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若き日の歌、人を若き日に縫いとめる。

忘れられない歌を
突然聞く

誰も知る人のない
遠い町の角で

とはじまる歌に「リバイバル」と曲名を冠したのは中島みゆきだ。
そう書いたらこの歌を無茶苦茶聴きたくなったが、音源がないので我慢する。


今日、自粛が続く中学生の運動部の子たちを支援するプロジェクトの企画書を草案した。

企画書をメールで送ってから、自分が中学生だった頃に聴いていた歌に、ネットで出くわして聞き入った。
3度も4度も聞き直してしまった。


当時の音源を持っていてそれをアップロードする人がいて、
それを差し止めずに何年も鷹揚に許す当事者や関係者がいて、
その善意に「リバイバル」状態で不意打ちをかまされる私のような者もいる。


当時、塾からの帰りの夜道や、古い形の風呂のなかで、その歌をさんざん口ずさんでいたことを、おかげ様で思い出した。


令和に中学生である子供たちに、これといった流行り歌がないように感じるのは昭和生まれの傲慢だということは、わかっている。

私が子供の頃の祖父祖母は明治の御方だったのでその問答無用さはいまと比べようもないが、戦中世代の親たちの無理解も、時に相当だったように思う。

そんな大人世代に対して(音楽にすがることも溺れることもないあんた達に音楽の何がわかる)と当時は思っていたが、しかし、親たちにも祖父たちにも、深々と音楽はあったのだと、後から知った。


有史以来、どの世代にも音楽はあったのだ。
そう言ってもきっと過言ではあるまい。

しかし、自分が若き日に穿った流行り歌の刻印は、世代を隔てるしるしにもなってしまうのかも知れない。


だから私よ。
今の中学生に親近感を抱けど、理解しているなどとはユメユメ思うまいぞ。

その頃を思い出せば、対立する大人以上に理解者を装う大人ほど、遠ざかりたい存在はなかったから。



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