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“日常”を捉え直した話
さて、ここから日常が始まるんだ。これから何をしよう?
この1ヶ月くらい、モーニングページに何度もこう書いていることに気がついた。
最初に登場したのは、新婚旅行から帰ってきて数日経ったあと。3月の上旬。何ヶ月も準備してきた結婚式と新婚旅行を終え、家で体を休めたところだった。
その次に現れたのは、キチジンに参加した後。3月の下旬。出店者側でこういう即売会イベントに参加したのは初めてで、たくさんの気づきが得られた。なんとなく非日常という感じがした。
(イベントに参加したときの詳細はこちら↓)
そして今日。4月の真ん中。一昨日は義母が東京に遊びに来てくれた(我が家にも初めて来てくれた)ので、その前数日間は「一緒にどこへ行こうか?」とか、部屋の掃除をしなきゃな〜とか思いながら過ごしていた。
さて、ここから日常が始まるんだ。これから何をしよう?
あれ?おかしくないか?今すでに日常の中だよね。少なくとも、新婚旅行から帰った後からは大きな変化もなく、日常の中にあると言えるはず。
それなのに、ことあるごとに日常を仕切り直しているのはどうしてだろう?
こうして、自分の中の“日常”像が実際に今過ごしている“日常”と一致していないんだと気がついたので、掘り下げてみた。
私が持っていた“日常”像は、規則的で変化のない時間割(シフト固定のアルバイト、自宅での決まった家事)をこなしつつ、自由時間を自分でコントロールして過ごす日々、というものだった。外からの影響がない、閉じた世界。日常という言葉に、少し孤独というイメージも含まれていたかもしれない。
その日常の中では、自分で自分を律していかないと何も生み出さず、ただダラダラと時間を空費してしまうぞ、と自分を脅していた。日常は監獄で、苦行で、自分で設定しない限り楽しみは生まれないとまで思っていた。
さて、ここから日常が始まるんだ。これから何をしよう?
だからこの言葉は、楽しい気持ち、日常を楽しみたいという気持ちからきているのではなく、苦行をやっていくために自分で自分のご機嫌をとるとか、無為に時間を過ごさないといった目的で書いていた。「何がしたいんだ」と自分を問い詰め、それをやるのだ、そうでないと楽しいことなんかないのだと自分を追い立てていた。
でも実際には、ありがたいことに人からお話しようとか、会おうと声をかけてもらうこともあって、全然閉じた世界じゃなかった。楽しみは外から舞い込んできた。
コントロールなんかする必要なんかない。それでいいんだ。私にはそれが合っている。
こうしたギャップがあったから、人との楽しい予定が終わるたびに「あれ?なんか違う。構えろ。本当の日常はここからなのだ」と仕切り直していたんだな。
変化を好む自分は、この“日常”期に入ることを恐れていた。
定期的に卒業を迎える学校というシステムを完走し、新卒で入社した会社で合わないなーと思いながら働き、辞め、じゃあ自分は何がしたいんだろうと自分を掘り下げながら少しずつ手を動かし、そして先月人生の大イベント・結婚式を終えた。常に何かしらのゴール、もしくは変化がある状態を生きてきた。
そんな状態から、今はたぶん長く続けるだろうなという仕事をして、ルーティーンをこなす生活になった。終わりがない。人生で初めてだ。
退屈な中で自分を律して楽しみも自分で作らなければいけないのが“日常”だと思っていたけど、そうじゃない。自分のコントロールなんかしなくていいし、気づいたら勝手に楽しんでる。
安心したままで変化を楽しみたいという、自分が求めていた生活にもうすでになっているということなのかもしれない。“日常”というものを捉え直した瞬間だった。
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