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その嫌いは思い込み

人が怖いと思ったのはいつからだろう。人に対して執拗に意識を向けてしまうようになったのはいつからだろう。人ごみを避けてできるだけ人のいない方を選択するようになったのはいつからだろう。


小さい頃はできないことはできるように、好き嫌いはしないように、そう教えられてきた。しかしいつからか苦手なものや嫌いなものを避けるようになってきた。きっとそれは人間の本能的なものだろう。苦手なものを避けて、嫌いなものを排除して好きなもの、得意なことを選択するようになっていく。私も本能に従って嫌いなものを避け続けて生きてきた。

私は人間が嫌いだ。

そう思うようになったのはつい最近のことかもしれない。今までずっと心の中にはあったが、それを声に出すことも文字にすることもできなかった。多分それは、人間である自分自身を否定していることになるからだろう。私は人間が嫌いだが、残念ながら私も人間だ。本当は違う生物だとか、未確認生物だとか思い込んでいても私はどっからどう見ても人間で、この世界で生きている。大嫌いな人間と一緒に人間の力を借りながら楽しく平和に生きている。

私は昔から人ごみが嫌いだった。だから学校の一つの教室に詰め込まれた空間が苦痛だった。小学校は通学途中のお墓の土手で、中学校は使わなくなった第二図書室で、いつも本を読んでいた。誰も私を見ていない環境は心地よかった。人の噂話やくだらないマウントでしか自分の価値を評価できない人間を心の中で軽蔑しながら表面上だけで取り繕いながら学校生活を送っていた。でも最近、小さな変化があった。本当に少しだけ、人間が嫌いじゃなくなったのだ。ここで好きになったとはまだかけないが、本当に少しだけ嫌いじゃなくなった。大きく、こんな出来事があったとか、何かをしてもらったとかそんなことではなく、純粋に人間があまり怖くなくなった。なぜだろうとここ最近ずっと考えている。確実に「これだ」という答えはまだ出ていないが私なりの考えは少しだけまとまった。


私はどうして人間が嫌いだったのだろうか。その答えは明白だ。人間は汚いからだ。嘘をついて人を平気で傷つけて壊していく。そんなものばかり見ていると人間が心底大嫌いになっていく。でも逆から見たらどうだろう。人間が傷つけているのもまた人間だ。傷ついているのも傷つけているのも私が大嫌いな同じ人間だ。では人間には良い人間と悪い人間がいるのだろうか。良い人間は傷つけられる人間で悪い人間は傷つける人間か。果たしてそれは正しいのか。良い人間はどうして傷つけられているのか。悪い人間はどうして傷つけているのか。何も知らない外から見ている人が選別して悪いものを排除しようとする。その外野が傷つけている悪い人間をまた傷つける。ああこれだ。私はこれが嫌いだったんだ。これが嫌だったんだ。この世界は良い人だと思っていた人が回り巡って誰かから見たら極悪人だったりする。それは仕方がないのかもしれない。一人一人にそれぞれの思いがあってそれぞれの正義がある。だから視点によっては良くも悪くもなる。だから嘘をついても人を傷つけても、人を殺したとしても仕方がないかもしれない。そんな世界なのかもしれないな、この世界は。



私は人間が嫌いだ。大嫌いだ。でも、少しだけ視点を変えたら、人間が大好きに見える角度もある。この人は悪人だ。そう思っていた人が別の視点から、立場から見たら善人に見えるかもしれない。自分の中の好きとか嫌いとかの感情はきっと思い込みで、小さなものだ。嫌いなものは好きになる必要はないし、苦手なことは得意になる必要もない。でも、別の視点から見てみたらもしかしたら少しだけ違って見えるかもしれない。この世界は何かを嫌って避けて生きるよりも好きなものに囲まれて生きていく方がずっと生きやすい。思い込みは変えられる。少しの機転と想像力で、いとも簡単に。

#思い込みが変わったこと

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