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短編小説。 『カエル。』

・ここに観察日記を書いておこうと思う。思い出せる限り。

・初日。

 30分残業した仕事を終わり、家に帰る。家から職場まで約1時間かかる。もうそれにも慣れた結婚生活10年目。夏のじめじめした日。関東では、明日更新されるであろう今季最高気温が観測された。

新婚の時、電車に乗ってる間に今日は何をしてあげよう、どうやって喜ばせてやろうなどと考えていたが、最近はめっきり。このつまらない日常になにか刺激を求めていた。例えば女子高生のスカートを覗こうとしてみたり、目の前の男性を急に殴ってみたり。だが、それをしてしまうと、家に帰るのがおそくなるばかりか、家に2度と帰れなくなってしまう気がして出来なかった。だからそれを誰かに求めた。だけどそんなことは起きなくて、1週間に1回くらい奇声を上げる人が乗ってくるくらいだった。そんな何の変哲もない日常にいると、人間は感情を忘れてしまう。最後に笑ったのはいつだろう。愛想笑い、以外で。

つまらない日常を象徴する電車を降り、駅から歩く。駅からは5分で家に着く。長く仕事するなら駅は近い方がいいという理由で郊外だが駅近に住んだ。夕方、リコーダーを吹いていた少年は、非行を繰り返すようになり、密かに可愛いと思っていた、はす向かいの少女は、今日も家に帰ってないみたいだ。駅までのルートにコンビニはなく、少し遠回りしたところにある。これも昔はよくアイスなど買ってあげたコンビニだったが、今はタバコを買いに行く程度のコンビニになってしまった。新婚時代は外で吸うようにしていたが今はベランダで吸うようになった。決して妻のことが嫌いになったわけではないし、最初から禁止されていたわけではない。ただ、今日だけ、今日だけと繰り返してるうちにいつのまにか、毎日、吸っていた。

家に着いた。電気は点いておらず、真っ暗。確かに愛はもうないに等しいが、電気が消えていたのは初めてだった。玄関の電気をつける。電気代の請求と保険の勧誘のパンフレットを靴箱の上に置き、すぐ近くの自分の部屋に向かう。お互いの生活に干渉しすぎないようにと、部屋と寝る場所は別々にした。それが功をなして、今まで生活できたのだろう。部屋の電気をつけると、飼っているカエルがゲコゲコ鳴いている。私の癒しで結婚してから2~3年の時に飼い始めた。雨がぽつりぽつりと降り始め、じめじめする部屋の窓を閉めた。リビングに行くと、一枚の書置きと、離婚届があった。ドラマでしか見たことない展開に、ほんの少しだけ心が躍った自分がいた。そして、笑いが止まらなかった。おもしろくて、と言うよりは、解放されるような気分だった。
 妻は浮気していたのだ。あんなに、愛し合っていた妻も、少し前から、今日は遅くなるという連絡が増えていた。もちろん友達の家に泊まるというよくある理由で。その回答は間違ってはいない。そこに男がいないなんて一言も言ってないからだ。最初は月一くらいだったが、ここ最近はある一週間を抜いてほぼ毎週行っていた。その一週は、私にとてもきつく当たる一週間という記憶から、すべてを察したのだ。だが、私にはそれを取り返したいという気持ちも、俺も女を作ってやるという気持ちもなかった。ただ、なるようになれと思っていた。それが今日なった。なってしまったという感情はなかった。自炊はできないが、節約すれば、何とかなるくらい給料はもらっていた。特に変わらない生活だな。と敢えて呟いてみたが、部屋からはツー。という音しか聞こえない。慣れたはずの沈黙が少しだけ重たかった。

・休日。3日目くらい。 

簡単な朝ごはんを済ませ、散歩をしてみた。以前から行っていた。基本的に妻が家にいたときも長めの散歩をよくしていた。家にいても気まずいだけで息苦しいから。家の近くの公園には子供連れの可愛い親がいた。可愛いと思うが勃たなかった。性欲という単語も忘れ、日々が忘れられていく。高校生の時、好きな女優の話で盛り上がっていた自分が自分じゃなくなるような気がして、自分が今までどんな人生を歩んできたのか、私は地に足をつけて歩いてきたのか不安になってきた。それからというもの仕事以外で外にあまり出なくなったのを覚えている。その日は家に着いた後、日課のベランダでタバコも吸わずに、朝、半分残した野菜ジュースを飲み干し、眠くないのに布団に入った。

・5日目。

 妻がいなくなって、初めての出勤日。いつもより気分がよくて気持ちよく外に出たのを覚えている。自分のためだけに仕事ができる気楽さと、ドラマに出てくる離婚後の男性というモデルケースに自分がなった気分だった。仕事も思った以上にはかどり、溜まっていた仕事が次から次へと消えていった。定時で上がることが可能だったが、こんな日はもう二度とないかもしれないので、1時間残業した。ほとんど終わり、充実した疲労と一緒に帰った。家に帰ると、カエルが鳴いていたが、その声を認識する前に、疲れが沁みてきた。無理がきく年齢じゃなかった。その日はリビングで寝落ちした。今思うと、このころから、少しずつ狂っていたのかもしれない。それは、つまらない状態になれてしまったここ5~6年の反動なのかもしれない。

・約一か月後くらい。

 朝、起きるとカエルが鳴いていた。ここ最近世話の数が減ってしまっていたのを、申し訳なく思いながら取り換えていると、出勤時間になった。急いで向かう。朝もしっかり目が冴えるようになった。帰り際、女子社員に声をかけられた。飲みへのお誘いだった。そこまで可愛くない人だったが、なんとなくその日は行ってみることにした。どうやら、最近仕事の成果を上げてる私にアドバイスを求めているらしい。私はなんとなく、もっともらしいことを言い、彼女のご機嫌を取った。彼女は酔ったらしく少し歩きたいと言った。私は帰りを気にする必要も何もないのでただ、無心で彼女についていった。いつのまにか、ピンク色のネオンが多くなっていた。私はどれがいい、と聞かれ、とっさに自宅のマンションになんとなく形が似ている建物に入った。部屋に入ってしばらくぼーっとしていた。お金を入れる音や、ほんの少しの音量で流れてるクラシックを聴いていると、突然キスされた。少し汗のにおいがしたが久々に女性の匂いを嗅いだ。別にセックスしたいとは思っていなかったが、気が付くと私は上から彼女を抱きしめていた。その瞬間、泣いていた。泣いている理由はよくわからなかったが、分からないということに対しても悲しくなり涙が止まらなかった。腰の動きは止まらなかった。

・翌日。

 目を覚ますと彼女はいなかった。メールには一緒に行くと怪しまれるから遅く来てくださいね、とあった。私は昨夜もシラフだったが少しの間、自分の置かれてる状況を理解できなかった。怪しまれないように、体調不良を理由に遅く、出社した。彼女とは、普通に挨拶し自分の机に座っていた。なぜかこの日の仕事はうまくいかなかった。そのまま家に帰り、熱がこもった部屋の窓を開け、机の上に置いてある一昨日のカップラーメンを横目に布団に潜った。

・2か月後くらい。

 私は依存していた。彼女に。ホテル代がもったいないという理由から、彼女の家に通うようになった。彼女の家は思ったより近く頑張れば歩ける距離だった。毎週のように通い、近隣住民のことを考えず、セックスした。時折、彼女はぼーっとするようになったが気にせず、身体を求め続けた。人生って明るいものだったんだなんてことを思い始めていた。このころから仕事に飽きてきた。家にはたまに帰った。このころ、ゴミがたまっていたような気がする。

・3か月後くらい。

 彼女から、これからはあまり家に来ないでほしい、と言われた。理由を尋ねてもはっきりとは教えてくれなかった。私は他に男がいると思った。そこで彼女が家に帰る時間などを、有休を使って調べ、偶然その時間に会えることを願いながら、電車の時間を合わせた。だが、彼女はあまり、家に帰らなくなっていた。久しぶりに彼女を見かけた日、私は駆け寄った。そして、しばらくの間、どこに行っていたのか尋ねると、明らかに軽蔑の目を向け、職場でも話さないでください、と言われた。意味が分からなくて、家の近くの公園のブランコで揺れ続けていた。

・それから数日後。

 私は、ほぼ会社でも誰ともしゃべらなくなった。カエルの世話も飽きてきた。家への電車に乗る。奇声をあげる乗客がいたが、刺激とも何とも思わず、ただ、茫然と眺めていた。帰りにコンビニに寄り、たばこを買って家に帰る。電気が点いていた。点けっぱのままで来たのかと思いながらドアを開けると元妻がいた。離婚して3か月と少しくらい経ってから、久しぶりに見た顔だった。無言で見続けると、元妻は笑った。私たち似た者同士なのかもね、と言ってきた。意味が分からないまま、セックスをした。私の部屋で。

・今日。

朝、起きると妻はまだ寝ていた。
雨がぽつぽつと降っていて、外からはカエルの鳴き声が聞こえた。

私が飼っていたカエルが死んでいた。7年くらい生きた。寿命はもう少しあるはずなので私の世話不足だと思った。特に悲しみも感じないまま、また、布団に潜り、寝ている元妻にキスをして、ふたたび眠りについた。数時間後、妻はリビングにいた。テレビを見ている。

私は妻を見つけ、

似た者同士だねって、呟いた。

おしまい。

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