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大人の恋愛小説・マダムたちの街Ⅰ-2

その2 家庭の事情

 僕が暫く外を出歩いていた間に、家の中でちょっとした諍いが起きていた。

 ふだんは僕がこの家の家事全般をやり、父との会話、連絡事項、兄とのドア越しの会話を受け持ってきた。だが最近は日中外へ出る機会が増え、休日もデートで潰れたり家にいないことが多くなった。そのため、仕方なく父と兄が話をしなければならない場合がでてきていた。単身赴任の多い父だが今はひと月ほど家に帰っている。家から会社へ行き,週末だけ父は家にいる。

 父の話によれば、父がシーツやバスタオルを洗濯する際に、兄に階段の下から声をかけてお前のも洗濯してあげるからシーツやタオルを出せと大声で叫んだそうだ。すると数分後に二階から大量のタオルとシーツがなだれのように落ちてきた。タオルが十枚以上あり、いつ使ったか分からない茶色く変色したものや、カチンカチンに固まったものが混じっていた。とにかく全部洗濯し終えて父は二階のベランダに干したのだが、一枚小さなタオルが階段の中程に落ちていて、父は降りる時に知らずにそれを踏んづけ、いきなり階段を滑り落ちた。ドドドッと下まで落ちて父は右足首をくじいてしまった。
その音を聞いて兄がドアを開け顔を出したが、兄は父を上から眺めてウヒャヒャヒャと大きな声で笑った。

 父はカッとなり、階段の上を見たが兄はドアの中に引っ込んだ後だった。
父が怒り狂ったのは当然だった。痛む足を我慢して二階のベランダへ戻り、干したばかりの兄のシーツやタオルをすべて外して兄の部屋の前に置き、ドアを殴りつけた。
 まったく子供じみている。しかも積もり積もった兄への恨みをここぞとばかり罵詈雑言で吐き出した。
 兄の部屋の中はしんとしたままだった。

 父は怒りにまかせて、冷蔵庫の中にある飲料水を一つ残らず自分の部屋の中へ移してしまった。兄が時々冷蔵庫の中の飲みものを持って行ってしまうのを苦々しく思っていたからだ。父が単身赴任の時に使っていた小さな冷蔵庫を物置から取り出し、自分の部屋に運んで飲料水を全部納めると父の怒りは鎮まった。

 父の話を聞いて僕はいささか疑問を持った。
 二人は二十年間も冷戦を続けている。父と兄は大っぴらに衝突はしない。それは心得ている。兄が部屋から顔を出して父を笑うなんて、そんなのあり得るのか。本当に二階にいたのは兄なのか。別の誰かではないのか。ミステリーのようだが、そう考えてゾッとした。

 しかしその疑問が解ける日が来たのだ。
 いつものルーティン家事をこなしていたある日の午後、チャイムが鳴った。玄関を開けてみると一人の小柄な女性が立っていた。
「あの、中原さんですね?中原和人さん…」
「はぁ…」
しげしげと顔を見る。どうもどこかで見たことのある人だが、思い当たらない。
「失礼ですがどちら様ですか?」
 恐る恐る尋ねる。女の人はパッと笑顔になって言った。
「私、あの、柏木さん主催の合コンにいた者です」
「あー!あの時の」
 僕と付き合いたいと言ってきたもう一人の子だとすぐに分かった。
「まぁ中に入って下さい」

 居間に通してお茶を出す。
「お名前、何て言いましたかね」
「辻本です。辻本弥生と言います」
「そうでしたか。失礼しました。名前覚えていなくて」
 弥生さんはシャキッと背筋を伸ばし、堂々としている。僕は遠慮がちに尋ねた。
「で、その辻本さんが僕に何のご用で?」
「実は私、合コンの時から中原さんの事が気になっていて」
「ハハァ」
「何度かお電話したんです」
「そうでしたか」
「でも繋がらなくて」
 そりゃそうだ。僕は家にいない時が多かったから、家の電話は通じない。
「柏木さんに中原さんの携帯電話を尋ねたんですが、ご存じないとのことでした」
 僕は驚いた。柏木はわざと僕の携帯番号を知らせなかったのだ。それはあいつの配慮だろう。僕が典子さんと付き合っていたから。
「じゃあ伺った方が早いだろうと思い、失礼を覚悟で伺いました」
弥生さんは続けた。
「ここに来るのはもう五回目です」
「えっ?」
 なんと、弥生さんはこの家に計五回来ていた。そしてこともあろうに、弥生さんは兄とその都度会って話をしていたのである。
「今、お兄さんていらっしゃいますよね?」
 弥生さんが二階の兄の部屋を伺っているのを感じて僕は慌てた。
「いや、ちょっと。すみません。外へ出ましょう」

 近所の喫茶店に取りあえず移動した。
 ウエイトレスが運んできた煮詰まったコーヒーをすすりながら、経緯を聞いた。
 彼女の話に寄れば、兄はごく普通に二階から降りてきて、ごく普通に彼女と話をした。「丁寧で優しい男の人」と弥生さんは言った。
 叮嚀で優しい?ふざけるな!いつそんな処世術を身につけた?
 洞穴のような部屋で、二十年も外に出ない生活をしている男が、急にそんなこと出来るものか。いや、それは兄ではない。
 きっと二階に別の誰かがいるのだろう。
「とてもスマートなお兄さんですね。でも理由があって家の中で過ごしているのだとか」次第に顔が引きつってきた。
「いやぁ、うちの兄はそんなにスマートではありませんよ。たまたま別の人が来ていて、あなたはその人と会ったのじゃあありませんか?」
 弥生さんは怪訝な顔をしてスマホを出し、僕に一枚の画像を見せてくれた。
「見て下さい。私と一緒に写した写真です。これ、お兄さんですよね?」
一瞥してギョッとした。
 愛想良く微笑んでいる男と弥生さんが写っている。確かにそれは兄だ。ピースサインまでしている。僕は目をしばたたかせた。信じられない。一体何が起こっているのか。

 夜七時。
 僕はいつものように夕食を作り、三人分に分けた。そうして二人分をタッパーに詰めた。これは兄と父の分だ。ご飯と味噌汁は炊飯器の中、味噌汁は雪平鍋とジャーに分けた。
 自分の分は、NHK七時のニュースを見ながら頂く。トップニュースは大抵悲惨なニュースだが、温かく美味しい夕食を食べている時が僕の一番の安息時間だ。
 七時半になり、自分の分の後片付けをした後、テレビを消すと居間はしんと静かになった。

 兄の様子が気になる。二階の兄の部屋はひっそりしている。
 考えた事もなかったが、あの中で兄は一体何を考え何をしているのか。
 知りたい、いや知りたくない。…いや、知るべきだ。
 僕の中で葛藤が起きる。
 洗濯機の中の洗濯物のように、ぐるぐると翻弄される心…。
 いや、詩人になっているバアイではない。
 最近葛藤ばかりではないか、と僕は気づいた。
 それもこれも、あの合コン以来、女性がズカズカと僕のテリトリーに入り込んで来たせいだ。

 僕は階段を駆け上がり、兄の部屋をノックした。
「おい、兄貴、いるか?話したいから降りてきてくれる?」
 何度か呼び掛けたが、返事はない。
 10分か15分粘ったが静かなままなので諦めて階段を降りた。

 突然谷さんに会いたくなって僕はフラフラと谷さんに出会ったビルの外階段の広場へ吸い寄せられるように行ってみた。

 谷さんはいつものビルのベンチに腰掛けてボーッと煙草を吸っていた。
呼び掛けると、夢から覚めたようになって微笑んだ。
 僕は隣に腰掛けた。
「久しぶりだねぇ、何してた?」
「ええ、ちょっと色々と世知辛いことがありまして」
谷さんは僕を黙って見つめると、立ち上がった。
「場所、換えようか…」

 ホテルの高層階、静かなラウンジには他に一人客がいるだけだ。
さすが都会の放浪者、いろんな所を知っている。
 僕は熟々と典子さんとのこれまでのことを話してしまう。
 話し終えると谷さんはしげしげと僕の顔を見つめ、
「まぁー」と言い少し間を置き、「なんと言って良いのやら」とため息交じりに呟いた。
「でも、本当は中原さんの気持ちは決まってるんでしょう?」
 谷さんは視線を窓の外に向けたまま言う。
「いや。決まってるという程じゃ」
「その人と一緒に未来を生きていこうという覚悟はないわよね」
 僕は黙り込んだ。確かにそうだ。

 一階のホテルの玄関で僕たちは別れた。
「それが一件落着したら、気分転換に温泉でも行かない?二人だけじゃなく。麻生さんも誘うから。ね、どう?」
「温泉って、どこですか?」
「そうね、箱根か伊豆かしらね」
「いいですね、それ」
 谷さんは夕暮れの街の中に消えて行った。

一一体、この俺は何をしているのだろう。


しかしその後温泉行きはなかなか実行されなかった。
典子さんとの話し合いが思った以上に難航したのだ。

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