、果たして誰に伝わっているのか・・そんな疑問です。

スキやコメントを頂けていることは、とても嬉しいことです。ほんとうにありがとうございます。もちろんTwitterへのシェアや、サポート・オススメだって、飛び上がるほどに嬉しいのです。

だから、自分の書いていることは「少なくとも、間違ってはいないのかも」とは思うのです。

しかし、すべての記事と思うとハードルが高すぎるのですが、いくつかの記事が伝わっているのかと問うてみると、俄然不安になってしまいます。

それに気がついてから、ほかの方の投稿を読むと、「伝える」ことへの工夫や“意気”が感じられるように思えるのです。

それは、必要と思われる知識であったり、整理された情報や、持っていたら生きやすくなる視点や発想などの記事です。書き手が得てきたものを「うまく表現する言葉」であったり、「熱量が感じられる言葉遣い」のようなものがあるのです。

話を読んでみて、読んでよかったなと思えること、今度これ気を付けよう、と思うことは「伝わった」ことへの反応だと思うのです。読後感、という言葉を使われる方もいます。

先日、僕が書きたいと思った動機は、「誰かに話したいと思うこと」であることが多いと書きました。

それは、健全な動機(ここで使うのが適切かは分からないけれど)だと思っているし、僕にとって無理のないきっかけだと考えているのです。

ただ、「伝えたい」のか問われると、そうでもないかな・・と弱気になってしまう場合もあります。多くの人が知っているだろうとか、そもそも興味ないのでは、とか考えてしまうわけです。

伝えたいことだけを書く、としたら果たして僕はどれだけのことが書けるのか。これまで、エピソードに恵まれているなぁとかって言いながら、それって誰が読んでくれるのか、みたいな疑問も抱えつつ書いてきた認識があります。

いいと思っているのは自分だけで、しかもそれもきちんと伝える術を持っていないというか、“意気”がなかったなと感じています。

成長だとか、上達だとかって言葉は綺麗だし、質より量による鍛錬の意味合いもよくわかっているし期待もしています。

・・だが、しかし・・

自分に足りないのは「伝える」力なのかなぁと思っているのです。

301日目の投稿が、ひとつの気づきになるといいなと思いながら、ほかの方の記事を見て、自分に圧倒的に足りていないものに気が付くというのは、いいことなのでしょうか。

毎日のように書いてきたからこそ、自分の周囲の豊かさを実感したことを、きちんと伝えるための“意気”を育てることが、これからの僕の課題でもあり楽しみでもあるのかも知れないと、あまり気負わないように見つめていきたいと思います。

読んでいただきありがとうございました。

どうか、これからも。


#書くこと #かんがえたこと #伝える #力 #意気

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