世代間論争(Z vs other)

vs Z世代

 どうでもいい話だが、最近「我が物顔なZ世代を尊重しないといけない風潮に疲れた」という記事や「面接でやりがいを語るやつが落とされる納得の理由」みたいな記事、「自分で経験もせず自己啓発本を読んでわかった気になってる奴はアホ」みたいな記事、「他人からのよいしょを真に受けている自己皇帝系人間が多い」みたいな記事。そんな記事を読んだ。
 どれも、所謂Y世代以上の先輩方からZ世代への不満というようなスタンスに感じられた記事だった。著者のことを調べているわけじゃないからただの思い込みでしかないが。

 俺はそれらの世代で言うなら、ミレニアム世代という世代だ。
 Z世代的価値観が正しいと教わりつつ、社会に出たらY世代以前の価値観、個人的には昭和的価値観と呼んでいるが、が現実であり理想論を語るなんて社会人失格という烙印を押された世代だ。俺はそういう移り変わり、狭間で翻弄された人間だという風に自分を認識している。
 そういう意味で、俺の中では常に昭和的価値観とZ世代的理想論が喧嘩している。だからまぁ、一応両方の言い分に納得は出来ているつもりだ。
 そういう視点で、この世代間の対立、本質的には理想重視か実益重視かの争いについて分析していきたい。
 まずは、Z世代擁護という視点で論を展開していこうと思う。
 ただご安心いただきたいが、その後にZ世代に手厳しい指摘をするつもりだ。
 そういう両方におもねり、両方に味方と見られないヒキニートな蝙蝠野郎の言い分として一蹴してもらっても構わないが、ご一読いただければ幸いだ。

実益を追い求めた結果シケモクだけ押し付けられた

 まず最初にY世代の人生の先輩方に理解して欲しいのは、基本的に若い世代にとって社会や会社というのは頼りにならないし、貢献する甲斐のないものだ、ということだ。
 人生の先輩である皆さんにとっては受け入れがたいことかもしれないが、現代日本というのは僕らにとってはシケモクでしかない。シケモクというのはいわゆるタバコの吸い殻だ。誰かが吸った後の吸い殻であり、貧民がもう一度火をつけて僅かに残ったタバコを味わうものである。
 現代日本というのは、シケモクでしかない。うまみは吸い尽くされた後で、わずかに残ったおこぼれというか残滓というか、そういうのに縋り付くしかない。頑張って火をつけたところで、遠からず完全なゴミにしかなり得ないものだ。
 そしてこの感覚はたぶん、日本に限らない。タバコのタールを現実の資源(石油や森林、半導体に使われる貴金属、未開拓の土地等)に置き換えてみるとご理解いただけるのではないだろうか?
 資源は有限だ。まだ暫くは残っているが終わりが見えている。だからこそサステナブルが持てはやされる。『持続可能』が至上命題とされているのだ。

繁栄の前借

 この感覚がどういった理論に結び付くかというと、

「現在に多くの快楽を集めることは、賃金の前借と同じ類のものだ」

 という理論だ。即ち、そのツケは未来に残される。
 一言でいえば、「繁栄の前借」だ。
 現代日本の若者にとってその感覚は非常にリアルなものだ。
 実際この日本という国にはもう、未来が無い。発展産業もなく、年長者が億を稼いでいる中自分たちは派遣で使いつぶされる。それだけでなく進む少子高齢化で2,3人で一人の老人の年金を担わなければならない。
 その実態や先輩方の思惑はどうあれ、若者にとってはこの「過去のツケを背負わされている」という感覚がリアルなものとしてある、ということをまずは呑んでいただきたい。

年長者への不信

 さて、では次にこの感覚がどういう理論に繋がるかというと、

「国や会社は頼りにならない。奪われないよう自分の利益を守らないといけない。」

 という理論だ。
 何故こう繋がるか。それは国や会社のトップがおじいちゃんたちばかりだからだ。
 そう、Y世代ですらない。我先にと奪い合い競い合うことで後先考えず発展を目指すことが善しとされてきた時代の人が自分たちの上にいる。彼らはもうその理論が通用しないことを認めないだろう。即ち「繁栄の前借」をやめない人たちが退場するまであと数十年続き、その頃には今よりもっとうまみのない世界が残されている。そして発言力も実績も役職も資金にも劣る自分たちにはそれを覆せない。なら今のうちから少しでも蓄えておかなければ。
 つまり、

「繁栄の前借を上が改めることもなければ、それを覆す力も自分たちには無い。故に今より悪い未来は確約されている。」

 この端的に言えば「不信感」が若者にとって国や会社を頼れない一番の原因だろう。そして頼れない組織のために我が身を捧げたくないのは当然のことだ。
 そしてこの不信感を取り除くために各国のお歴々が揃ってSDGsを唱え、会社のお偉方が「若い子に優しくしなさい」と言う。

 ただ多くの人が、そうZ世代自身達も含めて多くの人が、この世代間の感覚のズレが何なのかはっきりと捉えられていない。
 改めて言うが、そのコアの部分というのは「繁栄の前借」と、それに備えた「保身」である、と少なくとも僕は捉えている。

理想と現実

 最初のところで、

「自分で経験もせず自己啓発本を読んでわかった気になってる奴はアホ」みたいな記事、「他人からのよいしょを真に受けている自己皇帝系人間が多い」みたいな記事。そんな記事を読んだ。
 どれも、所謂Y世代以上の先輩方からZ世代への不満というようなスタンスに感じられた記事だった。

 ということを書いていたが、これに違和感を覚えた人も多いと思う。
 実際僕も書いていて違和感を持ちはしたのだが、やはり本質的には繋がっていると考えたからそのまま書いた。
 その理由について今度は書いていきたい。それがこの世代間の価値観の乖離について深堀る重要な部分だと思うからだ。
 キーワードは題の通り、「理想と現実」だ。

 先輩方の記事を読んでいると、大体の場合共通している指摘がある。
 それは「現実的に考えろ」だ。
 それは例えば「自分勝手を許せば組織が成り立たない」や、「慈善事業じゃないんだから利益を出さなきゃ始まらない」や、「自己啓発本の大半は適当な文に売れる煽りを入れてるだけ」や、「それは自己肯定感じゃなくて自分が有能だと思ってるだけだよ」とか、そういった指摘だ。
 夢見がちな事を言ってるけど、それって現実をちゃんと見れてない勘違いちゃんでしかないからね、という事が多い気がする。
 そしてまぁ、ぶっちゃけ僕もそれには大いに同意する。理想だけではこの世界は生きていけない。そして多くの場合掲げられている理想は夢想でしかない。「理(ことわり)」の無い夢物語でしかないことも多々ある。理想というのは本来哲学において、「想い描く限り最も満足のいく理(ことわり)、仕組み、システム」であったのに。

理想無き実益なんて

 だが何故、それでもなおそういった理想論に心惹かれる若者が多いのか、そこを是非先輩方にはご理解いただきたい。
 それは、繁栄の前借が起きる理由、それが「理想」が無いからと思っているからだ。
 もっと正確に言おう。

「目先の事ばかり追い求めると繁栄の前借が推奨されてしまう。だからこそ、それによってツケを背負わされた自分たちくらいは、広く(グローバル)長い(サステナブル)展望を持って判断し、生きていかなければならない」

 だが、正直言ってどれだけの若者がここまで正確に把握出来ているだろうか。
 殆どの人はただ「目先の利益だけ見てちゃ駄目だ」という危機感だけがあって、でも「掲げるべき理想」が見つからなくて手頃なものを探している。
 そう、大体の人は「手頃な理想」を探していると思う。
 掲げていてなんとなく恥ずかしくない、それでいて自分が正しそうに見える理想を。
 勿論ちゃんと理想を掲げている人も幾らでもいると思う。その違いは後程詳しく指摘するが「現実との折り合いを探っているか」だと僕は考えている。

 ともかく、
「資源の有限感」⇒「繁栄の前借感」⇒「理想を持たなきゃ感」
 この一連の感覚がなんとなく、自分でも正確に把握出来ないまま繋がっているということはご理解いただけるだろうか?
 もしご理解いただけたのであれば今一度、先輩方の若者への指摘を思い出してほしい。

「理想ばっかり語ってないで現実を見ろ」
「そんなだから俺らにツケが回ってくるんですけど分からないんでしょうね」
「そうやってまた面従腹背する。面倒見切れないわ」
「じゃあ別のとこ行きます。固く狭い皆さんと違って俺はもっと広い視野持ってるので」

 若者の世界観はこんな感じだ。
 さて、ここまで若者よりに擁護してきましたが、そろそろ裏切りのお時間です。
 ここから先は現実論を語っていきましょう。

自分に何が出来るか

 さて、ここまでの文章をどれだけの若者が読んでくれているかは不明だが、どう思われただろうか。
 ある程度頷き、そうそうその通り!と思ってもらえるよう言語化したつもりだが、的外れでなかっただろうか。
 もし的外れであったのなら、この後の言葉も笑い飛ばして欲しい。この後の文章は、僕の分析がそれなりに的を射ていたと仮定しての話にはなる。

 まず第一に問いたいのは、読んでくれているあなた達のうち、何人がここまで言語化し、自分達の感覚を正確に把握出来ていただろうか。
 これは別に把握出来てもいないのに我が儘を言うな、という単純な話をしたいのではない。何かを改善するのに必要なものは、現実の否定ではなく理想の肯定であるということだ。
 振り返って欲しい。あなた達は、現実(社会政府会社上司)の否定に終始していなかっただろうか。掲げ肯定すべき理想をキチンと吟味出来ていただろうか。他人に変化を強要するだけでなく、自分に何が変えられるかという視点で自分の行動を選択できていただろうか。

 悲しい事に、そしてご存じの通り、幾ら僕らが声を上げようと社会は変わらない。変わろうという姿勢は見せてはいるが、本腰を入れることは無い。そして僕らに降りかかる負債からは逃れられない。変化は間に合わない。彼らは前借した繁栄の負債を自ら払うことをせず人生を逃げ切ろうとするだろう。
 それは仕方の無い事だと僕は思う。だってその方が彼ら自身にとって都合がいいのだから。もし「負債を残している」という感覚を認識してしまったら、彼らは残り少ない人生を返しきれない負債の返済に充てた上で結局返しきれずに死ぬしかないと気付いてしまうのだ。その絶望感と無力感に耐えられる程強い人間は決して多くない。人間はそれほど強くないのだ。
 ならば、人に変われと促すよりも自分がどう世界を変えられるかを考えるべきだ。

「自分なんかじゃ世界は変えられない」

 こう言うときっと「自分なんかじゃ世界は変えられない」と思うだろう。僕もそうだ。
 だから僕はこう考えている。

「世界は変えられないと思う。でも世界を変えられないと思っていると生きるのが辛いから、世界は変えられると嘘であっても思い込もう。その方が自分の人生を生きられるというメリットがあるから」

 僕だって世界を変えられるなんて思っていない。
 世界の広さに、日本社会の複雑さに比べて自分の力はあまりに矮小だ。
 「変えられる」か「変えられない」か、どっちが正しいかと言えば「変えられない」が正しいだろう。
 だが自分にとって不利益を生む正しさに何の意味があろうか。
 「変えられない」という正しさを信じるメリットは、「期待せずに済むから自分の心を守れる」ことだろう。しかしデメリットとして「無力感から生きるのが億劫になる」というのがある。少なくとも僕はあった。
 僕にとっては、正しさにはデメリットの方が大きかったのだ。だから、嘘であっても「変えられる」と思い込むことにした。その方が自分にとって都合がいいから。

SDGsは、まぁ悪くない

 話を戻そう。
 僕たちは、「資源の有限感」から「繁栄の前借感」を覚えて、「理想を持たなきゃ感」に追い立てられている。
 それ故に理想無き利潤追求に嫌悪を感じ、自己啓発本を読み漁る。
(とは言っているが本当にそれが理由かは各々時間を置いて見つめなおして欲しいが)
 だとするなら、僕たちが掲げるべき理想は一先ず「SDGs」で良いのではないかと思う。その感情の根本が資源の有限感にあるとするならば、まずは大雑把にSDGsを掲げればいい。
 でも勿論、きっとそれは不正確なのだ。だって、SDGsだけで17項目もあるのだ。とてもじゃないが、その全てに対して身を持ってリアルな危機感として感じられるわけでは無いだろう。例えば日本人なら「水」に対しての危機感なんて知識レベルでしかない人が殆どでは無いだろうか。
 あくまで仮初、SDGsは行き場のない使命感の落ち着け所でしかない。しかし、大きなヒントになるはずだ。
 ジェンダー問題、労使問題、飢餓問題、次世代技術問題等、17個も例示してくれているのだ。きっとあなたが最も危機感を覚えているそのコアを探り当てるヒントにはなるはずだ。

彼ら彼女らもまた「若者」だった

 そうやって、まずはあなたの内で燻る焦燥感を宥めてあげて欲しい。そして今から書くことは、その後にもう一度思い出して欲しい。
 本当は、あなたの上司も、親も、政治家も。本当は敵では無いのだ。人生の先輩なのだ。
 彼ら彼女らも、昔は夢と理想を持つ若者だったのだ……。

 分かりやすい例を挙げよう。現在会社や社会のトップにいるおじいちゃん達は、僕らにとっては教科書の出来事である学生運動を青春時代に持つ世代なのだ。
 勿論その渦中に居たかは分からない。だがその熱情に文字通り火炎瓶で身を焦がす姿を同世代に、あるいは幼心に見た世代だ。
 そしてそれは、裏を返せば若き熱情が、理想論が体制によって封殺されていくのをリアルな出来事として体感してきた世代だ。

「理想だけじゃ世界は変わらない」

 そうした苦い記憶から、反動として実利を求めるようになった世代なのではと僕は思っている。でも、先輩方はそれだけでは終わっていないのだ。
 自らの実利だけではない。日本という国が少しでも豊かになるよう、その思いは決して偽りではない。その証拠に、僕がいる。

考える時間と教養があるという恵まれた社会

 この記事を始めて読んで、筆者である最内翔という人間が何者かご存じない方が殆どだろう。
 僕は学者でも記者でもない。ただの生活保護を受給している引きこもりニートだ。
 心のバランスを崩し、仕事を辞め堕ちるところまで堕ちた。国から金を貰わねば食っていけないような状態まで落ちこぼれた。
 でも面白い事に、そんな僕は先日所要で銀座や歌舞伎町をぶらついた(勿論何も買えなかったが)。
 そう、銀座を、歌舞伎町を普通に歩けたのだ。これは実は凄い事だと思う。
 銀座や歌舞伎町というのは、日本という国の首都東京都の、随一の歓楽街だ。金持ちが酒とブランド品と享楽を求めて集まる、貧乏人にとっての別世界。或いはおこぼれにありつくため這いずる場所。
 でも、そんな首都の歓楽街を稼ぐ力の無いオッサンが白い目で見られずに歩ける。蹴りだされないだけの清潔さとふくよかさで、人ごみに紛れ込むことが出来たのだ。
 そしてその恵まれた状況を恵まれているのだなと理解出来る程度には、知識と考える力を持っているのだ。
 そしてその体験を、こうしてパソコンを使ってネットに発信出来ている。

 普通じゃ、考えられないことだ。
 働かなければ食っていけない。それどころか働いても食っていけないことすらあるこの世界で、働かなくても食わせてもらえていて、それによって繋いだ時間を療養と思索に充てる事が許されている。
 これがどれだけ得難い事か。どこまで伝わるかは分からないが、やはり本当に有難いことだと感じているのだ。
 最初の方で僕は日本社会を「シケモク」と断じたが、そもそもタバコは嗜好品だ。それを口に出来る事自体がそこそこ恵まれたことなのだ。

「一時的であれ、働けず蓄えが無くとも生きていける。理想のために自分が何が出来るか考えるための時間を繋いでくれる。考えるための環境を提供してくれる」

 そういう選択肢がどれだけ有る事が難しい事なのか。
 その選択肢は、余裕は、数十年前は無かった。そしてまた数十年後には失われるだろう。
 だが、そんな選択肢が今あるのは間違いなく先輩方の尽力あってこそなのだ。先輩方が「善かれ」と願って生み出してくれた選択肢なのだ。

 口さがない人はそう言うと、「こんな文章を書く暇と余裕があるならとっとと働け怠け者」と僕を罵るかもしれない。
 だが僕はむしろ、誰よりも生活保護という制度を正しく使っているつもりだ。生きる気力を失った者が、もう一度人間らしく歩みなおすため、態勢を立て直し踏ん張るための時間を繋ぐのがこの制度のはずだ。ならば僕は誰よりもこの制度を正しく使っているつもりだ。

 そうやってもう一度踏み出そうと理想を掲げて生き直す人間が許容される社会こそ、先輩方が願った社会なのだと、僕は信じている。

現実を相手取れ

 であるなら、僕たち若者に出来る事は何か、今一度考えて欲しい。
 それはきっと老害めと恨む事では無いはずだ。年長者だからと儒教的に無条件に敬うことではないはずだ。
 先輩たちが手放さざるを得なかった理想を、今の僕たちが引き継ぎ、それを現実にしようと足掻こうとすることではないのか。

 現実には様々な障害がある。故に先輩方は手放さざるを得なかった。
 だがその障害の一つ、「一日の大半を労働に費やさねば飢えて命は途切れる」というものは、生活保護は極端にしろ、取り除かれつつある。
 だがその代わり、僕らの前には様々なしがらみが立ち塞がっている。
 それを単に「利権だ」と罵って何が変わるのか。そもそも様々な貢献の持続的な後払いという観点では別に利権そのものが悪ではないというのに。
 それを単に「悪しき慣例」と罵って何が変わるのか。そもそも誰だって変わるというのは重労働だ。自分によっぽどの不利益が無いなら現状維持の方が楽なのは皆一緒だというのに。

 だから、理想を掲げるだけでは不十分だ。現実に平伏するだけでも不十分だ。
 理想を掲げ、現実を相手取り、自分が社会のために何が出来るのかを考え続ける事こそ、本来の社会人ではないのか。
 願うだけでは、人に変化を強要するだけでは世界は変わらない。いや、もしかしたら変わるかもしれないがそれはあなた自身の影響力を捨てると同義なのだ。

 理想を捨てるだけでも、理想を喚き散らすだけでも不十分だ。
 現実から目を逸らすだけでも、現実で全てを飲み込むだけでも不十分だ。
 その狭間で足搔き、藻掻いてこそ人は人であれると僕は信じている。
 僕はそう生きたいと願い、行動している。



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