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*自己紹介*「HSPで楽しく生きる」32歳OLの歩み

―生きることを諦めろー

26歳の秋、上司から言われた言葉。

この時から5年間、ずっと「自分なんて消えた方が良い」と思い続けてきました。

でも、とても感受性が強く敏感な気質である「HSP」であることが分かり、
自分と深く向き合うことから、少しずつ前を向けるようになり、
更にはTwitterで発信を始めて「自分に生まれてみて良かった」と思えるまでに進化しています。

そう。人ってどんなに絶望していても、必ず変われるし、前を向くことができるのです。
なぜなら、私がそうだったから。


ご挨拶が遅れました。

私はTwitterにて「HSPで楽しく生きる」をテーマに発信しております、ももと申します。

この度は本記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。

このnoteを書くきっかけとなったのは、Twitterです。
2021年3月1日から本アカウントでの発信を始め、8ヶ月半経った11月15日に、1万名の方よりフォローを頂きました。

1万名という節目を迎える直前に、何かしたいなと思っていたところ、
複数の方より「ももさんの人生をより深く知りたいです」というお声が上がりました。

私は、平凡な32歳のOLです。資格と言えば自動車免許くらいで、誇れることは何もありません。でもこの「自分だからこそ伝えられることがあるのかも」と思い、筆を執りました。

本noteは、例えばこんな方にお読みいただけたら嬉しいです。

・人生のドン底から何とかして這い上がりたい。
・「何もない」と思っているけれど、何かを成し遂げたい。
・生きづらい自分が嫌だけど、少しずつ好きになりたいな。
・年齢を言い訳にせず「何歳からでもできる」を証明したい。

それではこれから、私が過ごしてきた32年間の「リアル」を綴っていきますね。
約2万字の長文なので、ゆっくりお読みください。

【お知らせ】
1年ぶりにnoteをリリースいたしました。
こちらもぜひご覧くださいませ。
無料部分にもかなりこだわっています。


①とにかく「超敏感」だった幼少期

1989年3月6日。東京都内で3人兄弟の末っ子として誕生しました。
姉・兄と歳が離れていたことから、溺愛されて育てられます。

ただ、幼い頃からとにかく敏感でした。
夕方5時のチャイムが鳴り響くと、怖くて泣いてしまったり。
「世にも奇妙な物語」の音楽が流れるだけでパニックになったり。
大好きな母が外出し、数時間1人になっただけでトイレに立てこもって大泣きしたり。

大きな音が苦手で。怖い音も大嫌い。
母も「ももちゃんはすぐ泣くから大変だったよ」と言うほど、些細な変化にも驚いてしまう幼少期でした。

そんな私も3歳からプール教室に通い始め、泳ぐことに喜びを見出していきます。
幼稚園に入ってからは、少しずつ「お友達」ができ、楽しく笑顔にあふれた日々を過ごすようになっていきました。

しかし、どうしても疲れやすい部分もあり、行事が続くと「もう無理‥」とお休みしたこともありました。この部分は、今でも変わらないなと思っています。

加えて「人の顔色を伺う部分」はこの時からあったようで。
もうすぐ小学生になる頃には、父と行った回転寿司でこんな一面もありました。

今でもこの部分は残っているなと感じることがあります。
思えば、当時からHSPの気質があったのでしょう。


②「人に裏切られる」を覚えた小学生時代

地元の公立小学校へ入学。3月生まれなこともあり、他の子よりも身体がかなり小さく、ランドセルが大きく感じたことを今でも覚えています。

そして入学して間もない頃、初めてのいじめを経験。
学校の帰り道、身体の大きな男子2名に後ろから倒されて顔面を強打。血だらけになりました。彼らの主張は「身体が小さいのに漢字が書けるからムカつく」というもの。

本件は母が男子2名の母親に強く注意をしたことで事なきを得ましたが、「人というのは恐ろしい」を覚えた、最初のタイミングでした。

時は経って3年生になり、中学受験専門塾に通い始め、4年生からは本格的に勉強に取り組むようになりました。

ですが、ここでも事件が発生します。

塾内は学力別にクラスが編成され、かつクラス内の座席もテストの成績順。
つまり、週に1回行われるテストごとに、座席が変わるという酷な仕組みでした。
幸い私は、ある程度勉強が得意ということもあり、良い位置をキープ。

それに不満を持った、同じ学校の友達から嫌がらせを受けるようになります。

仲良し(と思っていた)3人組で楽しんでいた交換日記。
ある日「今日は何が書いてあるかな?」とワクワクしながら開くと‥

そこには

「どうせカンニングしてるんだろ」
「お前なんて友達だと思ってないからな」
「早く消えてしまえ、ウザい」

など、目を疑いたくなるような言葉の数々。

そう、嫌われてしまったのです。

ショックでした。涙すら出ず、ただただ呆然とするばかり。
意を決して母に打ち明け「そんな子とは付き合わなくていいよ」と。
その言葉に励まされ、何とか立ち直り、中高一貫校への進学を決めました。


③「ネクラな自分」を自覚するも、少し変われた中学生時代

中学生になり「楽しい毎日が待ってる!」と思っていましたが、
現実はなかなか難しいものがありました。

小学生の時は「勉強ができる」が自分のアイデンティティだったものの、進学した中学校の校風上、おしゃれな子が目立つ傾向でした。

当時の自分はおしゃれに全く興味がなく、ただのダサい女の子。
「自分って勉強以外に取り柄がないんだ」その思いから、ネクラ街道まっしぐらで‥。部活もオタク系のものに入り、1~2年の頃は友達も少数しかいませんでした。

ですが3年生の春、同じクラスに、1人の友人ができました。
彼女は私のことをいつも褒めてくれました。

「笑ったら可愛いのに。もったいないよ」
「ももは聞き上手だよね。とっても話しやすくて嬉しい」
「良いところがいっぱいあるんだから、もっと自信を持った方が良いよ!」

その言葉から、苦手なおしゃれにも目覚め、少しずつ意識が変わってきました。そして転機になったのが、チアリーディングとの出会いです。

偶然行った付属高校の文化祭。そこでチアリーディング部の公演を見て、運命を感じました。
演技をしている方も、見学されている方も、みんな満面の笑みがこぼれていて。そこはまさに、幸せにあふれた、私の「理想の世界」でした。

「この環境に入れたら、自分も変われるかも!」

その瞬間「チアリーディング部に入ること」が私の目標になりました。

明確な目標ができたので、行動も変化していきます。
太り気味だった身体は、筋トレによりスリムになりました。
チアリーディングに似合うよう、毎日笑顔の練習をしたことで人前でも笑えるようになりました。
「明るい自分」をイメージして、人と会話する機会も増えていきました。

ただ一方で、変わっていく自分に批判的な目を向けてくる人たちも。

友人と一緒に行った卒業旅行で、一足先に就寝した私。
でもふと目が覚めて耳をすますと‥私の悪口大会が繰り広げられていました。

「実はあの子のこと、大っ嫌いだったんだ」

小学生の時の記憶が蘇ります。布団の中で、涙が止まりませんでした。
全員に好かれる人はいない。それは分かってる。でも悲しい、しんどい、辛い。

ほろ苦い、中学3年生の思い出です。


④高校で初めての挫折を経験。そこから得た深い学び

高校へ進学し、念願のチアリーディング部に入りました。
同時に、周囲からの目が一気に変わったことを感じます。

入学早々、多くの男子から声をかけられてパニックになり、下校途中に芸能事務所からスカウトを受けることもありました。「努力すると、人って変わるんだな」と思った瞬間。

ですが、私の目的はただひとつ「チアリーディングに没頭すること」。
かなり体育会系の部活だったので、平日・長期休暇中はほぼ毎日練習していました。成績も一定水準を求められたため、勉強にも集中する必要があります。

「私、努力できてる」

相変わらず、内面はネクラで人見知りな自分でしたが、
周囲からの期待に応えながら、一歩一歩進めている過程が嬉しかったです。

しかし、裏では一部の女子から「ブス」「ダンスが下手」と罵られました。そのストレスからか、過食→絶食の日々を過ごすことに。

当時は「人前に見せる身体だから、決して太ってはいけない」と自分を責めてばかりで。

その想いから食事を控えめにするも、ある日突然食欲が爆発してしまいます。菓子パンを10コ、その後にラーメン5杯、その後は2日絶食‥みたいな感じ。

幸い嘔吐こそしてなかったものの、
家族から心配され「ももちゃん、ちゃんと食べないとダメだよ」と毎日のように言われました。
でも当時は情緒が不安定で、大切にしていたガラケーを折ったり、物を投げつけたり。本当に迷惑をかけました。。

そして、初めての文化祭の直前。9月のこと。

急性胃腸炎になり倒れ、突如1週間入院することになります。
元々身体がそこまで強くない上に、ムチを打って頑張り続けたことと、あまりにも乱れた食生活が原因です。完全に身体が悲鳴を上げていました。

入院して更に食べられなくなり、ついに167cm40kgを記録。
でもこの時、看護師さんからの言葉に救われました。

「やせなくても、ももちゃんはステキ」

「頑張れない自分に価値はない」と思っていましたが、「どんな自分でもいいんだ」と初めて思えた瞬間でした。

退院後は、チアリーディング部を退部し帰宅部に。
頑張り続けていた勉強もストップし、一気に生活が楽になっていきました。

高2~3にかけては、同じクラスに能天気な彼氏もでき、毎日のように遊んでいたなぁと。何も考えない時間は、私に心のゆとりを与えてくれました。
今思えば、燃え尽き症候群だったのかもしれません。とにかく「ゆっくりしたい」その一心。
そしてそのまま、大学へ進学することになります。


⑤就活ってこんなに大変?50社敗退の大学時代

人見知りなため「ゼミも卒論もなしで卒業できる」という理由で法学部に入学しました。

チアリーディングに挫折してから、ほぼ勉強をしてこなかったので、大学では少しだけ真面目に勉強をするように。

また当時、ある程度将来のことも考えていました。
姉が専門職に就いていたこともあり、自分も何かスキルをつけたいと考え「どんなスキルがあるんだろう?」と大型の書店でリサーチをしました。

すると

「伝える力は、どんな仕事でも必要」

というフレーズが目に留まり「伝える力を身につけよう!」と決意。

アルバイトもそれを起点に

・「1人1人に対し商品の良さを伝える」携帯電話やiPhoneを案内するキャンペーンガール
・「集団に対して学びを届ける」中学受験専門塾の講師

この2つを選びました。前者は3年間、後者は4年間続け、そこから学んだことは今でも私のベースとなっています。

その中で発生した、2008年9月のリーマンショック。

当時大学2年生だった私には縁遠い世界でありましたが、あれよあれよという間に就職氷河期に突入します。

就職活動は、地獄そのものでした。
「大丈夫だろう」とたかをくくり、部活にもゼミにも入らず、バイトに明け暮れていた自分。なのに「成績も普通、英語も特に話せない、でも大手に行きたい」そんな甘い考えを持っていました。

完全に無茶な話ですよね。あっという間に50社敗退しました。
今までちゃんとした努力をしてこなかった自分を責めましたし、しっかり働いている姉と比べて涙することも。

そんな絶望のさなか、ある銀行のCMが目に入りました。

「あ、ここ受けてみようかな」

軽い気持ちで一般職に応募しました。するとどうしたことか、すんなり内定をゲット。
説明会にも行ってなかったので、社風もよく分かりませんでしたが‥
きっと運命だったのだと思います。こういうことってあるものですね。

だからこそ「”この人を採用して良かった”と思ってほしい」と強く思ったこと、今でも強く覚えています。

ですが、卒業式直前の2011年3月11日。東日本大震災が発生します。

卒業式は中止となり、世の中が混沌とする中で、不安な気持ちで大学生活は幕を閉じました。


⑥営業に打ちこんだ4年間の銀行支店時代

新卒で銀行に入社。しかし社会人人生の幕開けは、なかなかにヘビーなものでした。

配属されたのは、営業成績が全国最下位の支店。
おまけに月収は14万円。「あぁ終わったな」というのが本音。

そんな中、7月に上司の入れ替わりが発生します。
きっと全国最下位だったからでしょう。何とか立て直さねば、という上層部の意向からか、別支店のエース達が私の上司となりました。

特にマネジメント力に優れた支店長と、プレイヤーとしても優秀な課長代理。

「君は、これからもっと輝けるよ」

毎日のように、私にこの言葉をかけて下さいました。

それがとっても嬉しくて、
「この人たちに恩返しできるように頑張ろう」その一心で営業活動に打ち込みました。

2年目のラストにはある商品で全国1位となり、社長賞を獲得。目標達成率は800%を記録し、成績優秀者としてスピーチも。

3年目からは本格的に投資系の商品を販売するようになり、人見知りだからこそ、こだわり抜いたアプローチでお客様を少しずつ増やしていきました。

支店にいたのは4年間ですが、その際、2,000通お送りした手紙も「こだわり」の一例です。

また、お客さまの挙動を不審に感じ、800万円の振り込め詐欺を止めたのもちょうどこの頃です。

※プライベートでは、私から投資信託を購入した知人が、裏で600万円の借金をしていることが後々判明し‥「その肩代わりをしろ」という事件も発生します。ですが「正しく販売していたこと」「証拠も残っていたこと」から、こちらに一切非はなく事なきを得たというヒヤッとした一件もありました。

4年目では、かねてから希望していた、一般職から総合職への職種転換の制度が設けられました。その1期生として応募し、合格者3名のうちの1名に選ばれ、夢だった総合職へ転換を叶えます。幹部候補生として、3ヶ月間研修を受けることが決まりました。

「夢って叶うんだ」そう思えた瞬間でした。

※余談ですが、実はこの研修中「お風呂場の脱衣所にパスケースを置き忘れ→中に入れていた免許証の顔写真部分を黒く塗りつぶされたあげく→バラバラに切られる」という事件が発生しました。
「人は裏切るもの」幼い頃から学んできたこのことを深く心に留め「自分が自分を裏切らないように」と、改めて誓った一件です。


⑦人生初のメンタルダウンを経験し、初めての転職

5年目になり、憧れだった総合職に転換し、本社へ異動しました。

しかしそこには、厳しい現実が。

  • 合わない先輩から「ウソ」を教えられ、間違えて→上司に叱られる。

  • 本社はほぼ全員が総合職採用の中で、1人だけ一般職あがりだったことから、上司より「ポンコツ扱い」。

  • 仕事内容も営業から企画へと大きく変わり、自分にプレッシャーをかけ続ける。

「でも頑張ろう」と過集中。月初は3日徹夜。150時間残業することもザラにありました。
その中で上司から「お前なんて生きる価値がない」「早く消えろ」と毎日のように言われ、机を蹴られたり、頑張って作った稟議書を破られたり‥。

責められれば責められるほど、言葉が出なくなっていきました。
「繊細な心に、どんどん刃物が刺されていく」感覚が辛かったです。

心も身体も、壊れていきました。

そんなある日。「パスタが1本しか食べられない事件」が勃発。

あれ‥と2本目を口に入れようとするも、全く喉を通らず、その後、3ヶ月間固形物が食べられなくなりました。

結果、2ヶ月で10kgも体重が減りました。同時に、自律神経失調症も発症し、ひどい時には1日20回吐くことも。(食事中の方すみません)
その後1ヶ月で10kg減り、トータル3ヶ月でなんと20kg減となります。

そんなボロボロだった自分に、当時の上司がとどめを指しました。

それは「生きることを諦めろ」という言葉。

自分の中で何かが切れた音がしました。
あ、もうダメだ。消えよう。
「自分は生きていてはいけない」
どうしたら消えられるか?真剣に家で考えることに決めました。

その時の様子が、このツイートです。

当時、社宅に住んでいました。入居したのは3年目の時です。

15㎡の小さな部屋でした。新築で、白ベースのキレイな内装がお気に入り。
心が乱れて、すっかり部屋は汚くなってしまいましたが‥。

ふっとベッドに横たわり、美しい真っ白な天井を見ながら、この部屋に来たときのことを思い出しました。

初めての一人暮らしで、ずっと実家住まいだった自分が、一歩踏み出したあのとき。
ワクワクドキドキ。あれもやろう、これもやろう!環境が変わることで、自分自身も生まれ変われる。そんな感覚。

そして我に返りフッと

「今からでもやり直せるんじゃないかな?」

と思いました。

今は心身ともにボロボロで、お風呂に入るのも億劫な状態でした。
色で言えば、限りなく黒に近い濃いグレーです。
でも「美しい白で上を塗りつぶせば、きっと新たな一歩が踏み出せるはず」そう思えました。

その瞬間「会社を辞めよう」と決意。

そして、少しずつでいいから、この上なくキレイで繊細な白で上書きをしていこう。「自分の人生を生きよう」と思えたのは、まぎれもなくこのときが初めてでした。

次の日、すぐに退職の意向を伝えました。

「こんなに良い会社を辞めるなんてもったいない」

何度も言われ、退職に至るまで行われた面談は何と6回です。
離職率が極端に低い企業だったので「この子はきっと混乱しているんだ」と思われたのでしょう。

でも、私の意思は揺らぎませんでした。

なぜなら、一度壊れた人生を変えるために、一歩踏み出したいから。

その後、5年4ヶ月お世話になった銀行を退職することになります。
後悔は1ミリもありませんでした。

色々ありましたが、この会社で成し遂げたいことは全て叶えましたし、
ずっとフタをしていた「心の声」に沿って決断できたからです。

この経験は、何にも代えがたい財産になりました。
私を傷つけた全ての方に、お礼を伝えたいです。


⑧大切な人との永遠の別れを経て、2回目の転職へ

「とりあえず残業が少なくて楽そうな会社へ」という理由で、小さめなリース会社に入社しました。

今までが戦場のような職場だったので、居心地が良かったです。
何より「定時で帰る」ことが新鮮でした。

仕事は法人や個人の与信審査でした。営業の方が取ってきた案件を、様々な角度からチェックする仕事です。決して面白いものではありませんでしたが、疲れ切った心は少しずつ癒えていきました。

実はこの時、まだ自律神経失調症が残っていました。
そのため、急に倒れることもあったのですが‥優しい社風だったので「無理しないで」と言っていただけて、とてもありがたかったです。

しかし、人間というのは慣れてしまうもの。

入社して少し経ったとき「ちょっと新しいことを始めてみたいな」という想いが沸き上がりました。

そんな中、インターネットである方が女性支援の活動をされていることを発見します。
「これだ!」と思い、即講座に応募しました。正直「自分のやりたいことは何か」は見えなかったものの

「文章を磨けば幸せになれる」

この言葉にピンときました。

大学生の時に見つけた「伝える力は、どんな仕事でも必要」という言葉とリンクし、もしかしたら「書く」ことは自分に合うことなのかもしれない、と感じました。
昔から直感で生きることが多かったので、今回もそれに従ってみることに。

3ヶ月ほど「想いを伝えるための文章力アップ講座」に通い、当時は主流であったFacebookの、有料コミュニティへ毎週文章を投稿していきます。

ただただ、夢中でした。

粗削りではありますが、少しずつ上手くなっていくことが自分でも分かりましたし、何より「書く」ことが楽しくて!どんどんのめり込んでいきました。

そして、当時お世話になっていた師匠の助言のもと、Ameba blog(略してアメブロ)の毎日更新をスタートすることになります。

反応を得るためにトゲのあるプロフィールを作り、書く内容も、今で言う「炎上覚悟」系のものでした。予想通り反応は増えていき、時にはトレンド入りすることもあったのは嬉しかったです。でも、書かれるコメントは否定的なものがほとんど。

元々持っていた「書くことが楽しい」気持ちが削れ
「私、何がしたいんだろう‥」と、心がどんどん陰っていきました。

そして87記事目で更新ストップ。(以前100日で閉鎖、とツイートしましたが少し足りなかったです。スミマセン)

その後、一旦文章からは離れることになります。


時は過ぎて、社会人9年目の29歳。2018年10月のこと。
「今の会社でキャリアを作っていくのか?でも何か物足りないな」と、欝々とする日々を過ごしていました。

そんな矢先のこと、大切な人が体調を崩し、入院することになりました。
元気だと思っていたのに、日に日に状況は悪化します。
そして医師から告げられた「もって3週間でしょうか‥」の言葉。

突然の余命宣告、急転直下の出来事でした。

「何が起こったのかが分からない」ってこういうことなんだな‥と。

壁にかかった時計の針の音だけが鳴り響いていたこと、今でも鮮明に覚えています。

ずっと一緒にいたのに。これからも一緒にいられると思ったのに。
深い悲しみに襲われると、涙も出ないものです。ただただ、呆然としていました。

10月が過ぎ、11月になって。

2018年11月15日。何となくの"ザワザワ感”を覚え、会社を早退し病院へ。
到着したのは18時頃。病室には誰もいなくて、とても静かな空間でした。

ただ目を見て、一緒に過ごす時間。何よりも尊かったです。
スヤスヤと寝ていた彼。じっと見つめているうちに、パッと見開いた瞳。
そして天使のような笑顔。この世のものとは思えないくらい、それは美しいものでした。

まさに、永遠の一瞬。

そして、そっと目を閉じて。
その後は目を覚ますことなく。翌日、帰らぬ人となりました。

この体験を踏まえて「後悔のない人生を生きよう」と心から誓いました。

そして29歳の冬。「新たな一歩を踏み出そう」と2回目の転職にチャレンジすることに決めました。

転職エージェント経由で1社、どうしても入りたい会社を発見し「運命だ!」と感じたものの、あえなく書類選考で落選。ですが次の瞬間、「どうしても入りたくて、何とか面接までいけないか」とアドバイザーに依頼している自分がいました。

志望動機を書くことで再考します、というお言葉を頂き、熟考の末に提出。
そして何とか通過し、面接では「是非うちに来てください」と言われ、ずっと憧れだった会社への入社が決まりました。

⑨HSPとの出会い。2回目のメンタルダウンを経て‥?

社会人9年目の30歳のとき、2回目の転職を果たしました。

前述の通り、憧れの会社です。「給料も高く、副業もOK!ここでキャリアを積めば、きっと間違いなし」と、銀行で総合職に転換したときくらい、心は躍っていました。

でも、ここでも悲劇が起きます。

法人営業なので、もちろん商談の場に行くことが何度もあります。いつも上司と一緒に行くのですが、どうしても、その場の「空気感」が辛くて‥。
誰も怒っている訳ではないのに、なぜか責められているような感覚に陥ってしまいます。
ただ、先輩に相談するも「ももちゃんが気にしすぎなだけだよ」と一蹴されてばかり。

「そうですよね~」と納得したフリをするも、心の中はモヤモヤでした。
「私、ちょっと変なのかな?」と、何時間も思い詰めることもありました。
思えば昔から、ピリピリした雰囲気が苦手で。大きな音も怖かったな、と。

また、こんなこともありました。

その会社はフリーアドレス(※社員それぞれが持つ個人専用のデスクがなく、自由に着く席を選べるスタイルのこと)だったのですが、その時の場所選びにも一苦労。

あまり人と一緒にいることが好きでなかったため、少し離れた位置に座ろうにも「そこじゃダメだよ。みんなで話さないとコミュニケーションとれないから」と言われ、ちょっとな‥と思いつつも、人が集まっている席へしぶしぶ移動、なんてことも。

自分の席がないことが、何となく自分の「居場所」がないような感覚がしてしまい、更にモヤモヤは溜まる一方でした。

加えて、当時の上司が商談中も、面談中も、打合せ中もゲームをする姿を見て「憧れの会社に入ったのに、ここでもやっぱりダメだったのかな」と、心の闇がどんどん深まっていきました。

一方で、クライアントからは気に入っていただき
「ももさんの丁寧な対応にとても助かっています」というお言葉を節々で頂き「少しお役に立ててるんだな」と、ほっこりすることも。

そんな矛盾した感情を抱きながら、メンタルはどんどん蝕まれていきました。

銀行時代のような過労・パワハラはないけれど‥未経験の業界、業務。
関わる人が多すぎるのが、とにかく辛かったです。

明日の商談が怖いな。不安だな。大丈夫かな。
何かトラブルを起こして、迷惑をかけたらどうしよう。
自分がいない方が良いんじゃないか。急に予定が変更にならないかな。

特に日曜夜にこう思うことが増え、ひどい時には朝5時まで眠れないこともありました。

耐えかね「生きづらい」で検索したところ、画面に「HSP」という言葉が出ました。

これは何だろう‥?と見たとき、以下が書かれていました。

<HSPとは>
【Depth of processing】考え方が複雑で、深く考えてから行動する
・一を聞いて、十のことを想像し、考えられる能力がある
・調べ物をはじめると深く掘り下げ、その知識の広さを周りに驚かれる
・お世辞や嘲笑をすぐに見抜いてしまう
・物事を始めるまでにあれこれ考え、時間がかかる
・その場限りの快楽よりも、生き方や哲学的なものごとに興味があり、浅い人間や話が嫌い

【Overstimulation】刺激に敏感で疲れやすい
・人混みや大きな音、騒音が苦手
・友達との時間は楽しいものの、気疲れしやすく帰宅すると、どっと疲労している
・映画や音楽、テレビ番組、本などの芸術作品に感動して泣く
・人の些細な言葉に傷つき、いつまでも忘れられない
・些細なことに過剰なほど驚いてしまう

【Empathy and emotional responsiveness】人の気持ちに振り回されやすく、共感しやすい
・人が怒られていると自分のことのように感じ、傷ついたり、お腹が痛くなったりする
・悲しい映画や本などの登場人物に感情移入し、号泣する
・人のちょっとした仕草、目線、声音などに敏感で、機嫌や思っていることがわかる
・言葉を話せない幼児や動物の気持ちも察することができる

【Sensitivity to subtleties】あらゆる感覚がするどい
・冷蔵庫の機械音や時計の音が気になってしまうほど聴覚が敏感である
・強い光や日光のまぶしさなどが苦手
・近くにいる人の口臭やタバコの臭いで気分が悪くなる
・カフェインや添加物に敏感に反応してしまう
・肌着のタグなどチクチクする素材が我慢できないほど気になる
・第六感がはたらき、よく当たる

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)とは?~HSPはうつ病になりやすい!?~

この全てが自分に当てはまり「これだ!」と深く納得しました。

HSPと自覚してから、自分の”得意”が分かってきたため、少しずつ仕事も軌道に乗り始めました。そんな明るい気持ちで2019年を終え、迎えた2020年。「ここから仕事頑張ってみようかな」そう思っていた矢先のこと‥

新型コロナウイルスの感染が広がり始めました。

2020年1月15日に最初の感染者が確認された後、2月からは、感染が拡大する一方。

納品予定だったサービスも、ことごとくキャンセルになります。新体制になった4月はいよいよ出社禁止となり、フルリモートワークへ突入しました。

「会社に行かなくていいから楽だな」最初はそう思っていた私ですが、予想外にその”変化”に堪えました。仕事をしようにも、集中できない。会社でできたことが、家ではできない。
圧しかかる営業目標が怖くて、また、朝5時まで眠れなくなりました。

HSPと自覚する前から「会社に行きたくない」と思っていた自分。
自覚してから、少し復活したように見えたものの、またダメになってしまった。

そう、完全にメンタルダウンでした。

5月、体調不良を理由に、1日会社をお休みすることに。
その日は社内の営業会議があったのですが‥仕事のことを考えるのが、どうしても無理な自分がいました。

そして昼からお気に入りのカフェに行き、紙に想いを綴ってみました。

「良い会社だけど、辛い」
「みんな良い人だけど、自分が出せていない」
「もっと頑張らなければいけないのに、頑張れない」

そんな言葉が並び「この環境に居続けるのは、難しいな」と、まず納得しました。
でも、次のことも考えないといけません。これからどうしたら‥?と考えたとき。

偶然、マナブさん
「嫌な仕事から逃げたいなら、すぐに逃げよう【過去の僕は逃げました】」
という動画を発見しました。

見た瞬間「これだ!」と思いました。
まずはプライドを捨てて一旦逃げて「休みながら今後のことを考えよう」と決意。

翌日上司へ、退職を伝えました。


⑩3回目の転職活動。運命を変えたTwitter

退職を伝えたものの、その時は特に転職先は決まっていませんでした。
周囲からも「ちょっと頭を冷やした方がいいんじゃない?」と言われる始末。それもそうです。条件が抜群に良い会社だったので。でも‥完全に心が離れていました。

やむなく、5月末より転職活動を開始しました。

活動の軸ですが「マーケティング職」に絞ることに決めました。マナブさんの動画をあれこれ見た結果、仕事として「マーケティングの将来性」を強く感じたからです。

ですが、コロナ禍・未経験・30代という三重苦。そのため「プロに見てもらおう」と思い、YouTubeで人気のメガネ転職コンサル池田さんの有料相談へ申し込み、早々に面談をすることに。

面談当日、一通り話し終えた後、池田さんから「僕から1つ提案があるのですが‥」とお話を頂きました。何でしょう?とお聞きしたところ

「ももさん、Twitterってご存じですか?もし良ければ、始めてみませんか?
 職務経歴書を見ましたが、文章書くの得意なのではないでしょうか。
 それにマーケティング職を目指すなら、勉強としてもオススメですよ」

池田さんの金言を信じ、2020年6月17日に初代アカウントをスタートしました。試しに「転職活動の様子」を中心にして、1日2~3ツイートしてみることに。

すると「転職活動を頑張ります!」という内容の初ツイートに対し、「共感します、頑張ってください!」というリプを頂きました。これが嬉しかった!
「Twitter=誹謗中傷」のイメージが解け「何てステキな世界なんだ」と没頭していきました。

その一方で、転職活動は全く上手くいかず、ことごとく落ちていきました。
「今後どうしようかな」と途方に暮れる日々を過ごし「ももさんのスキルでは難しいです」と、エージェントからも見放されてしまい‥絶望でした。

そんな中でもTwitterでの発信は継続。

「今回の面接は落ちてしまったけど、諦めない」
「今と未来に目を向けて挑戦していきます」
「ピンチはチャンス」

毎日のようにこんな言葉を書き連ねていました。(今思えば不憫。涙)

するとある日、一通のDMが届きます。
かねてからファンで、リプを何通かお送りしていた、
松本淳さんからのものでした。

「ももさん、リプありがとうございました。転職活動中なのですね?(中略)転職紹介もやっています。もしよろしければご相談に乗れるかもしれません。ご希望でしたらぜひ!」

その後、一度Zoomで面談をし「全力でサポートするので、納得のいくまで頑張りましょうね!」と、力強いお言葉を頂きました。

そして8月末に退職。その時はどこからも内定は頂いてなかったものの、「きっと大丈夫」と思える自分がいました。いつも傍で支えて下さった、池田さんと松本さんのおかげです。

そして縁あって、9月初めに松本さんからご紹介いただいた、今の会社から内定を頂きました。

なお、この初代Twitterアカウントは内定が出る前日に更新を停止しています。

理由は2つで 

1.自分らしい発信ではなかったこと
2.転職活動が終わりそうで必要がなくなったこと

特に1の理由が大きかったです。

きっかけは、9月6日に、尊敬するせらさんかなさんのサンクチュアリ出版社講演会に参加したこと。

その際「在り方」の大切さについて、お話をされていたことがとても印象に残りました。当時の自分のアカウントは、とにかく機械的な運用だったので、耳が痛かったです。

まさに「自分らしくない発信活動」そのもの。
2018年にアメブロでブロガーをしていたときと少しかぶります。
なので、一旦Twitterから離れる決意を固めました。

当時このアカウントで最後に発したメッセージが以下です。

「【ご報告】Twitterから離れます。セミナーを受ける中で自分の在り方・魅せ方に迷いが生じ、文章が作れない自分がいます。そのため自分の夢や強み、Twitterの目的を考え直したいと思いました。申し訳ございませんが、時間を下さい。(以下略)」

ですが、心の中で1つ決めていました。

「世界観を創り上げた上で、必ずTwitterに戻ってこよう」と。


⑪2代目「もも」アカウントの始動

11月入社が決まったため、2ヶ月ほど無職の期間を過ごしていました。
仕事をしばらく休むことはあったものの「無職」は初めてです。

せっかくの「人生の夏休み」なので、憧れの沖縄へ行きました。
そしてホテルから見た朝日の美しさに衝撃を受けます。

「この朝日を見るために、今まで生きてきたのかな」

そう思えるくらいキラキラしていて、思わず涙が溢れました。

そして「毎日感動する人生を送りたい」
強く思うきっかけにもなりました。今でもこれは、夢の1つです。

その夢を実現させるために「自分ができることは何か」を考えました。
もちろんまずは転職して、しっかり自分の力をつけること。

でもゆくゆくは「PC1つさえあれば、いつでもどこでも仕事ができる自分になっていたい」とも思いました。そのためにできることとして、パッと頭に浮かんだのがTwitterとblog。

もう少し時間はかかるかもしれないけれど、Twitterを再開しよう。
次第にblogも始めていこう。文章を書くことが好きだから、この気持ちを活かしていこう。改めて決意しました。

そして11月から今の会社へ仲間入りします。最初は仕事に慣れるのが必死で(今もですが‥)Twitterどころではありませんでした。

そして2020年が終わり、2021年になります。
元々は1月にTwitterを再開する!と数名に宣言していたものの、一向に決まらない発信軸に悩みあぐねていました。
そんな中、Twitterのタイムラインをじーっと眺めていると

「トラウマこそ武器」

どなたが発した言葉かは分かりかねるのですが、スッと目に入ってきました。

読み込んでいくと、つまりはこういうことです。

・トラウマやコンプレックスなど、弱みには必ずニーズがある。
・なぜならそれはみんなの悩みであり、解決策を探しているから。
・だから強みではなく弱みをどんどん発信していこう。

パッと道が拓いた気がしました。

ジェットコースターのような人生を歩んできた自分。負の経験は山ほどある。そんな自分だからこそ、発せる言葉があるのではないか。

1月のとある週末。姉と話しながら、コンプレックスリストを作成してみました。気づけば50個を超えていて「こんなにあるのか!」と舌を巻きつつも、これって何が原因なのだろう‥?と紐解いていきました。

そして、30歳の時に出会った「HSP」が関係しているのでは、という考えに行きつきます。そこで改めて「HSP」を調べてみることに。見れば見るほど、悩んでいる方がいる事実に気づきました。

上記をもとに、以下の仮説を設計。

「コンプレックスだらけの30代女性。”HSP”という気質を持っている。医師から”自閉傾向”と言われたこともある。この気質は一見ネガティブに捉えられがち。でも”HSP”を宝物にしながら、楽しく生きる様子を発信すれば、少なからずニーズがあるのでは?」

正直、成功するのか失敗するのかは分かりませんでしたが、「その女性」が発信するであろう内容は、少なくとも過去悩んでいた自分が、心の底から読みたいものでありました。

なので発信する相手も「26歳の時の自分」に固定し、自分が欲しかった情報・言葉・想いを鮮やかに表現していこう、と決めました。

それからは早かったですね。誕生日である3月6日の誕生花はデイジーです。特に黄色のデイジーには「ありのままで」という意味があることから、テーマカラーは”柔らかな黄色”に決定しました。

アイコンもヘッダーもこだわりました。
とにかくこのアカウントに来た時に「ほっとする」と思っていただけるように、温かく、癒しのある世界観を創り上げていきました。

そしてついに3月1日。ももアカウントの始動です。


⑫Twitterで夢は叶う!8.5ヶ月で1万フォロワー様達成

本アカウント。ありがたいことに順調にフォロワー様が増えていきました。
理由としては、以下3つが明確だったからと考えています。

①誰に
②何を
③どんな世界観で

また始動する前に、尊敬するおでんさんの書籍もお読みし、ある程度の戦略を立てていたことも功を奏しました。
※多くのインフルエンサーの方に応援いただいたことも、かなり大きかったです‥!

そして何より「等身大の自分」で発信できることが楽でした。
前のアカウントは、ひたすらに前向きな発信ばかりだったので、ツイートを作ることが辛かったなって。

でも現実の自分は、大して取り柄もないし、すぐ落ち込むし、コンプレックスのオンパレード。だけど「この自分だからこそ」どんどん人生が楽しくなっている。

弱みももれなく開示して「平凡な32歳OLのリアル」を余すことなく表現していきました。つまり「ダメな自分で良い」と思えたことが吉だったなと。

その中で、1つ決めていたことがありました。
それは「毎日1ツイートすること」です。

これまで「瞬間風速的」に頑張ることはできるけれど、“ひたすらにコツコツ続ける”という経験をしていない自分がいました。

なのでTwitterで「継続力」をつけていこう、と考えました。
毎日書いていくけれど、本当に書くことがなかったら「今日は内容が思いつかず、書けませんでした」と素直に書こう、と。
とにかく続けて「自分を少しずつでも変えていきたい!」その一心です。

5月終わりからは、せらさんの3ヶ月Twitter講座「巻き込み力講座」の0期生として学ばせていただきました。
土曜22時に、5名の仲間+せらさんと対話する時間が楽しくて「Twitterを続けていこう!」というモチベーションにつながりました。

そして、本アカウントを開始して5ヶ月目のとき、
ついに1つの夢が叶いました。

この時のフォロワー様は約3,500名。
他にも素敵なアカウントがあふれている中で、お声がけいただいたことが本当に嬉しかったです。

「想うは招くって本当だ」と感じた瞬間でした。

※講演会は3月5日(土)14時より、サンクチュアリ出版様のセミナールームにて開催いたしました!
→視聴はこちら
→講演前のインタビュー動画はこちら

それからもコツコツと発信し、こんなツイートができるまでに成長しました。

そして繰り返しになりますが、11月15日に念願の1万フォロワー様を達成。

私のTwitter運用は独特です。自分の気質上「マイペースに進めていきたい」という欲が強いため、予約投稿もなければ、投稿時間もバラつきばかり。いわゆる「テクニック」というものは、ほぼ皆無なので「不思議な運用ですね」と言われることもしばしばです。

ですがその中で、沢山の方に応援いただき「ももさんのファンです」とお話される方も増えてきているこの状況。

ずっと自分を責め続ける人生だったので、本当に嬉しいです。

自分の発信を通じて「誰か1人を救いたい」その想いが少しでも届いたなら、これほどに光栄なことはありません。

これからもこの「在り方」を胸に、心のコンパスに従いながら、ただひたすらに発信を続けていきます。そして自分と沢山の大切な方の「夢」を叶える存在でありたいです。

私の旅はまだまだ続きますので、ぜひ見届けてください♡


⑬「今楽しく過ごせている”7つの秘訣”」とは

私の32年間の歩みはいかがでしたでしょうか。
ジェットコースターのような日々でしたが、今は幸せに過ごせています。

その秘訣は何なのか?自分なりに7つのポイントを挙げてみました。

1.人へ助けを求め、自己開示できたこと
2.自分の”直感”を信じて動いたこと
3.「どんな経験も財産になる」と強く思っていること
4.徹底的に自己分析をしたこと
5.「HSP」という存在に出会ったこと
6.嫌な環境からはすぐに逃げたこと
7.Twitterで発信をしたこと


1.人へ助けを求め、自己開示できたこと

私は幼い頃からネガティブな体験を数多くしてきました。
ですが、辛い目にあいながらも、その度に様々な方から助けられてきました。

人は決して1人で生きていけるものではありません。
自分にできることは限られているし、生きていると苦難はつきものです。
そんな時に下手なプライドを捨てて「お願い、助けて」声を上げることができるのか。
そして「自分ってこんなに弱いんだ」と自分を”開く”ことができるのか。

ここで大きな違いが出てくるのかなと感じます。

2.自分の”直感”を信じて動いたこと

本文の中で、いくつか直感で動いたシーンがあったかと思います。
大学時代には「伝える力は、どんな仕事でも必要」という言葉でアルバイトを決めて、就職先も何となく見ていたCMで決め、更にはTwitterも紹介され何となくスタート。

人間の直感って意外とあたるものです。特に私は「HSP」という気質上、その感覚が敏感であると自覚しています。

生きる上でもちろん考えることも大切ですよ。私も普段はじっくり考えて、根拠は論拠は‥と掘り下げるタイプなので。ですが「ピン」と来た時は、それに従うようにしています。

なぜならその直感は、無数の思考によって生まれたものだから。

3.「どんな経験も財産になる」と強く思っていること

色々ありすぎた人生でしたが、今ではその全てに感謝しています。
汚い言葉を投げかけられて、人生を終えようとしたその経験すらも、です。
ネガティブな経験をした人ほど、深い価値観を持てるから。

ふと周りを見てみても「魅力的だな」と感じる方は、ほぼ例外なく強烈な体験をされていますね。そして話を聞けば聞くほど、その方に興味が出て、もっと知りたくなる。

現に私も、過去のネガティブな経験を発信したときに「励まされました」とリプや引用RT、DMを頂くことが多いです。

辛いことも苦しいことも、全てを糧にして武器にしよう!と思えたら良いですよね。そして「悩める方のために役立てよう」と気持ちを切り替えることができたなら、“それ”はかけがえのない宝物になること、間違いなしです。


4.徹底的に自己分析をしたこと

本アカウントを始める前、徹底的に自分と向き合いました。
あらゆる自己分析の本を読み漁り、診断テストも複数回しています。
知能テストを受けて、自分の強みも探りました。(結果、自閉傾向と診断)

自分のことは、意外にも分かっていないものです。
なので家族との対話も積極的に行いました。

かつてどんな子供だったのか、どのように成長して、今はどんな印象を持っているのか。得意、不得意。好き、嫌いは何なのか。
その1つ1つの輪郭を明らかにしていくことで「自分」への理解を重ねていきました。

コンプレックスリストを作ったのもその一環です。
Twitterの発信軸を決めるという目的はありましたが、「自分のことを知りたい」という想いの方が強かったです。

コンプレックスからは弱みが見えるもの。それに落胆するのではなく、冷静に見ることが大切。捉え方次第でいかようにもポジティブ転換できるので、その意識を持っていきたいです。

5.「HSP」という存在に出会い、正しく理解したこと

これはかなり大きかったです。30年間何となく感じていた生きづらさ。でもそれを言語化することはできませんでした。ですが、あの時何となく調べて、この言葉に出会えたことに感謝しています。

控えめに言って、人生が大きく変わったと言っても過言ではありません。

決して鬱病ではないけれど、モヤモヤ感が残るのはこういうことだったのか。深く納得できましたし、人口の1/5がHSPという事実も知ることができました。

正しく理解をしなければ「嫌なもの」と捉えられがちなこの気質ですが、逆にきちんと分かれば「何て素晴らしい気質なんだろう」と思えます。

今こちらを読んで下さっているあなたも、またその周りにいらっしゃる大切な方も。もしかしたらHSP気質かもしれません。
それを悪い方に捉えるのではなく、まずは出会えたことに感謝し、その良さを徹底的に見つめていくこと。そして活かそうと努力をすること。

ただそれだけで、見違えるように人生は輝くものになると確信しています。

6.嫌な環境からはすぐに逃げたこと

「2.自分の”直感”を信じて動いたこと」にも通じますが、私はとにかくすぐに逃げます。
高校時代はチアリーディングから逃げ、社会人になっても、新卒の会社から逃げ、アメブロから逃げ、3社目からも逃げました。

でも逃げた先に広がる世界は、桃源郷でした。

人生で「逃げる」という選択肢をとるのは、勇気ある行為だと私は考えています。なぜなら必ず誰かに否定されるし、何より「頑張ってみよう」と決意した自分を裏切る行為でもあるから。

ですが、そんな自分を心から褒めてあげたいと思いますし「逃げた先の選択を正解にしたい」とも強く感じています。

人生は失敗ばかり。今の私だって、失敗のオンパレードです。でも本当にダメだったら戦略的撤退をして、また新しく始めれば良い。工夫すれば上手くいきそうなら、華麗に方向転換をすれば良い。

「今」に固執する必要なんて、全くないのです。悪いストレスを抱えることは辛いので、嫌な環境からは早めに逃げましょう。

7.Twitterで発信活動をしたこと

最後はやはり、これに尽きます。私が初代アカウントでTwitterを始めたのは31歳。当時若い方が台頭していたので、そんな中で混ざるのには抵抗もありました。

その時は「Twitter運用のイロハ」が分かっていなかったので、今思えば恥ずかしくなるほどの失敗も重ねましたが、全て、この「ももアカウント」に活かされているなと感じます。

加えて初代アカウントでは松本さんのご尽力で転職先も見つかりました。

今の「ももアカウント」では、サンクチュアリ出版様からの講演会オファーだけでなく、企業からのPR案件やSNSコンサル案件、セミナー依頼や書籍執筆、サロン発足のお話など、無限に可能性が広がる日々を過ごしています。

例え粗削りでも、Twitterで発信をすることで得られる価値は無限大だなと感じますし、これからも、自身の「想い」「在り方」を発信することで

「HSPで楽しく生きる」
「転職で未来をハッピーに」
「何歳からでも遅くない」   

を証明していきます♡


⑭最後に”大切なあなた”へ伝えたいこと

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

そんなあなたへ、私からお願いがあります。

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(@momo__hspでメンションをつけていただけると嬉しいです)

頂いた引用RTへは、読んだ上で全てコメントをお返しさせていただきます。

また、ここからは希望する方限定の特典です。

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⑤④が確認できた方の中で10名に「30分間Zoomで直接お話」をプレゼント

是非「お話してみたい!」という方がいらっしゃいましたら、お待ちしております♡

(※本特典は応募者多数により、2021年12月31日に終了いたしました!沢山のご応募、誠にありがとうございました。)

繰り返しになりますが、長くお付き合いいただき、ありがとうございました。

このnoteが、”大切なあなた”にとって、少しでもお役立てできるものでありますように。

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