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#フィクションとノンフィクションの間

種と翼 わかりやすさや考えることや色々をテレビドラマに思う

まとまらないままに書きたくなった。 さいきんのテレビドラマを観ていてだ。 きっかけは朝ドラからだったような気もする。 観ていますか。 SNSでは大絶賛の嵐だ。 うんうん。よくわかる。 でもわたしは初回から観始めて数話進んでいくうちに 「うん」と共に「んー?」を感じるようにもなった。 いい意味で「わかりやすい」んじゃないか、と。 「みせたい側を引き立てるために わかりやすいわかりやすすぎる役割というか設定をされている」 っていうといいかなあ。 それがきっと「良い」のだろ

岸政彦のにがにが日記はにがにがでぶつぶつでよかった

岸政彦の『にがにが日記』が、よかった。 基本ぶつぶつ言っている。 社会学者のおじさんがぶつぶつぐだぐだ言っている。 起きて食って労働して書いて酒呑んで散歩して猫の世話をしてパン食ったりラーメン食ったり映画観たりつまらないけどおもしろいギャグ考えたり調査したり記録したりしながらぶつぶつ言っている。 それが日々でその日々の繰り返しじゃないけれど一日一日の中に誕生日があったり年末年始があったり尊敬する人たちとの楽しい日があったりうぜーなーあいつみたいなんがあったり自由だけど自由

夢になるといけねぇ 寄席写真家橘蓮二の目にやられろ

学生時代の劇団の先輩に文楽のカメラマンが居た。 最もお世話になった先輩の一人だ。 でも当時特に伝統芸能に詳しかったとか好きだったとかいうことはなかったので驚いた。 学生時代ぶりに「Momo、歌舞伎とか落語とか好きやん? 大衆演劇とか。実は私今ね……」とか連絡が来て、会ったり、話を聞いたり、頻繁にお茶したりしていた。 「おじさんたちの撮るの、なんか違う気がするねん。お洒落に撮りたいねん」 ということで公演中の楽屋にも同行したりしたが、わたしはド緊張。 お会いしたうち、お一人はも

ご飯を食べる 『きのう何食べた?』と『生きるとか死ぬとか父親とか』

わたしは最近よく泣く。 泣き笑いだの笑い泣きだのという言葉はかなり使いやすいというか便利だ。 言葉だけが独り歩きしているような感も否めない。 でもほんま、すぐに泣くようになったし、笑うようになった。 自制心もといかっこつけで隠しているけど。 むかしは怒りの感情が大きかった。今もある。 でも今はそれより泣くし笑う。 人気ドラマ『きのう何食べた?』は、 漫画のときから読んでいたし観ていたのだが、 ドラマseason1の際には、 なんだかすごい勢いで広まっていった両手放しの大絶

20XX年に 北斗の拳、ベルセルク、旅芝居の芝居

古いアニメや漫画を語ったり、 キャラの台詞や引用をすると「さむっ」「知らんし」となる時代らしい。 『ベイビーわるきゅーれ』の主人公たちが言っていた。 このところ仕事中のBGM代わりが『北斗の拳』だったわたしには「!」である。 せやけどここからどんどん広がっていった、考えた、色々。 「さむっ」「知らんし」すみません。 すごく長くなりましたが、よろしければお付き合い下さい。 きっかけは先月放送されたNHK『アナザーストーリーズ』(再放送)だ。 原哲夫&武論尊による「制作秘話」を

熱と氷と人とナカミ 私的・川上未映子論

バケツに入った氷水を頭からかぶる。 次に氷水をかぶる人を指名する。 指名された人は24時間以内にチャレンジする。 チャレンジしたくない場合は100ドル寄付する。 チャレンジ後に寄付をしてもいい。 すべてはSNSへ投稿され、リレー方式で繋がってゆく。 9年前の夏前から夏に流行ったいわゆる「アイス・バケツ・チャレンジ」。 アメリカで始まったそれはチャリティー活動、 筋萎縮性側索硬化症 (ALS)の支援拡大を目的としたものだった。 世界でも日本でも芸能人や著名人(某企業とか)が参加

そのタイトルに 『教誨』

ひとりだと、ひとり。でもそれが群れや集団となると、別だ。 集団は、時にとてもこわい。 〝個人のはっきりした言葉や意見よりも集団としての和〟 〝集団の中で波風を立たせずに生きることが美徳〟 〝空気を読め〟 そうして集団で「YES」となったことは時に絶対的に間違ったことであっても「YES」となることがある。 そうさせられてきたり、そうすることそのことを疑いもしなかったり、 いや、そうしないと排除されたりするから黙ること。 そんな暴走や暴力や沈黙が他者の尊厳や命さえ直接的にも間接的

人が本当のことを口にするとき

パソコンのキーボードを叩きながら書くとき、 わたしの場合、アタマ(思考)より指先が先に走りアタマは後から追いつく。 スマホから文字を打つとき、わたしはいまだに慣れないからか、 アタマ(思考)は指の運動と共にゆっくり動く。 ということで今日はゆっくり書きたいな、 まとまらないけれどまとまらないままで書いて置いておきたいなと思い、スマホからぼちぼちと打った。 だからnoteでなくインスタに……と思ったが長くなり過ぎたので、やっぱりnoteにした。そのため、キーボードで整えた。 め

楽園

それはどこにあるんやろ。 どこかな、ここかな。 あの日かな。今かな、これからなんかな。 あの日に置き忘れてきたもの、今も待っているもの? あの日があって、今があって、そしてこの先に? あの日があるから、今ここに居て、居てしまって? ぐるぐるぐるり、うろうろ惑い、惑いながらの日々で、 楽園の反対の場所は戦い? 日々は戦い? 孤独や喪失感を胸に、それでも生きること生きてくことを考えたり。 GW中のある日の午後、知らない番号から電話があった。 「おお、Momo、お前俺のこと誰か

ファンタジーとおにぎり

きのう夕方のこと、 出先の近鉄電車の駅構内にあるファミマに寄ったらこんな声がきこえてきた。 「運動後の水分補給に一番ふさわしい飲み物は?」 カーン、ピンポーン。早押しボタンを押して答えるクイズかなんか? でも、答えめっちゃむずかしない?! 振り向いたら私学の中学か高校だか、いや、中学生やろなあ。 運動部(なにかはわからんかったが)の男の子たち3人が喋っていた。 そのうち1人が手にとったのは紅茶花伝で もう1人が手にとったのはリポビタンDだった。 「おまえ、それありえへんって

すべてほんとう 『散り花』

生き様。 今では誰もが結構気軽に使うけどきっと意味としては重いであろうこの言葉を浸透させたのは(一説によると)プロレス中継の際の古舘伊知郎らしい。 と、聞いたか読んだかしたけれど、定かではない。 でももっともらしいな、と思ったりもする。 なんだかもうほんとに浸透しすぎている言葉じゃないですか。 わかるようでわからなく、わからないようでわかるような気がする言葉じゃないですか。 なんてことを思い出したのは、 プロレスを描いて(正確には闘魂三銃士(だけじゃないけど)を描いて) 第1

小さき者たちの

〝世界をうごかしてきたのは、いつも、小さき者たちだった〟 〝自分たちの目の前にはいない世界の片隅に生きる者たちへの想像力が、いま試されている〟 『小さき者たちの』(松村圭一郎・ミシマ社)に、うーむ、と唸る。 あらためてこう言葉というか文字にされることで、しずかにも、どかっ、と肚に響く。 最近気に入っている書店(の、ひとつ)にて 先日読んだ『断片的なものの社会学』(先日のつぶやきはコチラ)の隣に置かれていた。 なんだか気になり思わず手に取ったのは、 このシンプルだけれど考え

なゆかとサトラピ

ここ最近2冊のコミックエッセイを読んだ。 コミックエッセイというのはおかしいかな。 でも間違ってはないかなあ、とも思う。 ひとつは、峰なゆかの『AV女優ちゃん』。 それまでの人生からデビューから業界のいろいろを描いたエッセイ漫画。 もうひとつは、フランスのイラストレーターで漫画家マルジャン・サトラピの『ペルセポリス』。 イランで生まれ、イラン革命そしてイラン・イラク戦争を体験し、大人になってゆく自伝的グラフィックノベル。 生まれた国も、育った時代や環境も違う2人が描いた作品は

イワシの頭 川上未映子『ヘヴン』

のっけから嫌な話をするがここ最近いやがらせにあった。 ちいさなものが重なったりした。 「でもこう感じるのもわたしの主観やもんなあ」とも頭の中で考えてしまっていた。 そもそも慣れている、とも思ってしまっていた。 ちいさいころは容姿というか体のことや他のいろんなことを理由に除者にされることが少なくなかった。 そうしていろいろ自分を守るためやつくるためにやってきたいろいろの結果、それでも嫌な目に遭ったり「いろんなこと知ってる人」という風にしか見られなかったりもして悔しさを感じたりも