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24歳のエチュード

僕は思い出す。ゴミ袋でいっぱいになったあの部屋のことを。脱ぎっぱなしのパジャマのことを。こたつの上に置いたままになっているカップラーメンの容器を。干からびた何かを。空になったいくつもの酒瓶を。世界を呪い、他人を恨み、堕落していたあの頃を。

1.


2014年の春、皆は新たな世界へと羽ばたいていった。一流企業に就職した者もいれば、国家公務員になった者もいる。理系の友人はだいたい大学院に進学していった。
僕は、就職活動をしなかった。そしてただの無職となった。

一浪して入った大学は、関西ではそこそこ有名な大学で、入学した時は、これで僕の人生の全てが報われたと思った。しかし、どうしてもやりたいことが見つからなかった。いや違う。やりたいことはあった。ただ、どうしても踏み出せないでいたのだ。
僕は、大学に進学してから、今の学問を追求したいとは思えず、次第に音楽の勉強をしたいと思って日々を過ごしていた。現在の僕なら、さっさと大学を辞めて音大に行けば良いじゃないかとすぐに行動できたかも知れない。
でも、できなかった。苦労して入った大学を捨てられなかった。両親や、やっとできた彼女を幻滅させたくなかった。でもそれはきっとうまくいかないだろうという自分への言い訳だった。そうやってずるずると後回しにした結果、僕は何もかもが中途半端な人間のままだった。

卒業式の1週間前に彼女にフラれた。当然だと思ったのでただその事実を受け入れようとしたが、僕は、しばらく失恋を引きずっていた気がする。ふとした瞬間に涙がこぼれ落ち、その時は決まって日本酒を浴びるように飲んでいた。どうしてこうなってしまったのだろうか。全部自分が悪いはずなのに、誰かのせいにしようとばかり考えていた。
このまま家に引きこもっていたら一生酒を飲んで、ぶつぶつ文句をいうだけになって、しまいにはおかしくなってしまう。1週間は引きこもった。でもこれ以上はいけないと思った。

何もせずにじっとしていると何かやらないといけない気持ちが湧いてきたので、それは良かったことだと思っている。とりあえず明るい時間は外に出ようと思ったので、昼のバイトをしようと思った。今思うと、このバイトが僕にとってのささやかな光だったのだと思う。

2.


アパートから徒歩30分くらいのところにあるブックオフでバイトをすることになった。飲食店は接客や洗い物が大変そうだし、新刊書店も良いなと思ったが、近所の大型書店はいつも混んでいた。
一度ブックオフの店内を訪れ、なんとなくのんびりしている感じだったので、ここにしようと思った。
バイトに6人くらい面接に来ていたそうだが、採用されたのは僕一人だけだった。

店長は音楽の専門学校を出たあと、アルバイトで入り、何年か働いた後、正社員として採用され、この春から店長になったようだ。僕は、棚の作り方、買い取りの方法、値下げのタイミングなどを叩き込まれた。厳しい店長だったけど、初めて採用したのが僕だったようで、可愛がってもらえた。

ブックオフで働こうと思ったのは、本が好きだったからなのだが、大学生のときにほとんど読書をしていないことに気づいた。もちろん、文献や資料集めのために本を読むことは山ほどあった。でも、自分の時間で好きな本を読んでいないということに、その時になってやっと気がついたのだった。
驚くことに当時の僕の部屋には、ただの一冊も本がなかったのだ。

3.


「いらしゃいませこんにちはー、いらっしゃいませこんにちはー、いらっしゃいませこんにちはー」「ブックオフかよ」、というのは、お笑いコンビ「サンドイッチマン」のコントでの一幕だが、まず僕に課された仕事はこの「やまびこ」と呼ばれる挨拶だった。

「うるせえ、静かに読書がしたいんや」と怒鳴られるとこもあった。それなら図書館に行けば良いじゃかないかと思ったが、どこにでも理不尽な客はいるんだなと学んだ。確かに立ち読みOKだけれど、静かに読みたいのなら、買って帰れば良いじゃないかと思ったが、そういう客はだいたい本を買わない。
どこかから拾ってきたような、ぼろぼろの本を持ってくる客もいた。どう考えても売り物にならないので、「申し訳ございません、こちらの商品は買取ができません、こちらでお引き取させていただいて、リサイクルすることもできますがいかがいたしましょうか」と聞くと、「へ、そうやってタダでもろといて、売りもんにするんやろ、わるい商売してはるな」と言われることもあった。
うるさいので、「では、こちらはお返しいたします」というと、いや、ええわ、って要らんのかい。

一緒に働いている人たちは、ありがたいことにみんな優しかった。ゲームやアニメに詳しい人、漫画が好きな人、本が好きな人様々であったが、休憩時間に話をするのが楽しかった。
僕は、当時流行していた本や、名作と呼ばれる本をほとんど読んだことがなかった。高校生の時の読書で止まっていたのだ。

ある日、「店の商品を買うことってできるんですか?」と店長に聞いてみると、とくに社割とかはないけど良いよ、と言われたので、108円コーナーにある村上春樹の本を買えるだけ買った。なぜかわからないけれど、村上春樹くらい読んでおかないと、と思ったのかもしれない。

その時、村上春樹が神戸の高校に通っていたことを知った。

神戸の大学へ進学し、そのまま神戸に住んでいた僕は何かしらの縁を感じた。『風の歌を聴け』からはじまり『ダンス・ダンス・ダンス』へと収束する初期作品。夢中で読んだ。この宙ぶらりんな今の自分に主人公の「僕」や、友人の「鼠」が重なり、胸が締め付けられることもあった。
一度読んだだけでは飽き足らず、2周3周と繰り返し読んだ。ブックオフで働いていた2年間で、僕は村上春樹の小説を読破し、その後、海外文学やその他の作家の小説も読んでいった。

いつの間にか僕は、読書が生活の一部になっていった。お金が足りなくなったので、支給されている交通費を浮かせるために(ほんとはあかんよ)徒歩でバイト先に向かうことにした。

6月に入り雨が多くなった日も、「本のため」と思い歩き続けた。いつの間にか酒の量も減っていた。健康にもなりつつある。良い兆候だと思った。

そんな折、東京の企業に就職した友人から連絡があった。

4.


友人の所属しているアマチュアのオーケストラ楽団のコンサートがあり、そのコンサートで僕が書いた室内楽の曲を演奏してくれるという連絡だった。この曲は、2012年にホルン奏者の友人からの依頼で作った、僕の初めての作品である。大学内で演奏され、まさか再演してくれるとは思わなかったのでとてもうれしかった。
僕は、東京へ夜行バスで向かい、お金がなかったので、友達の家に泊めてもらった。
当日勝手に一人でドキドキしながらホールで自分が作った曲が演奏されているのを聴いて、僕は感動して泣いた。
演奏が終わると、作曲者の紹介ということで、客席にいる僕を紹介した。たくさんの拍手をもらえた。

当時音楽理論も何もわからずがむしゃらに作った曲なので、今改めて楽譜を見ると、演奏が極端に難しい箇所、不自然な転調、和声の厚みにかける部分などたくさんの課題は見えてくるものの、「いい曲だな」と思った。
8分の6拍子で、ホルンが躍動するような主題で始まり、その後一度穏やかなテーマが訪れ、最後は調性を変え、再度、主題を登場させたあと、展開させ、馬に乗って草原を一気に駆け抜けるように速度を上げて曲が収束する。終演後、他の奏者の方から「楽しい曲をありがとう」と言われ、やっぱり僕は音楽をしている時が一番楽しい、と強く思うようになった。僕の心の中でずっとくすぶっていた音楽への想いが、確信に変わった瞬間であった。

もう自分をごまかすことはやめよう。そして自分のうまくいくはずがないという言い訳も無しにしよう、そう思った。
帰りの夜行バスでは熟睡していた。

そして、ここから僕の挑戦は始まった。僕はもうすぐ24歳になろうとしていた。

5.


音大で学ぶためにはまず、入試を突破しなければならない。僕は、吹奏楽部で管楽器を演奏してきたのだが、ピアノが弾けなかった。そして、どの入試を見ても、ピアノの試験があった。当然である。ピアノを専攻しなくてもピアノはある程度弾けなければいけないのである。
まず、僕がやったことは、電子ピアノを購入することだった。貯めたバイト代がほとんどなくなった。もう後には戻れないと思った。

帰宅して、部屋を見渡すと、どう頑張っても電子ピアノを入れるスペースがないことに気づいた。物が溢れ返り、とにかく散らかっている。まずい、明日には届いてしまう。僕は大掃除を決行した。
まずは、ゴミ。酒瓶や缶をまとめて処分し、要らない書類なども全て捨てた。コタツを処分し、テレビ台が邪魔だったのでそれも処分し、ついでにテレビも売った。着ない服でパンパンになっている衣装ケースを整理し、クローゼットにすっきりと収まるまで、物を減らし続けた。クローゼットを閉じると、部屋にはベッドと机だけ、という状態になった。
久しぶりに部屋のフローリングを見たような気がした。

こうして無事に電子ピアノを迎えることができたのである。
もちろんピアノを迎えただけであって、ピアノが演奏できるわけではないのだけれど、前に進んだ感じがしてちょっとうれしかった。

6.


遅番のシフトだった。バイトを上がる頃には、雨は止んでいた。
帰りの時間が店長と同じだった。ちょっと飲みに行こうやと誘ってくれた。
店長は、ふいに「俺は、歌で女を泣かせたことがある」と言った。
素敵だ、と思った。

7.


梅雨があける頃に、僕は昇給した。ネームプレートにランクアップのシールが付いた。
同じ頃、漫画家を目指していたTさんが去っていった。漫画の執筆に集中するために実家に戻っていった。Tさんは、休憩中ずっとタバコを吸っていて、「攻殻機動隊がなんといっても良い」と言っていた。
あれから10年が経ったが、どうしているのだろうか。まだ漫画を書いているのだろうか。そうであってほしい、何かを続けることってとても難しいことだから。僕は、あれから10年経って、なんとか続いている。ピアノが弾けるようになって、音楽関係の仕事に就いた。そしてそのことを書いている。なんだか不思議な感じがする。

Tさんの送別会が終わり、店長が、「そろそろ人を雇わないとね、君の教育も終わったことだし。」と言った。しばらくすると僕より少し年上のUさんが入ってきた。Uさんは、バンドマンで、ギターとヴォーカルをやっている。
あれ、店長、もしかして音楽が好きな人を採用しているのではないだろうか。僕が採用された時、店長は、ものすごい倍率だったんだよ、と言ったが、面接の時に音楽の話をしたからだったのではないだろうか。それでも良い。ラッキーだったと思うことにした。

Uさんの指導係に任命された僕は、一緒の時間帯に仕事をすることがほとんどだった。休憩時間は、音楽の話で盛り上がった。僕は、西洋音楽を勉強していて、Uさんはギターと歌ができる。お互いの知識を交換する時間が楽しかった。僕は、和声のことやおすすめのクラシック音楽を話し、Uさんにはギターのことやシティポップの話を聞いた。

その頃僕は、Uさんと、村上春樹の影響で、クラシック音楽だけでなく、フリッパーズギター、大瀧詠一、ザ・ビーチ・ボーイズなどを聴いていた。あとはブックオフの有線で流れてくる星野源にハマっていった。僕は、いつの間にかブックオフで、本だけでなく、CDも買うようになっていった。特に気に入ったのは、フリッパーズギター「恋とマシンガン」、大瀧詠一「FUN×4」、ザ・ビーチ・ボーイズ「素敵じゃないか」、星野源「Crazy Crazy」だ。
今は、中島みゆき「時代」を聴きながら書いている。
 
そんな時代もあったねと
いつか話せる日が来るわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう
(中島みゆき「時代」より)
 
 

8.


さて、そろそろピアノの話をしようと思う。ここからエチュード(練習曲)の日々である。ピアノは買ったものの、何から始めたら良いのかわからないので、僕は、ピアノが弾ける友人に連絡してみた。フラれた元カノだ。仕方なかった。他に思いつかなかったのだ。

まずは、ピアノの先生を探してレッスンを受けることが必須であると言われた。でも、と言った後、一呼吸おいて、いまからピアノを始めても絶対に音大に入れるようなレベルにはならないし、万が一入れたとしても、音楽の仕事なんて滅多にない。教員免許をとったとしても音楽の教師は、募集がかなり少ないから倍率がものすごく高くて、到底ライバルたちに敵うはずがないからやめておいた方が良い、趣味で楽しむくらいがちょうど良いよ、とアドバイスももらった。夢を見つけた僕に嫉妬したのだ、と都合の良い解釈をした僕は、俄然やる気が湧いてきた。やめておけ、みたいなアドバイスは、だいたいにおいて聞かない方が良い。どうしてみんな悪い方に考えるのだろうか。
後半のアドバイスは無視したが、レッスンを受けることは確かに必要だと思ったので、僕はピアノ教室を探した。

僕は、A先生の自宅でレッスンを受けることになった。優しそうな女性の先生で、娘さんが僕とだいたい同じ年くらいだと言っていた。初めて訪れた時に、ピアノは弾けないが、楽譜は読める、聴音はできる、和声の初歩的な課題ならできる、作曲をしたことがある、そして、—ここでぐっと拳に力を込めた—再来年に音楽科の大学の受験を目指していることを伝えた。

「ということは、今から2年で、初心者からピアノソナタを弾けるようになるまで頑張るってことね。わかった。やってみよう。」
無理だとは言われなかった。それがなんだか嬉しかったのだが、じゃあ来週までにこの楽譜を買って弾いてきてねと課題を出された。
初めての課題は「ハノン」の1から5番とスケール(ハ長調とイ短調)。「ツェルニー三十番練習曲」の1番。バッハ「インヴェンション」の1番であった。
試されていると思った。いきなり3冊も…ライバルたちが10年かけてやることを2年でやるのだからそうなるのか。楽器店に行き、指定された楽譜を買いに行った。帰りの電車で、ワクワクしながら、楽譜を眺めてみる。あれ、これくらいならいけるかも、というのが最初の感想だったが、もちろんそんな簡単に行くわけがなかった。

家に着くと早速弾いてみる。右手で演奏する。拙いがなんとか弾ける。左手で弾いてみる。左利きというのもあってか、意外となんとかなった。僕には才能があるのかもしれないと思ったが、あまりにも楽観的すぎた。
ピアノは両手で弾かなければならないのである。両手になった途端、僕の頭はパンクした。あれ、指を変えるタイミングが違う、あれ、指の動きも違う。
ピアノの入門書であるハノンを前にして、早くも辞めたくなった。僕はあまりにも無謀なことをしようとしているのだろうか。絶望に打ちひしがれて、その日は不貞腐れて寝た。

最初に買った3冊の練習曲。僕にとっては、とにかく難しかった。


 

9.


それでも僕は毎日ピアノを弾き続けた。バイト以外の時間をほとんどピアノの練習に充てた。最低でも1日6時間は弾くようにしていた。電子ピアノだけだと、どうしても打鍵の感覚が掴めないので、週に一度近所のスタジオを借りてグランドピアノで練習した。ハノンがある程度進んでいくと、他の練習曲も弾きやすくなることがわかったので、まずはハノンをしっかりと勉強しようと思った。子どもの頃にハノンをやれと言われたら、つまらないと思ったかもしれない。
でも大人になってピアノを始めてみて、楽譜を読んでいくと、これほど合理的なものは無いと思った。夢中になってハノンを弾いた。これは実際に大学に入ってからも続けていた。ハノンだけは欠かさず弾いていた。修行のようなものである。
 

10.


ピアノを習い始めてしばらく経った頃、僕はぎっくり腰になった。季節はもう秋だった。ピアノをいつものように練習していたら、突然腰に激痛が走ったのである。
ピアノを演奏する上で、まず大切なのは、姿勢だと先生に言われた。指にばかり気がいくと身体が不自然にゆれたり、姿勢が悪くなって音色が安定しないのだ。なので、姿勢、姿勢、姿勢、と言い聞かせていたのだが、慣れないのもあり、変な力が入り、腰に無理なダメージが蓄積されていったのだろう。

すぐに病院に行ったが、ピアノを練習していたらこうなったといくら説明しても信じてもらえなかった。「ピアノを…」と必死で声を出したが、最後には、なるほどピアノを運んだ時にきたのね、と言われ、もう面倒なのでそういうことにして、臀部にでかい注射を打たれ、コルセットを巻いた。ものすごく惨めだった。もう辞めてしまおうかと何度も思ったが、辞めたところで、何をすれば良いのかわからなかった。だから、苦しかったけれど、しがみついた。今はこれしか無いのだ、と何度も自分に言い聞かせていた気がする。
 
 

11.


神戸の良いところは海と山がすぐ近くにあることだ。そして方角もわかりやすいので道に迷わない。山が北で、海が南、駅の案内にも山側、海側とある。
神戸の山も海もどちらも好きだ。ただ、海に向かおうとすると、鉄道の高架下、阪神高速の下や、たくさんの幹線道路を横断しないといけないので、結構がやがやする。
気持ちを落ち着かせたい時は、だいたい山に向かった。静かだし、坂を登るので運動になる。といってもしっかり登山をするわけではなく、大学が山の上にあるので、夜にお邪魔して、のんびりと夜景を見ていた。昼間に行くと後輩に会うかもしれないので、決まって夜だった。神戸の夜景は美しい。

明かりの一つ一つが僕を祝福していると感じる時もあれば、一方で、その明かりがものすごく遠い存在に感じる時もあった。
今こうして当時のことを振り返ると、あの時の時間は無駄ではなかったと言えるのだが、当時の僕は、焦っていた。苦しみ、もがいていた。
 
 

12.


冬が来た。この年の冬は長く寒かったように記憶しているが、実際にどうだったかはよく覚えていない。
この頃になると、「ツェルニー三十番練習曲」は1週間で1曲弾けるくらいになっていた。練習曲とはいえ、1曲弾けるようになるたびに達成感があった。バッハの「インヴェンション」は厄介だった。2週間で1曲できれば良い方で、3週間、1ヶ月とかかる事もあった。
そんな時は、決まってチャイコフスキーやシベリウスのことを考えた。彼らは、もっと寒くて厳しい、長い冬の間に曲を作っていたのだろう。僕は、こたつを捨てたことを後悔していたのだ。
 
 

13.


クリスマスイブはバイトをしていた。もちろんピアノも弾いた。クリスマスイブにハノンを弾いている24歳は、もしかすると、日本でただ一人だけだったかもしれない。
 

14.


春になった。入試まであと1年となったところで、試験で演奏する曲が決まった。
ベートヴェン「ピアノソナタ第7番第1楽章」。速いパッセージ、躍動感のあるダイナミックなソナタ。あまりの難しさに、もっとシンプルな曲の方が良いのではと先生に訊いたが、音が多くて、コンサート映えする曲の方が、ごまかしがきく、とのことだった。なるほど。

「肩下げて」の文字がこの後も何度も登場する。


 
ブックオフでは、相変わらず僕はUさんにつづいて2番目の下っ端のままだった。居心地が良いからか、辞める人が少ないのだ。その結果入ってくる人もいないということになる。結局翌年の春に僕は去ることになったが、その時までこのポジションは変わらなかったような気がする。

 
ここから先も語ることはきっとあるのだろうが、ただひたすらピアノを弾く、バイトをする、その繰り返しだった。翌年の春無事に大学に合格し、今度は音楽科の学生としてのキャンパスライフを送ることになった。
もちろん大学の授業についていくのが大変な時もあった。だが、ここまで折れずに続けられたのは、やはり「好きだ」という気持ちが消えることがなかったからだと思う。音楽の仕事に就いた今もその気持ちは変わらない。多分。
 
そして周りの環境にも恵まれたのも大きい。音楽好きの店長。東京で演奏してくれた友人。音楽トークで盛り上がったバイトのUさん。そしてなんといっても、初心者の無謀な挑戦を真面目に聴いてくれ、指導していただいたピアノのA先生。何者にもなれず腐っていた僕。その絶望から救ってくれた人たちには感謝をしてもしきれない。
 

15.

2018年に東京で演奏をしてくれた友人が結婚した。
僕は、感謝の気持ちを込めて、式で流す「思い出の映像」のBGMを作曲した。
ピアノで曲を作り、音楽科のピアノ専攻の同期に録音を依頼することも考えたが、せっかくなので、自分で演奏して録音した。
後日、「あれピアノ弾けたんだっけ?」と聞かれた。
「うん、実はちょっとだけ。」と答えておいた。

16.


最後に。この10年前の出来事を振り返ろうと思ったのは、いま僕は、10年前と同じように人生における大きな転機を迎えているような気がするからである。僕は、音楽も好きだが、文章を書くことも好きなのだということに気付いたのである。2024年5月19日、文学フリマ東京に初めて出店した。もちろん本を作るのは初めての経験だ。買ってくれる人がいた。読んでくれる人がいた。とにかく楽しかったのだ。振り返れば、他人のアドバイスを華麗に受け流し、やりたいことは何としてでもやり遂げようとしてきた人生だった。やりたいと思ったら止まらないのである。だから僕は、文章を書くことにした。
24歳の僕は、はじめてピアノを弾いた。33歳の僕は、文章を書き始めた。
 


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