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写真の中の「端っこ」と「加工」

1.端っこをどこにするか

写真って、「部分を切り取るもの」だと思う。
丸い地球に地平線を引くようなもの。
どこまでも果てしなく続くであろう「世界」やその「風景」に、一旦の区切りを作るようなこと。
“区切り”をどこにするか、それが人それぞれのセンス。

絵を描くのも写真を撮るのも、着眼点に「着眼する」時点で、その人の中の「構図」が決まってくる。
視界自体がそもそも動いているから、視界に入っているものって、枠の端っこを決めなきゃ、写真は撮れないし絵も描けない。


2.どう加工するか

日常的に写真を撮る人と撮らない人では、同じものを見ていても見え方の違いがはっきりする気がする。
ホワイトバランス(赤み、青み、など、全体の色や雰囲気を変えられる。説明が雑ですみません。)を少し変えたりして、自分の感じている見え方の雰囲気に近づけた写真。それを見て、まずまず納得する自分。一方、それを見て、「加工されている」と感じる人。
私も極力自然のままの色合いや見え方が好きなタイプなので、そういう人の気持ちもわかる。現に私は、「加工している写真」というものを撮ることはほとんどないつもり。というか、加工して撮っている意識はない。でも。そう感じる人がいるということから、思考を巡らせてみる。そもそも、人の表現(写真や絵など)は、ある意味全部が加工なのではないか、とも思えてきた。

私の写真を見て、「加工してる?」という人は、もっときれいな(あくまでその人の中での)自然体なものが見えているのかもしれない。そもそも私ごときの写真の腕前ぐらいじゃ、「加工」という少し「ニセモノ感」が漂ってしまっているのかもしれない。でもそもそも、「どう見えるか」というバリバリの主観の表現なのだから、そんなこと言い出したら全部加工じゃん!私の視点が作った「加工品」だもの。「加工」=「表現」だ。
そもそも、きれいな景色を生で見た感動と、きれいな写真を見た感動って違うと思うんだ。

「端っこをどこにするか」
「自分の主観的な見え方をどう相手に伝えるか(=どう加工するか)」


写真だけでなく、文章を書く時も、人と話をする時も、「個人」の枠が「相手」のあるものに広がっていく時、すなわち誰かとコミュニケーションをとろうとした時から、この二つが関わってくると思う。

ひとりじゃないからこそ、個人じゃないからこそ、の面白さなんだろうな。

そう気付いた瞬間から、ずっと私の中に抱えていた感覚が、名前のある感覚になっていくような感じがし始めた。





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