国語力

 本記事は上記の動画の視聴感想文みたいなものです。
 見なくても読めますが見た方が分かるかと思います。


前置き

 率直に言って、これらの動画を見た感想は「半分同意、半分疑問」だ。
 うん、否定ではない、はず。疑問だ。
 国語力という概念やそれが何故重要なのかは非常に同意だ。
 ただ、数多の問題の根っこに国語力の低下があるというのには疑問が残る。これから指摘するような疑問点は当然石井先生も思い至って、その上で動画の尺が足りず説明しきれなかったというだけのはずだ。
 そういう意図で書いていることを先に書いておく。

国語力とは

 まず簡単に国語力について僕流に説明しておこう。

 国語力とは「言語を操り、形無き概念を把握し、組み立てたり想像する能力」だ。
 もう少し具体的に書こう。

蝉丸先生

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関

蝉丸

 これは百人一首、その中でも坊主めくりでは独特なルールを持つことも多い蝉丸の和歌である。
 単純な意味としては

「逢坂の関って所で沢山の人が行き交っているのを見ました」

 である。
 だが当然そんな小並感(小学生並の感想)な意味しかない31音が歴史を超えて現代にまで残っているはずが無い。
 この歌を理解するにはまず「あふ坂の関」を理解する必要がある。
 「あふ坂の関」は言わば地名なのだが、特別な意味を持つ地名なのだ。
 その当時、文明の未発達な日本においては、京の都だけが人の領域だった。基本的な情報の伝達速度が人の足な当時において、京の都以外の土地は土民共の暮らす未開発な土地なのである。
征夷大将軍も、夷"東方の未開人"を征す"征服する"大将軍)

 そんな京の都の境目の一つが「あふ坂の関」である。
 そして「あふ坂の関」というのは貴族の都落ちの代名詞的な場所だった、らしい。都落ち、つまり政治闘争で敗れ、文明人の暮らす都から追い出される、その象徴となるこちら(文明の領域)からあちら(未開の領域)への境目であったのだ。
 だが「あふ坂の関」は漢字で書くと「逢坂の関」と書く。
 「逢う」とは、まぁ「会う」の難しい漢字だ。追い落とされる貴族からすると、都から追われ親しい人たちと別れる自分にとって「逢う」とは皮肉であり、その気持ちが詠われた和歌も多い。

 そしてそんな「あふ坂の関」に蝉丸は住んでいたらしい。
 その暮らしの中で行き交う人々を見ていた。
 都へ向かう人、都から離れる人。
 都というのはそれほど特別なもので、全ての人にとって人生の転機となりうる場所だ。
 故に、「あふ坂の関」を通る人は、まさに「人生の岐路」にいる人が多い。(岐路とは分岐点、分かれ道の意味)
 自分は今たったひと所に住んで日々を暮らしているだけだが、行き交う人々を見ると、その一人ひとりから人生の悲喜こもごもが感じられる。
 そんな彼らの人生を想像して詠んだのが、冒頭の和歌だ。

「あの人も、この人も。
 都に行く人も都から出ていく人も、それまで住んでいた土地の人々との別れを経験し、そしてまたここで逢坂の関を通る隣の旅人や私と別れていくのだ。
 『逢坂の関なんていうけど都落ちの代名詞じゃねぇか!』とか言う人も多いけど、実際期待に胸を膨らませて都の人々に『逢い』に行く人達も沢山いるんだよね。
 そのどちらの人も通る運命の交差点。それがこの『あふ坂の関』なんだなぁ。」

 たった31文字を説明するために、今僕は852文字を費やした。
 勿論僕自身和歌に特別詳しいわけではないから間違った解釈かもしれないし、その上で全てを説明出来ているわけではない。
 ただ、国語力の説明としてはこれが一番伝わりやすいと思う。

語彙

 「語彙力」は国語力そのものではないが、国語力を語る上で欠かせないものである。
 先の百人一首の解説で、僕は以下の語彙を噛み砕いて平易な表現に再説明した。

 あふ坂の関征夷大将軍都落ち逢う岐路

 先ほどは言葉を濁したが、細かいことを言うと「逢う」と「会う」はニュアンスが違う。
 「会う」は単に顔を合わせる程度の意味で使われることが多い普段から使う言葉だ。
 「逢う」は一方でもう少し感傷的な言葉だ。
 会いたくて会いたくて震える気持ちを抱えながらようやっと会えて、でも短い時間は過ぎて別れの朝が来る。そういった感情のある「逢瀬」という単語が一番ポピュラーな使われ方だろうか。
 それ以外でも「逢う」という言葉には基本「別れ」を惜しむ感情が含まれる。だから基本「逢う」相手は親しかったり、運命的であったり、そういった特別な相手だ。

 (少なくとも)日本語には常用の言葉と、常用外の言葉がある。
 常用外というのは分かりやすく言えば「逢う」のような難しい言い回しだ。
 他にも歴史的な専門用語や、慣用句などもある。
 先に挙げた、再説明した単語というのはそういった類のものだ。
 これらは常用の言葉の通り普段は使われない。なら何故そんな無意味なものがあるかというと、当然意味があるからだ。

 言葉には微妙なニュアンスがある。
 使われる場面、歴史、感情など、想定される背景に違いがある。
 そしてそれを適切に把握し、使いこなせれば言葉の選び方一つで背景すら一緒に説明出来るのだ。
 そんな言葉の手札の多さと、切り方の習熟度のことを語彙力と呼ぶ。多分、おそらく。学術的には分からないけど僕はそう認識している。
 そして巧みな使い手は難しい単語だけではなく、簡単な単語でさえもその文法的な使い方によって、場面や歴史、感情などの背景を説明する。
 そして背景に隠して表現に曖昧さによって想像の幅を持たせることで、読者の想像力を掻き立てる。文学というものだろう。

 先に挙げた百人一首など、その最たるものだ。
 歴史や感傷を明言せず、一つひとつの単語選びに神経を通して選び、反対の意味を2回繋げることで双方向性を強調し、その全てを体言止めでたった一つの場所に集約させる。

国語力とはカードゲーム

 と、ここまで長々と書いてきたが、元々は国語力の説明だ。本題に入ろう。
 蝉丸先生が教えてくれることは何か。
 それは国語力とは「知識の広さ」と、「概念に言葉という形を与えた語彙」と、「それらを駆使して相手を理解したり、論理を組み立てたりする力」であるということ。
 カードゲームが近い。
 「カードゲームのパックみたいに、色んな分野を把握し、必要とあらば触れる環境を揃えていて」「実際に1枚1枚のカードを自分が使えるように手元に揃えておいて」「実際にデッキを構築したり、相手が使ってくるカードを見て相手の構成を想像する」力だ。
 そして日本の5教科で例えるなら、理科社会は知識に必要で、語彙と想像力のために国語と英語を学び、論理の組み立てのために数学を履修する。

「数学なんてどうせ大人になったら使わないのになんで勉強するの」

 みたいなのはよく聞くが、使わなくても役に立つからである。
 直接使う機会が無くてもその手法は応用出来る。
 取れる戦略、見覚えのある仕組み、どこかで聞いた場面。
 それらの幅の広さが教養というものであり、言葉を以て使いこなして想像したり、創造するところまで行って国語力だ。
 まぁ偉そうな口を利いている僕だって、学生時代は分かっているようで分かって無かったが。

国語力の差を縮めるのって難しくない?

 さぁ、ようやっと国語力を説明したわけではあるが、どうだろう。多分大変だと感じていないだろうか。
 そう、ぶっちゃけ大変である。と、僕は思っている。
 まとめると、

 国語力とは、
「自身の持つ教養を言語によって形無き概念に形を与えて把握し、論理的に組み立てたり、逆算して想像する能力」

 そう僕は認識している。
 決して教科としての国語の授業の強化だけで鍛えられるものではないと思うのだ。
 百人一首だって、歴史の知識が無ければ理解しきれない。
 「西から登ったお日様が東へ沈む」のおかしさも、理科の知識が無ければ理解しきれない。
 「AはBである。その上でαであるという条件下ではBはCである。故にαのときAはCである」みたいな論理思考も数学的反復の上で養われたのだと自分を振り返り思う。

 極端な話、動画内でもあったように国語力に不安のあるギャルの間でも非言語コミュニケーションがあれば友達になれる。
 国語力はコミュ力とは別だと思うのだ。コミュ力は言語に頼らなくても良い。笑顔でも語気でも音楽でも良い。

 国語力が必要なのは、世の中の国語力のある人が当然のように言葉の裏に背景を隠し、それを読み取れない人を置き去りに仕組みを作ることが多々あること。
 或いは背景を読み取れない人に合わせて表現のレベルを落とし、そのことを嘆いたり、或いはバカにしている現場があるということ。

 そしてそのギャップというのは全般的な学力、だけでなく積んだ経験や持ち合わせる共感力などの総合値によって大きくなるもので、簡単には埋めることが難しいもの。で、ないかと僕は考える。

 正直に言うと、僕はそれなり以上に国語力が高い方だと自負している。
 そしてそれは受験勉強を頑張ったからというのもあるが、ベースとして生まれ持った言語への適性が高かったからというのもある。
 単語の暗記は苦手だったが理科社会で学んだ仕組みの本質自体は理解に苦労しなかった。数学のパターン暗記は反復が必要だったが、論理思考自体は好きだった。英単語や文法を覚えず苦労したが、覚えてしまえばあとは国語だった。国語なんて勉強しなくても点取れたし、小論文で東大落ち達に勝って大学に入学した。
 はっきり言って、なんで国語が苦手な人がいるのか良く分からない。国語に関しては、出来なかった覚えが無いから人に教えられないタイプの人間だ。
 そういうタイプだから、やっぱり僕の考えは否定ではなく疑問に留まるのだ。

 「僕はそう思うけど、案外国語力は仕組み次第で挙げられて、それで色んな問題が解決するのかなぁ。低い人の状況がイマイチ想像できないから分からない」

 そんな感想になる。
 出来るならやってもらった方がそりゃいいし、否定して辞めてもらおうなんて気は毛頭ない。
 ただ、まぁなんというかやはり違和感は拭えない。
 国語力は高い方が良いが、高すぎても悪影響のあるものだから、手放しに推奨出来ない。

高さゆえの弊害

 読んでるあなたがご存じかは分からないが、僕はニートだ。ひきこもりだ。生きづらさを抱えて社会から逃げた人間だ。
 そしてそれは国語力の高さが大きな理由の一つであると説明できる。

 繰り返しで、傲慢にも思えるが、やはり僕は国語力に自信がある。
 世界や日本の最前線の人には届かずとも、その二軍あたりにはいると思う。そのくらいの学力と、教養と、思考力をタレントとして持っていると思う。
 だが致命的だったのはその思考力にメンタルのスペックが伴っていなかったことだ。CPUが高性能でもCPUクーラーが貧弱だったのだ。
 僕も昔は自分がそこまで抜きんでているとは思わなかった。これは翻って、悪い意味でだ。誰もが僕と同じように物事を理解し、共感し、理性的だと思っていた。
 だが現実は違う。大抵の人は僕程国語力が高く無くて、率直に言うと理解が浅くて、平気で自分勝手なことを悪気なくするし、意味の無い事に拘っていて、その上で自らの正しさを信じている。
 僕は相手に悪気が無い事を理解しているから相手に合わせる。その意義に首をかしげながら社会に、常識に合わせて、やっぱ違うくね?と逃げる。
 自分を宥めすかして当たり前に平伏する忍耐力がなかった。或いは俺の方が正しいと主張する勇気も無かった。
 幾ら世の中が見えたところで、世の中の大半はもっと不条理で非合理な現実で出来ていて、心が弱ければ折れてしまう。
 逆に強く、自分を貫くことが出来たら今度はこう思うのではないだろうか。

「バカに合わせてやらないとな」

 実は低い側ではなく、高い側にも結構問題があるんじゃないだろうか。
 「漫画のセリフに書かないと分からない」はその最たるものだし、俗にいうエリート思考がそのものだろう。
 政治家や官僚は民衆を信用しないから財源を政府に集中して、それらの使い道を自分たちが指定した方が日本はうまく行くと考える。だから税率を上げる。
 政治だけじゃなく会社でもそう。バカにリソースを回すと何されるか分からないから、物事が見えてる自分たちが沢山握った方が結果的に良い方向に進む。

 仕事をやめて、ひきこもって、考え考え考えて。
 自分の国語力が特別高い方なんだと自覚してやっと色んなものと和解出来て。
 次いで現れたのがこの恐怖だった。或いは自嘲だった。
 申し訳ないが、僕はそこらにいる人をバカだと思っている。理解が浅いと見下している。そんな心を戒めてはいるが、その存在を否定できない。
 そしてこの傲慢は、果たして避けて通れるものなのかとも思った。
 もしかすると、自分の賢さを自覚できても、自分の傲慢さを直視できない人も多くいるのではないか、と。
 まぁ、仮説だ。確かめてなどいない。
 でも、世の中のお偉いさん方の中に、なんで悪びれもせず平気な顔で富や権力を自身に集めてる人がいるのかというと、そういった傲慢さ故の正しさが根拠として彼らを肯定しているからじゃないかと思うと、得心がいくのだ。或いはそれは過ぎた傲慢ではなく、適切な責任なのかもしれないが。

大人になっても学び続けること

 そもそもの話、人類史何先年で積み上げてきた英知を、それも昨今の急速にグローバルに発展する技術を、義務教育の9年で修めることなどどだい無理だし、想定されていない。
 だから高校教育の+3年があったけど、それもいい加減足りなくなってきている。というか義務教育と言うのは本来は工場工の養成施設だ。今はどこまで変わっているか知らないが、労使の労働者を養成するための最低限の知識と規律を叩き込むための場所であり、一人前の文明人を育てる場所としてデザインされているか怪しい。

 要は、「高校を卒業するころには一人前に完成されるのではなく、大人になっても誰しも学び続けなければならない」という至極当たり前な理想が当たり前な現実じゃないことの方が問題なのではないか。
 国語力の形成には時間がかかる。それこそ高校教育まででは間に合わないほど。それが当たり前なのだから、何歳になっても、例え基礎的に思える事でも教えを請うのは誇らしいことだし、才有る人は例え文字数が増えても、面倒でも言葉を使い、それを平易に言い換えてすっと読めるように提供し続ける。
 それが一番大事なのではと思う次第だ。

ただの感想文

 まぁ、書きたい事は大体書けた。
 偉そうなことを書いてはいるが、まぁ所詮経験の少ないヒキニートの根拠も保証も薄い戯言だ。あまり真に受けないでいただけると助かります。

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