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【喫茶店日記】2023年3月5日-6日 ちいさな夢と、忘れ物。

3月5日 日曜日

わたしが出勤して今日はカウンターでコーヒーをいれているとヒロトくんがお母さんと来た。レジのあたりにいるマスターの様子を見ながら近づいてゆき、
「今お時間大丈夫ですか。」とヒロトくんは聞く。彼のまだ声変わりする前の少し高くて、でもちょっとハスキーな感じの声がたまらなく可愛い。「はい、バッチリ大丈夫ですよ。」と答えてヒロトくんの背の高さに合わせてしゃがんだマスター。

「何歳から働かせてもらえますか。」と目を輝かせながらの質問だった。「学校の先生たちがいいのなら、うちは何歳からでも大丈夫ですよ。」とマスターが答えるとすぐに顔をパァッと明るくして、春休みに働かせてもらってもいいですか、とヒロトくんは言った。ヒロトくんはこの春で小学校四年生になる。
いいですよ、とサラリとマスターは答えた。周りのテーブル席に座っていた、おしゃべりに花を咲かせていた女性のお客さんたちも思わずヒロトくんとマスターの会話を聴いて、ウフフ、とか、わぁ〜、とか、嬉しそうに笑顔で二人のことを眺めていた。カウンターに座っているお母さんの元へ、顔を輝かせながら小走りで戻ったヒロトくんは控えめな声で「よっしゃ〜」と言ってお母さんに向けて親指を上げてグッドのサインをした。お母さんもとても嬉しそうに、「いつも控えめだけど、こんな嬉しそうなのみた事ないよ」と笑いながら教えてくれた。今日はお祝いだねぇと言って、本当にありがとうございます、とお母さんは静かに泣いていた。二人はホットコーヒーとアイスカフェオレで乾杯していた。ヒロトくんは大きなカウンターの椅子に埋もれそうに座りながら、カフェオレのグラスを両手でしっかりと握っていたのを忘れないよ。

ヒロトくんは本当によくスタッフの動きを観察している。マスターが少し手が空いたのを見つけると、そちらの方にスタスタスタとノート片手に歩いてゆき、「今お時間大丈夫ですか。」とちゃんと聴いてから、コーヒーについて、お店について、気になったことを質問している。
お店が落ち着いている時、今は何してるんですか、とわたしも聞かれたので、カウンターの中でやってる作業を一つ、秘密だよ〜、と言って教えてあげた。そうしたら、分厚いメガネの向こう側のまんまるの目を輝かせて、すごいこと教えてもらっちゃったぁ…!と小さな声で横にいるお母さんに言って「モモさんに教わったこと」とメモを書いて、それを書けたら見せてくれた。喫茶店にいるおねえさん、というお役目を与えてもらえていることを、わたしもすごく楽しんでいるなぁと感じた。

午後、ようちゃんと、お父さん、お母さんが3人でいつものようにやってきた。ようちゃんは気付けばおしゃべりができるようになっていて、最近ではわたしを見ると「ももちゃん」と呼んでくれる。わたしがコーヒーを運んだり食器を片付けたりして、ようちゃんの席の横をドタバタと通りすぎるたびに、小さな視線を感じる先で、小さな声で「もーもーちゃん」と呼んでくれているのが、本当に可愛くて毎度とろける。
よだれかけにはミッフィーが三匹こちらを覗いていて、首からもミッフィーの人形をぶら下げていた。うさぎ好きとしては、親近感を覚える。「うちにも黒いミーミーいるから遊びにきてね」と言ったら、ちょっと恥ずかしそうにキャッキャと笑ってくれた。


3月6日 月曜日

お店は比較的静かだった月曜日。なぜだか今朝から歯が痛くて困っている。ゆめさんが痛み止めをくれたので飲んでみた。普段そう言う薬を常備しておく習慣がわたしには全くないので、本当に助かった。困った時のおまじないみたいだと思ったので、しばらくわたしも買って持っておこうと思った。明日早速歯医者に行く予約をしたのでひとまず今日を乗り越えればなんとかなるし、これは満月のせいじゃないかと思って、とにかくこの痛みが過ぎ去っていくことを願った。

外でマスターのお父さんやお母さん、近所のおばちゃんやうすいさんも手伝いに来て、庭木の剪定をしている。楓の木は手で切っていたけれど、裏の柘榴の木は、ウィーーンというものすごい音をたててチェーンソーで切り落とされていった。背が高すぎて鳥の餌場になっていた柘榴の木の枝がゆらゆら揺れながら落ちていった。面白くて様子をチラちら覗きに入ってみたりした。

ヒロトくんのお母さんが、ありがとうございます、よろしくお願いしますと、わざわざチーズケーキをもって改めてご挨拶しにきて下さった。ヒロトくんは昨日の夜、人生で一番いい日だと言って眠りについたそうだ。小学校四年生の男の子の夢が一つ叶う場所にいられること、わたしも嬉しくなった。

忘れ物でしばらく預かっていたタバコケースを、持ち主のお兄さんがとりに来た。去年の春くらいからお友達になったお兄さんなのだけど、タイミングなのか、久しく会っていなかった。忘れ物コーナーにあるタバコケースから気配を感じていたけれど、やっぱりそれは彼のものだった。
彼はお友達と二人で来て、コーヒーを飲んでいつものように、本を読んだり、タバコを吸ったり、外と中を行ったり来たりしながら、ゆっくりしていた。お会計を済ませてお店を出たあと、また椅子の上に小さなバッグが置いていかれているのを見つけてわたしは走った。店先までだけなのに、走ったら心臓がバクバクした。忘れ物を抱えて彼らのあとを追いかけて走ることはこれが初めてではないので、わたしもそれを楽しんでいる部分もある。忘れ物取りに来たのに、また何か忘れていくっていう…、と言って二人は笑った。わたしも相当忘れ物が多いので、普段のわたしをみているようで笑えた。わたしだけじゃないと思ったらちょっと安心する。人やものの気配を察知するのは得意な方だと自負しているけれど、自分の忘れたもののことは、忘れたことすらしばらく気づかないくらい抜けているから、本当に困る。心臓をまだバクバクさせながら、ほんの少しの立ち話をした。

忘れ物、といえば、学生時代の友達さゆりのことをふと思い出した。一緒にあちこち旅した友達なのだけど、彼女は忘れ物が大きい。多いのではなく大きかった。一緒に飛行機から降り、さあ帰ろうかと外に出ようとしたときになって、バックパックを機内に置いてきたと気がついた事件があったなぁと。小さな手提げ一つであまりにも身軽に帰ろうとしていた彼女のこと、思い出しても笑けるけど、その後食べたざるそばが美味しかったこともしっかり覚えている。さゆりとの思い出はヘンテコだけど趣深さも同時にある。どこまでもわたしたちは真剣だった。さゆりに会いたいなぁと春になると手紙を出したくなる。大体お互いが忘れた頃に手紙を書くので、突然届く嬉しさがある。すっかり忘れていた忘れ物がひょっこり現れたみたいな感じ。

ももさん、今年はいいことあるぞ〜〜と突然シュウジさんに言われた。なんでですか、とあんまり期待せずに聞き返したら、卯年にうさぎが来たんだもの!とニコニコしながらいった。それは、絶対いいことありますよね!と返した。うさぎの話題ならわたしがご機嫌になるとおじさんたちは知っているので、度々うさぎの話題をしてくる。その横の塗装屋さんをやってるおっちゃんが「おたくのうさぎは真っ黒なのか。」と聞くので、そうです真っ黒です。と答えた。すると、「パンダにしてやろうか」と真面目な顔で言うので笑ってしまった。さらに真面目に「ペンキで。」と言うので、絶対にやめてくださいと伝えておいた。
日がかなり伸びて、5時半になってもまたほんのり明るいけれど、今日は珍しくしゅうじさんは、じゃあ、と言って帰っていった。「なんだ今日は帰るのが早えじゃねぇか、具合でも悪いのか、なんかあったのか」とおじさんたちが真剣に心配し合っている景色は、優しくて可愛らしささえあって、なんだか可笑しかった。

帰る頃にはもう痛み止めの効果が切れてきたのか、雑巾掛けをしていても歯が痛かった。お客さんが帰ってからは、思う存分、痛〜い、とか、は〜と大きくため息をついてみたりして紛らわしてみた。何も食べる気にならないけれど、お腹は空くので、いつものように雑巾掛けをしながら今晩何を食べるか考えた。元々歯医者さんで働いていたるりさんにもアドバイスをもらったけれど、スープとかお粥とかぬるめのものがいいよと言われた。お腹が空いているのでそこにあるチーズケーキも食べたいくらいなのに歯が痛くて食べられない。は〜とまたため息をつきながら、帰路に着いた。買い物ついでに覗いた100均で、ミモザの柄の封筒を見つけ、春っぽくていいなと思って買って帰ってきた。結局、昨日の残りのスープだけ食べ、そうして今日記を書いている。

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