月讀1

黒の中の黒、写真展「月讀」にて


大阪のギャラリー176で今月7日から18日まで開催されている坂東正沙子さんの写真展「月讀」を見に行った。




タイトルに記した「黒の中の黒」は、私がこの展覧会を見終え、すぐに頭の中に浮上した言葉だ。

私はフィルムで撮られた写真にあまり明るくなく、それらに対して満足に語れるほど量を見てきたとは言えない。ただ、「暗室作業でしか得ることのできない、フィルムでしか表現できない黒がある。」と知り合いの写真家の方から聞いていた。

そして先ほど見た坂東さんの写真でそのことを強く思い出した。




今回の「月讀」で彼女は作品全てをモノクロフィルムで、現像も自宅の暗室にて行っている。展示されてる写真は黒のマット、さらに黒のフレームで額装されており、それらのイメージも8割以上が黒である。

文字だけでも想像がつくと思うが、壁に飾られているのは「黒」である。


さらに会場自体もそれらの写真が何を写しているのか認識できるかどうかの瀬戸際まで照度が抑えられていた。


薄暗い中で黒が大半を占める写真を見るのは容易ではない。




展示されてある中の一枚は特に顕著であった。

一見すると真っ黒な平面で、何が写っているのか定かではない。
しかし、この薄暗い空間に目が慣れてくると、ようやく黒の中に何かを写した黒が徐々に浮かび上がる。

黒の中にも階調が存在し、それらのわずかな違いによって、確かに像は存在した。


もはやこれらの黒は、「くろ」と一言で表現できないものではないか。とまで感じてしまうほど黒の中に無数の黒が浮かび上がっているのである。


仮にプリンターで印刷されたモノクロ写真の黒を、プリンターという人工物が作った「人工的な黒」とするならば、暗室作業の化学変化によって得られる黒は野生のものであろうか。

人の手で支配して飼い慣らせない未知数の黒だろうか。





1秒にも満たずにSNS上では写真を見た気になっている私にとって、これほどまで時間を要して見続けた写真はもしかしたら初めてかもしれない。




他の作品にも目を向けてみよう。


彼女は死を連想させる闇を撮りたいと言っていた。
ただ彼女にとって「死」も「闇」も恐怖の対象になり得ない。


作品には死を思わせるものが写っていた、闇が写っていた。だがそれを見ている私自身もそれらに対して恐怖といったマイナスのイメージが先行することは決してなかった。むしろ美しいと思った。


それは彼女というフィルターを通して見た世界だったからである。


彼女の作品からは、一般的には目を背けたくなるようなものでさえも丁寧に汲み取り、淡々としかし愛情を持って、それらを収めていく作業を繰り返しているように思える。

彼女は撮りたいと思ったイメージを探し、見つけると、それらに対し手を加えずにそのまま撮影しているからだろうか。




闇を撮るならば夜。

「本当はもっと照明を暗くしたかった。ただこれ以上暗くすると作品が見れなくなる。」と彼女は言っていた。

なぜなら彼女は夜に、光源を持たずに暗い丘の上や池のほとりにて撮影を行っている。その雰囲気を観賞者にも感じて欲しかったそうだ。


そんな闇の中、一番の光となりうるのは月明かりではないだろうか。


この展示では個々に額装されてある作品に加え、月がそれらを照らしているかのような構成になっている。タイトルである「月讀」も夜を統べる月の神から名を借りたそうだ。





つい先ほど訪れた展覧会で感じたことをすぐに言葉にし、普段は数日寝かせて読み返してから出す文章を、このように短時間で公開したかったのには理由がある。

時間は待ってくれないからだ。

展覧会は18日まで、残り3日で終わってしまう。

この文章を読んで、1人でも興味を持ち実際に足を運んでくれる人がいるかは分からないが。彼女の写真は実際に行かないと「見れない写真」である。

どうか少しでも多くの人が生で彼女の写真を見れますように。


幸いにもギャラリー176は大阪・梅田から阪急電鉄を使い15分かからずに行ける上に、展覧会は夜の8時まで開いている。


今後彼女の「月讀」シリーズを見る機会があるかどうか分からない中、行くかどうか迷っている方には背中を強く押したいと思う。





  展覧会概要

  タイトル:「月讀」
  作家名:坂東 正沙子
  開催場所:ギャラリー176
  会期:2019年6月7日(金)〜6月18日(火)
  休廊日:6月10日(月)〜13日(木) 
  開廊時間:13:00〜20:00 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?