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【高校野球の思い出】1982年夏の神奈川県予選にて【お題応募】

野球の話を何か書きたいな、と思い我がヤクルトのネタを探していたところ、noteで高校野球のお題が出ていたので、簡単に自分の高校時代の話をしてみようと思う。

おいらにとって、高校野球は「完全にテレビで観戦するだけ」のものだった。子供時代を過ごした1970年代も神奈川は強い高校が多く、その中で東海大相模の原(今は巨人で監督をやっているあの人だ)のようにアイドル的な選手もいて、彼が3年の時だったかなぁ、友達に誘われて一度だけ保土ヶ谷球場まで行き、ストライプのユニフォームに身を包んだ選手たちを見た。それで、おお、本当にテレビのまんまの恰好でやるんだな、と妙な感心をした。横浜市民だとはいえ、恥ずかしいほどの田舎者だったのだ、おいらはw

試合が始まり、何か飲もうと買いにいくと、球場内にはチェリオしかなかったことを強烈に覚えている。まぁ、瓶がデカいからいいっかぁ、と変なところで妥協した記憶もある。
しかも、そうして買ったグレープ味を飲み終わる前に、東海大相模はコールドで試合を終えていて、時間をかけてえっちらおっちら山を上り球場まで来たというのに、もういなくなっちゃうの?と拍子抜けもした。あの年の東海大相模は、原だけでなく津末(彼も後に日ハムでプレイする)や左腕投手の村中といった超高校級選手が揃っていて、別格の強さを誇っていたのだ。
そうそう、応援団があの有名な校歌(東海大相模はワルツなのだ。かなり珍しいのではないか?)を演奏していて、おや?なんか音が外れてるぜ?とか友達と笑ったような気がする。もちろん、左手にはまだチェリオの瓶を持っていたままだったw

で、高校に入り、とんんでもない1年生投手がいる、という話がすぐに校内で噂になっていた。当時、神奈川は横浜の愛甲がダントツの存在で、実際に彼はその年の夏の甲子園で優勝までしてしまうのだが、その同級生も才能的には愛甲にも匹敵する左腕だ、と言われ、徐々に県内でも有名な存在になっていった。
2年になり、クラス替えで驚いた。ずっと注目してきたその投手が、おいらの教室にいたからだ。後にパ・リーグの新人王を獲得することになる阿波野秀幸と、卒業するまでの2年間をクラスメイトとして過ごすことになった、さすがにあの時は興奮したものだ。

とはいえ、野球部は練習試合や遠征もあったので、阿波野たちが毎日学校に来ているわけではなかった。だが、授業にしっかり出席している時は何かと話をする機会があり、正直おいらはその都度ときめいてしまったwやはり一芸に秀でている人間はオーラが違う、というかスターの佇まいとはこういうものか、ということを随所で思い知らされた。
有名だが、だからといってそれを鼻にかけることもなく、野球以外の話も気さくにこなしながら、勉強も真面目にやる優等生でもあり、で非の打ちどころのない男だった。
体育の授業でソフトボールをやればとんでもない飛距離の打球を放つし、左なのにショートを守ってグラブトスも華麗にキメてしまう。一挙手一投足に拍手が起きるという有様だった。運動神経は明らかに高校生のそれではなかった。

教室で覚えているのは、掃除の班が一緒になったことだ。まぁ、たいていは箒やちりとりで遊ぶだけだったが、一度ふざけて阿波野に「投げる球を捕らせて欲しい」とお願いしたことがある。彼は笑って頷き、捨てにいくはずのわら半紙を丸め、ボールを作った。おいらはそれを見て、教室の後ろで捕手のようにしゃがんで構えた。右打者のインコース低めを想定して左手をかざすと、彼はひょいとボールを投げた。微動だしないおいらの左手に、ボールが吸い込まれた。これにはさすがに驚いた。大投手の片鱗を見せつけられた思いだった。
「タダノ、うまいじゃん。なんで野球部に入らないの?」
阿波野にそう声をかけられて、おいらは顔面が真っ赤になり、目を彼から逸らした。もう、ときめきを飛び越えて、恋をする乙女な多々野親父になっていたからだw

3年になり、最後の夏の大会が始まった。おいらは毎試合応援に向かった。学校は保土ヶ谷球場のすぐ側にあるのに、なぜか試合は大和の引地台球場だったりと、いちいち電車やバスで移動が必要なクジ運の悪さもあったが、それでも我が野球部は勝ち進み、教室では冗談半分で言っていた「甲子園へ連れていってくれ」という願いが、どんどん現実になっていくように思えた。

だが、4回戦で敗退となってしまった。場所が、今は亡き川崎球場(確かサッカーJ1の川崎フロンターレ関連の練習場になっているはず)だとわかった時、何となくあんな狭いところで大丈夫か?と心配になったのだが、その予感めいたものが当たってしまった、という感じだった。
試合が終わったものの、名残惜しくて応援団が何度も応援歌や校歌を演奏しているのを聞いていると、バックスクリーン下の扉が開いて、夜から試合をするロッテの面々がグラウンドに入ってきた。リー兄弟や落合たちがぞろぞろと広がっていきながら、1塁側スタンドでまだ歌っている高校生たちを「何やってんの?」という感じで見ていた様子が、今も記憶に残っている。みんな、本気で優勝できると思っていたんだよなぁ・・・、


1982年夏 神奈川大会4回戦 日大 2-1 桜丘
https://baseball-memories.jp/archives/31724


惜しい試合だった。だが、打てないチームだったので、同点とされた後のじりじりと追い詰められていく感じがたまらなかった。あんな気持ちで野球を見ていたのも、あの試合が最後だったなぁ、と思う。
ちなみに、うちに勝った日大高は決勝まで進んだ。もし川崎球場で誰かがタイムリーを打てていれば、という気持ちにもなったものの、勝って甲子園行を決めたのは法政二高だった。神奈川は漫画「ドカベン」でも言われていたように、出場校が日本で一番多く、最も甲子園が遠い県だと言われていた。東京のように、東西に分けてくれれば1つ試合が少なくなるのに・・・、教室で友達と本気になって議論したことも懐かしい。うちが出る為には神奈川公立代表と私立代表で、なんてバカなことを言っていたものだ。

卒業式の終わった後、春休みになってから受験関係の書類をもらおうと高校へ行った時、なぜか校門のところで阿波野に会った。声をかけられ、浪人が決まって成績証明書が必要になったんだ、といったようなことを話した後、阿波野にプロでも投げるの?と尋ねた。微妙な話題なので教室では聞けなかったのだが、いくつかの球団が阿波野の練習を見に来ているという噂を聞いていたからだ。
彼は大学でも投げてチャンスがあれば、と笑っていたが、行く先がないおいらには、その笑顔がとにかくまぶしかった。
「神宮かな?応援に行くよ」
と言うと、彼は一言
「おう」
と言った。
高校時代、という言葉を目にすると、今でもぼんやりとあの時の校門を思い出す。まだ桜は咲いていなかったが、嫌になるほど明るく晴れた春の午後のことだった。

#高校野球の思い出

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