上を向いて歩こう #書もつ
にこやかな表情と、澄んだ歌声。昭和50年代、テレビの歌番組の常連だった男性歌手がいます。工場の街、川崎が生んだスター、坂本九その人でした。
豊かに広がる情景を爽やかに歌い上げ、お茶の間を癒し、元気付けてくれる、そんな歌手として、国内のみならず海外からも人気を集めていました。
ある夏の日、彼は、とつぜん星になってしまいました。
手の届かない場所に、昇ってしまったのです。
誰も予想などしていなかった、飛行機事故。
羽田発、伊丹行き 日本航空123便
昭和60年8月12日。お盆前、彼も含めて500名以上の乗客が搭乗していた大型機。まだ明るさの残る羽田の空へ離陸してまもなく、相模湾上空で機体に異常が生じ、ほどなく操縦不能となりました。機長の必死の措置も虚しく、航路のない群馬県の山中に堕ちたのです。
「クライマーズ・ハイ」を読みました。日航ジャンボ機墜落事故を書いている物語として、いつか読んでみたいと思い続けていました。
僕は、歌手も事故もほとんど知らなかったのです。
クライマーズ・ハイ
横山秀夫
世界最大の航空機事故と対峙することになった、ひとりの新聞記者が、仕事や友人、そして家族との関係を慌しくも緻密に見つめ直しながらながら、自らを見つけていく、そんな物語として読みました。
記者とはいえ、主人公が現場を踏むのではなく、デスクとして部下の目や足を使い描かれた現場。僕は、ちょっと意外でした。タイトルは山登りの、現場への道のりのことなのではないかとさえ思っていたからです。
主人公の同僚で山仲間が語った、山に登る理由は「下りるため」。その真意を探って主人公が葛藤する中盤、クライマーズ・ハイの意味が語られました。
物語にはところどころに、主人公の”いま”の描写が挟まれていました。
一緒に衝立岩を登る・・主人公が果たせなかった友人との約束を、その友人が遺した息子と共に挑んでいく様は、清々しい登山行でした。
本当なら、我が子と登りたかった、あるいは友人とその息子で登らせたかった・・そんな主人公の思いは、父親である僕の胸にも迫ってくるものでした。家族という特別な存在を意識せずにはいられません。
働き方や部下との衝突で悩み、会社の中での存在感が浮き彫りになる様子は、同じ働く者として心が揺さぶられます。読み手は、主人公とともに、自分自身の信じているもの、歩いてきた道のりが、今の仕事に繋がっていることは紛れもない事実であると知るのです。
戻ることも飛び越えることもできない”いま”に、何を感じて、何が出来るのか。
仕事に打ち込む父親として、子どもたちへの期待が、成長にしたがって後悔に変わる風景。いつしか僕は、笑っていられないほどに、自分の子どもたちが成長している事実を噛みしめながら読んでいました。
奇しくも、主人公の年齢は今の僕と同じ、40歳でした。
時代も会社も違うけれど、比較できないほどに仕事をしている主人公の姿がありました。仕事に打ち込む、仕事で食っていく、それは暑苦しくも眩しい気概であり、痛々しいほどの自己犠牲のように見えたのです。
正解が書かれていたとは思わないまでも、自分の仕事の姿勢を問いただされるような「同じ年齢」という事実は、架空の物語とはいえ、僕の心に恫喝すら与えられたような衝撃をもたらしました。
いつか読んでみたかった・・その思いを結実させたのが、今の年齢であったことは、偶然ではなさそうです。
冒頭に紹介した歌手については、書かれていませんでした。少し期待していたこともあって、ずっと気になっていました。乗客の死という深い悲しみ、あるいは生存者への歓喜は読み取れるのですが、いわゆるセンセーショナルな物語としての死を、なぜ描かなかったのか。
その答えは、終盤に待っていました。
主人公の記者としての心を揺るがせにするような本質的な問いへの答えであり、命を軽んじられた怒りに触れた反省としての言葉でした。
作者の思いはここに強く込められていたのだと、何度も何度も読み返しました。
500以上の命が失われたという事実だけがあって、その命のそれぞれが、間違っても軽重を問われてはならない。
歌手の死は、当時大々的に報じられていたはずです。しかし、この作品には微塵も書かれていませんでした。
作家がかつて新聞記者であったことは、単にリアルな視点を獲得しただけでなく、作り手として葛藤していた部分を、読み手が味わうことができる作品づくり、それを可能にしているのかも知れません。
なんというタイミングで、僕はこの作品に出会ってしまったのか。
これから先、この読書体験がかけがえのないものになるような気がしているのです。
坂本九の歌は、こう終わります。
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