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おばあさまと私


おばあちゃん なくなりました

西日の入る夕方カナダの田舎の空港で、それは日本へ帰る飛行機に乗る直前にもらった連絡だった。

すこしのフリーズ。しばらくして搭乗ゲートが開いて、わたしは飛行機に乗った。

乗り換えの飛行場でWi-Fiが繋がると届いてきた母からの今後のスケジュール。こういうとき、ぽんこつな母は急に淡々と冷静になる。
帰国の翌日が納棺らしい。この日は平服でいいのか

日本にいるとき、半年くらいだけ祖母と二人で暮らしていた。
祖父のあと、間もなく母の妹である叔母も癌で亡くして、憔悴していた祖母と暮らした。祖母にはときどき叔母の名前で呼ばれたけれどなんとも思わなかった。
会社は片道二時間かかったけれど、リモートもできたし不自由はなかった。

それでも仕事でたまに都内に行って終電で帰ると、珍しく彼女が起きていて、二人してつまみを食べてバラエティ番組をみた。
仕事終わりのビールを楽しみに冷蔵庫を開けたら、スーパードライの缶が空いていて炭酸が抜けていたこともあった。
彼女に聞いたら、わたしが美味しそうに飲んでいるから飲んじゃったとほざいた。泥棒じゃんとわたしは吐き捨てた。

仏壇に備えたお団子は、いつも気づいたら一本なくなっていた。

仏壇にの横に飾ったお花をみたあと、決まって綺麗なお花だね、と笑っていた。生けてくれたの?と。
そうだね、綺麗だねとわたしもうなづいた。

香炉の底はいつも燃え残った線香でいっぱいで、線香があげづらかった。暇をみて掃除した。

わたしの顔を覗いては、色が白くて綺麗だねと、綺麗な髪の色だねと。
お化粧してるんだよ、もう染めてから2ヶ月くらい経っちゃったよと相手をした。

冬にはわたしのフリースを勝手に着ていたも知っているし、わたしが買ってきたプリンを食べていたのも知っている。

一緒に食べた、駅前のパン屋さんの砂糖をまぶしたパン、おいしかったね。
別にいいのに、なにかしらいつも半分こしてくれたね。

仕事を辞めてカナダに行くよと彼女に話したら、一年で帰ってくるんでしょ?帰ってこなきゃだめよ、と言われた。帰ってきたら結婚しなきゃねと。

今回、一年より少しだけ早く帰ったから、もう一年くらいは日本に帰らなくてもいいかな?まだ結婚相手もいないし、そもそもおばあさまもいないでしょ?
どこにいたっていいよね。わたしよりあなたは自由。


たくさん仕事休んじゃったから、四十九日には帰れません。飛行機代も大変なの。
だから新盆になったら、またおばあさまの家で会いましょう。


そういえば、カナダから送った手紙、二通くらい送ったけど、返事くれなかったね。
エアメールの書き方、一通目に書いたじゃん。まあ予想はしてたけど。便りがないのは元気な証拠じゃなかったっけ。


成田空港に着いて、電車を乗り継いで実家の最寄りの駅に着くと、父が迎えに来てくれた。母は祖母の家で遺影の写真を探しているらしい。
祖母の家の居間に飾ってあった写真が目に浮かんだ。

お友達とあそびに行ったときの集合写真だろう。よくあるテーマパークの観覧車の前で写真サービスしているような例のあれである。
色付きの眼鏡をかけて、派手な帽子をかぶって、濃いめの口紅で。
お洋服も、いつもモノクロなわたしとは打って変わって鮮やかな色のニットだった。笑顔が素敵だった。


結局、選ばれたのはその写真だった。母はほかにも何枚か写真を見繕ってきたけれど、やっぱりそれがおばあさまだった。


派手な帽子は昔からで、昔、鎌倉に家族旅行に行ったとき、
鎌倉の大仏様の階段で、幼いわたしが母と手をつなぎながら言ったのは、
「おばあちゃんがいた。」

祖母とは別に暮らしていたから、家族旅行に祖母はいるはずがないのだけれど、たしかにそこにいた。
そう、派手な帽子を被って、お友達と鎌倉旅行をしていたのである。
階段ですれ違う私達。

昔から、よく旅行先や出先で、知り合いにたまたま何でもない道で鉢合わせることがある。不思議な縁である。
これがわたしが覚えている最初の縁。


色々な思い出が蘇ってくるのは、それが過去になったからなのかな。
おばあさま、いつも言ってたね。
一生懸命がんばりますって。そうだね。

わたしも毎日一生懸命がんばろ。




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