#2 この感情をどこかに置いておかないと。
momonagaです。
前記事で唐突に自分語りし始めたわけですが、最初に「書きたい」と思った内容を話すにはどうにもこうにも私の性格や今に至る経緯をもさらけ出し根本を知ってもらう必要があるようで、、、自分でも思っていた以上に長いお話になりそうです。
時間つぶしに読めるよという方はお付き合いください。
私の生きづらさ
恋愛の失敗、若気の至りなんて誰にでもある。前記事でダメンズ達との恋愛についても辿って私の性格について話しましたが、今だから理解ができたけど私の人付き合いや自分の動かし方にはいくつかの癖があるように思えます。
『空気(全ての刺激)を読みすぎる(感じすぎる)、本音が言えない、人の機嫌が悪くなるのが苦手なので回避しようと人のために尽くしすぎる、その為には道化師のように演技でもなんでもして笑ってやり過ごす、自分さえ我慢すればいいと頑張れてしまう、常に頭の中はフル回転、「考えすぎだよ」とよく言われる(この言葉すごく嫌だった)、人との間に発生するコミュニケーションを複雑にしたくないから人に頼るのが苦手、人の視線が苦手、とことん完璧主義。…などなど』
…これを外で全部全力でやってたらそりゃ疲れる。
だよね。だから私には少しでもこの「自分」を作らなくていい休息時間が必要だったと思うのですが、当然学生生活は集団行動で、いつでも誰かの視線に囲まれていてパワーダウンする時間がなかったのです。おまけに人は多いわ音もうるさい、視界から入ってくる情報は選択しきれない、過激な言動もそこら中に転がってくる。どこにいても「ワッ!!」と驚かせられている感覚。この環境の中で、疲れをとるような器用なことは私にはできなくて、(リアルな話、保健室や人のいない美術室が私の隠れ場でした)
そして家に帰ってから一気に電池切れになってしまう。自分のことに手が回らない。
それが私のサイクルでした。
HSPという言葉を知る
今でさえこの負のサイクルの構造を理解した私がいますが、HSPという概念に出会うまでどうして私はこんなに不器用なんだろう、どうしてこんなに疲れやすいんだろう、どうして皆と同じように器用にこなせないんだろうという生きづらさを焦点に悩んでいました。
最初にHSPという言葉を目にしたのはどこだったか覚えてはいないのですが、急激にネットや本で知られるようになった頃に私もその言葉を目にします。
HSP(Highly Sensitive Person)
ハイリー・センシティブ・パーソン
“HSPとは、生まれつき非常に感受性が強く敏感で繊細な気質をもった人“
感受性?敏感?繊細?その言葉だけではすぐ自分ごとには思えなかった覚えがあります。(正直、「繊細」だなんて言葉自分にはおこがましいわ!とも。)それでも特徴を読めば読むほど、これって自分の説明書じゃないの…?と不思議な感覚に陥りました。調べていく中で、HSPにもどんな特性が強いかという種類があるようで、全てが自分に当てはまるわけではありませんでしたが、今までうまく自分で説明できなかった自分の感覚やエネルギーを受けとりすぎることによる疲労感がHSPという言葉を通して言語化されていたことが衝撃でした。
そして、それは別に私一人が抱えている生きづらさではなかったのです。ネットで解説されるほど、専門書が出るほど…この特性で悩んでいる人はたくさんいることを知りました。病気ではないけど、原因が分かったことにひとつの大きな安堵を感じ、世界が少しずつ変わっていくような期待感を感じたのを覚えています。
一方その頃の私生活
「こんな本があってね、どうやら私これみたいなの…。特性について知っていてくれたら嬉しい部分とか理解してほしいことが載っているから付箋貼ったところだけでも読んで」
私はこう、同棲し始めの彼(のちに夫となる人)に一冊の本を渡した記憶があります。私は年下の恋人と新生活を始めていました。彼は、私の今までの恋愛のトラウマや傷を話しても、もうそんな思いはさせないと努力することを感じさせてくれる人でした。
ほかにも簡単な言葉で言ってしまえば、彼はとても素直で正直で、オーラが陽気で、それに自然に車道側を歩いてくれたり荷物を持ってくれたり飲食店で奥の席を譲ってくれたり、「恋人として」大切に扱ってくれていることが行動から滲み出ている人でした。今まで受けたことのないタイプの愛情が嬉しくて、とても新鮮でした。
…それでも自分との性格の違いについては早い段階から悩んでおり、一度は本気で私の方から別れて欲しいと話をしましたが、私が不快に思う所は直すから!と彼なりの努力を見せてくれて紆余曲折あり私達は一緒に住むところまでとんとん拍子で歩んでいくことができました。
刺激に囲まれた生活
自分と感覚の違う人との生活は新鮮で、最初こそ面白がって生活することができていました。もちろん共通点もたくさんあって惹かれあった私達でしたが、それこそ、彼は私には無いところをたくさん持っていて、趣味も音楽、舞台、映画、ラジオ、ゲーム、マンガ、麻雀…と家にいても暇する時間がないほど多趣味でいつも忙しそうでした。
私はそれをニコニコ笑って見てました。
自分自身にもアートや生き物好き(水族館に行くことが大好き)、アウトドアなどの趣味はありましたが、日常的には音楽を聴く習慣すらなく、家は既出の通り静かにぼーっと身体を休めることが主な役割でした。
それでも、好きな人の好きなものは一緒に楽しみたい。彼も自分の好きなものを一緒に楽しみたいという思いが強いタイプの人だったので、一緒に楽しむことを“頑張り”ました。
一日中YouTubeやゲーム、麻雀配信が流れているテレビを私もできるだけその場にいて「こういう生活」に慣れようとしていました。
徐々に現れてきた私の特性による違和感
…ここまでの私の性格や特性を語ってきた上で、こんな喋り方をしていたらもうお察しだとは思うのですが、そのうち私は体調を崩しやすくなりました。
この頃まさにコロナ禍が始まったばかりで、仕事でも緊迫した生活が続いていたことも重なり毎日とても疲れているのに疲れが取れない。謎の微熱が続き、倦怠感に襲われ、会社からもコロナを懸念して自宅待機命令が続きました。
そして、その頃まだ大事(おおごと)だったPCR検査を受けることになり同居の彼も検査結果が出るまでは仕事に行けないことになりました。私はそれまでずーっと闘ってきたしんどさ、熱による体や頭の痛さの限界、不安、そして彼へまで迷惑をかけてしまったことに対する申し訳なさで大号泣。
そんな時にです。
「結婚しませんか?」
パジャマ、すっぴん、マスク、メガネ、おまけに大号泣で顔ぐちゃぐちゃ。そんな状態の私は彼から不意打ちのプロポーズを受けたのです。
「なんで?」
リアルな第一声はそれでした。(急にプロポーズの話なんて横道に逸れてすみません。)
ただ意味がわからなかった。だけど、後から彼から聞くと、こんな絶不調の時こそ一緒にいたい、支え合える関係性(夫婦)になりたい、とそう思ってそのタイミングで発した言葉だったらしいです。(※それ以前からプロポーズのタイミングについては彼なりに考えていたところだったらしいが)
…そんなこんなで、若干混乱中な中でしたが、こんな自分を受け止めてくれた彼の想いが素直に嬉しく、私たちは結婚することを決めました。
TAKE2:徐々に現れてきた違和感の正体
話が逸れましたが、そんな体の不調が出てきたにも関わらず結婚という大きな決断をした私達。
彼にまだまだ迷惑をかけるかもしれない、そんな不安を抱えながらも私たち二人の関係は夫婦という形に変わりました。
また、私の身体には次第に謎の胸や背中の痛みなどの症状が増えていきました。
そして、大きな病院で検査・通院を続けるも一向に病状がよくならないまま、私はついに心療内科に辿り着きます。詳しい検査をしても何も悪いところが出てこない、ペインクリニックで痛みそのものに対する治療をしてもよくならない。もうお手上げでした。
会社も時短勤務をするようになり、それはそれで仕事のペースが乱れ、同僚との意思疎通もうまくできなくなっていき、辛いことばかり。
電車通勤中に倒れ救護室に運ばれたり、職場に辿り着いても階段で目が回って動けなくなったり、職場の入り口に立ち尽くしたまま入れなくて早退したりを繰り返し仕事にならなくなりました。
そして、かかった心療内科でくだされたのが「適応障害」という診断です。ストレス要因が今の仕事にあるとするのなら、その環境から身を遠ざければ治るから、大丈夫。今はとにかく休みなさいと急な休職に入りました。
原因は仕事のストレス?
上にも述べたように、コロナ禍で緊迫した生活(その頃の私の職業は免疫力の弱い障害者や高齢者と密接に関わるものでした)に疲弊していて、さらに周りに気を遣って申し訳ない申し訳ないという思いでいっぱいの私には仕事の重責も大きなストレス要因だったと思います。
だけど、3ヶ月経っても症状は良くなることはなく、結局私は仕事を辞めて完全に療養生活に入りました。半年経っても、それからも…
ストレス要因からは離れて身体を治すことにだけ集中しているはずなのになぜだろう。そして、その間に躁鬱の症状が加わり出始めて私は今「双極性障害」という診断名で障害年金を受給して暮らすところにまできてしまいました。
…気が付いたらまた長く喋り過ぎてしまったので、今回の記事はここまで。
双極性障害との闘病生活がはじまったところから次回話を続けようと思います。
読んで下さった方、ありがとうございました。
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