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【体験談】無宗教だがキリスト教の教会に若干救済されてきた


※ この記事は無宗教の立場から体験した、宗教の効果を書いたものです。
※ 特定の宗教を布教する目的はありません。
※ なるべくキリスト教に対してリスペクトは持ちながらフラットに書いていますが、フラットに書くこと自体が一神教の考えに対し失礼にあたる可能性があります。敬虔な信者の方の気持ちを害する可能性もありますので、そういう方は閲覧をお控えください。

こんにちは、桃園です。

ここ数か月、「カルト」という言葉がワイドショーで取り上げられてきました。いくつかの新興宗教は信者を洗脳し、かなり悪質なシステムでお金を集めていたり、信者二世の問題が大きく扱われています。


一方で、「カルト宗教と伝統宗教の違いは何か?同じではないか?」という反論も耳にしてきました。……違うよ!!!それは違う!!!


例えば三大宗教の一つ、キリスト教は、それ自体がユダヤ教からすれば新興宗教な訳ですが、それでも三大宗教となっただけあり、日本には鉄砲伝来のあたりでマルコポーロら宣教師が伝えたとされる、古い宗教です。

このキリスト教は数々のカルトと戦って、まあそこそこの歴史と存在感を獲得してきた宗教と言えるでしょう。

今回はそんなキリスト教の教会に、無宗教の(お宮参りはした、正月の神社には誘われたら行く、特定の神は信じていない)日本人が行ってみた話です。


時は数年前、私がひどく落ち込んでおり、何にも手がつかずに鬱々としていた頃に遡ります。ずっと「生まれた意味」について考えてしまいました。健康的な食生活、運動、睡眠を続けていても中々解決しませんでした。

もちろん、医学も試していました。しかしこれは持病というか性質で、治るようなものではないと言われ、救いようがありませんでした。
身体が弱いのでお酒も飲めず、気分を発散させるようなことをしてもすぐに落ち込んでいました。

最終手段、宗教?

八方ふさがりを感じていた私は、ついに宗教に救いを求めてみることにしました。御朱印帳めぐりとか、神社へのお参りとか、疲れたOLがパワースポットに行くようなノリです。(敬虔な信徒の方には申し訳ないです。)

しかし変な宗教にハマってしまっては元も子もありませんから、宗教選びは何日か情報収集を行うことから始めました。

インターネットで「カルト」「勧誘」などの言葉を入れて検索したり、教会の牧師の名前で検索をかけると過去の行いが分かってヤバめの宗教をろ過できるので便利です。

Googleで検索し、上野にあるキリスト教の教会の日曜日の集会に参加してみることにしました。


なぜか春節を祝っている

その教会は、外からは研修施設のような無機質な建物のように見えました。

恐る恐る中に入ると、信者らがバザーをやっていました。場所が上野なだけに、外国人の方が多いのか、中国語の人の方が多かったです。

「ミサとかって一般の人も見れるのですか?」と受付の人らしき人に尋ねてみました。

いわゆる宗教っぽい建物の中を観たいという気持ちがあったのでそういうイベントに参加したいなぁと思っていたのですが、なぜか「日本人はこっちだよ」と言われ、人気のないところに案内されました。

その日は中国の旧暦正月春節のイベントの日だったのですが、ちらりと見えたイベント会場(教会あるいは大ホール?)の中は真っ赤な旗とランタンで覆われ、完全に中国になっていました。

???

どうやら、その協会は中華系信者のコミュニティになっており、教会で春節を祝うのだっそう。中華系のパーティーでどんちゃんやっていました。なぜ……。


6畳二間にぎゅうぎゅう詰めで説教

日本人信者と私はひっそりとした座敷で、二間続きの部屋に案内されます。


ぎゅうぎゅう詰めになった部屋で偉い人(神父さん?)のお話(説教)や、歌を歌ったりといったことを行いました。歌は知らなかったので歌詞を見ながらなんとなく歌いました。

お話は隣人愛などを説く一般的なキリスト教の教えでした。中にはキリストが起こした奇跡(水をワインに変えたなど)の話もあり、さすがにそれは盛っているやろと思いながらも、病の人や弱者を次々と救う話に「社会はこうあるべき」という理想が重なり、少し胸が熱くなりました。弱っていた心に、キリストのワインがすっと入ってきたような気持ちでした。

普段訪れない場所で、知らない人たちとふれあい、声を重ねて歌ってみたことで、リフレッシュできたことは確かです。

最後には、信者のトークセッションがありました。

語られた話は、個人的な内容になるので詳細を書きませんが、「人の役に立ちたいと思っている富裕層の方」「心身が弱っており、救いを求めるタイプの方」が登場しました。信者の多くは綺麗な身なりで、日本でキリスト教徒をやる人たちってこんな感じだよなという上品な雰囲気でした。

そして解散。なんともあっけなく終わりました。

ここで連絡先などをきかれたり、寄付を募られることも覚悟していました。参加させていただいたので、気持ち程度にお金を渡す心構えはしていたのですが

だ~れも聞いてこない。お金も集めない。

熱心な勧誘は?と思ったのですが特に私に興味を持ったりする人もおらず、若干寂しい思いを感じながらもゆっくり部屋を出て行きました。

今まですし詰めになっていた人々も散り散りになり、上野の街へと去っていきます。一緒に歌っていたことが嘘のように、私は誰とも仲良くなることなくひとりで帰りました。

私たちは月曜日からまた実存的な問いやら、現実的な諸問題にひとりで立ち向かっていかないといけないのです。そう、状況は一ミリも好転していないのです。しかし、緊張と弛緩の中に強制的にぶち込まれたからか、教会が思っていたものと違いすぎたからなのかわかりませんが、私は多少のカタルシスを得ていました。洗礼も受けていないし信者でもないのですが、少しだけ救済していただいたのです。

この街のどこかで暮らしている上野の教会の方々へ。一緒に歌ってくださってありがとうございました。


そして数年後、カルトについてのニュースが世間を騒がせている今になって思うことなのですが、

三大宗教強いな~~~~。

強引な勧誘や個人情報の聞き出しもしてこなかった時点で、やっぱり新興宗教とは格が違う。信者を獲得している余裕からでしょうか。特に私が体験したキリスト教の教会については去る者を追わない姿勢が好感触でした。

勿論長い歴史を見ればキリスト教の名のもとに悪政が行われたりしたこともありました。現在でも違う教会の内部に入れば若干強引な集金なども行われているのかもしれません。それは分かりません。教会の財政状況により異なるのかもしれません。しかし、少なくとも私が行った教会は一回行っただけでは勧誘してきませんでした。

もしいま科学や芸術に限界を感じ、宗教に救いを求めようとしている方がいるのであれば、新興宗教などではなく比較的余裕のある、母体が大き目の宗教を検討してみるといいかもしれません。


あまり下手なことは書けませんし、上手にも書けませんが、私の体験談でした。終わりです。


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