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練習と即興、その意味 #創作大賞感想

タイトルに惹かれて読み始めた。

エチュードとは、楽器の演奏にあっては、練習曲と訳される。この言葉、演劇でも使われ同じく練習という意味ではあるが、より実践的な即興劇として表現される。音楽は楽譜を再現できるかどうかだが、演劇は役になり物語が進むかどうかのような感じがする。

とにかく、おしゃれな言葉だけれど、その中に情熱のようなものが隠されている、と僕は感じた。

どんな世界にも、常識はある。しかし、その常識を超える非常識もまた、存在している。

もりたさんのエッセイ「24歳のエチュード」を読んだ。

24歳のエチュードは、前に進むためのエチュードだった。自分を変えるための、夢を叶えるための、好きを究めるためのエチュードだった。

音楽表現や楽器の演奏技術は、長い時間をかけて少しずつ少しずつ上達していくもので、幼い頃から的確な指導と膨大な練習量をこなしていかなければならない。そうでなければ、才能があったとしても、音大に入ることも、その先の演奏家として活躍することもできない。

という常識がある。

時々、小説などでは、ずば抜けた才能があって、譜面は読めないけれどピアノが弾けるとか、毎日練習してようやくなんとか弾けていたような読み手からすると、宇宙人のような存在である。

大学生の頃、音楽を演奏するサークルにいた。演奏家としてプロになる人もいた。いわゆるクラシックの演奏家よりも、ジャズの演奏家の方が敷居が低いようにも思えた。

そんなサークルにいた先輩が印象的だった。

童顔のイケメンだったが、とにかくセンスがあった。

担当はドラムだけれど、ピアノを「適当に弾いただけ」と遊ぶように弾き、サラサラと描いた絵もシンプルに上手かった。

あるとき、学祭の飾りだったか、ライブのチラシだったか、立っていたり座っていたりする人のシルエットを描き「ここに自分の楽器を書き足せばいいから」と言われ、紙を渡された。試しに描こうとしたが、どう頑張っても落書きのようになってしまうと感じて諦めてしまった。

音楽にしても絵にしても、発想を形にする技術のようなものを持っていた人だった。

書き手は、24歳の時に音大に行きたいと感じ、それを叶えるために、常識を超えるために、膨大な練習をした。そもそも音楽を学ぶとはどんなことなのだろうか、学んだ先に何が待っているのだろうか。

読み手の勝手なブレーキなど無視して、書き手は2年間を費やして、さらっと音大に入ってしまう。猛然と過ごした準備の日々があるほど、結果が出た時の印象は軽いのかもしれない。受かるべくして受かっているのだから。

書き手ひとりだけではない、きっと書き手の周囲の人にも恵まれていたのだろう。あからさまに邪魔をする人は書かれていないとしても、それぞれが自分のやるべきことを全うして、書き手のいまがある、とは言い過ぎだろうか。

音楽は趣味にも仕事にもなる。書き手は、それを明確には書いていないが、のびのびと好きなことをしている様子は羨ましい。

熱の込められた、まっすぐなエチュードを聴いた。

どこかに同じように常識を越えようとしている人がいた時、僕には応援することができるだろうかと、少し不安になった。


#創作大賞感想 #ピアノ #エチュード #音楽  

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