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ASDのチャンヌの特性と困りごと

こんにちは。チャンヌです。
前回は、ASDグレーの診断がついたチャンヌでしたが、いやこれグレーじゃないだろって思っている、というお話でした。

実際の診断はどうであれ、バリバリのASDだと思って接してもらったほうが理解してもらいやすいと思うので、るいさんもチャンヌももうASDってことにしています。

ASDと言えど、特性がどう出るかは人それぞれ。
今回は実際にチャンヌにどんな特性があり、どう困っているかのお話です。

共感が難しい

ASDの特性として有名な、「共感が苦手」。
「こういうことが求められているのだな」というのは、これまで蓄積したデータを分析することにより理解できるようになってきましたが、求められていることを実際に行動に移すのはすごく難しい作業です。

共感の重要性を理解していない理由として、

・自分があまり共感されたことがない
好きなことや考え方、行動パターンが常に少数派で、多くの人と一緒に関わったりすることがなかったので「それわかる!」とか言われたことがあんまりないです。

ゆえに、人は人に共感し、されることで絆を深めていくというコミュニケーションの構築方法を知りませんでした。


・人は人、私は私の感覚が強い
人が気持ちを同じくできることなんてありえない。と、言ってしまえば身も蓋もない考え方の持ち主です。
「あなたはそういう考えの持ち主なんだね、わかったよ」「あなたは今そういう気持ちになっているんだね、わかったよ」ができれば十分だと考えています。

チャンヌの中に共感というものがあるとするなら、これが自分なりの「共感」です。共感的理解と言うものでしょうかね。
人の気持ちと完全に同じく思えない以上、簡単に「わかるよ」とは言えないという感覚もあります。

ただ、最近わかってきたことは、100あるうち100同じ気持ちにはなれなくても、20とか30とか、部分的に気持ちが「わかるよ」という意味で「わかるよ〜」というフレーズをもって共感とする場合が一般的には多いということです。

・共感してもらえることをそんなに欲していない
いや、「わかるよ」って言ってもらえたら嬉しいんです。
仲間ができた気がするし、自分を理解してもらえて嬉しいって気持ちにはなるのです。だから、共感が大事なんだってこともすごくよく理解しているつもりです。

でも、共感っていうのは自分から求めるものではなく、たまたま得られたときにラッキー!ありがとう~!やった〜!って思うくらいのもので、そもそも自分が共感してもらえると期待していないのですね。

感情より理論

感情をそれほど重要視していません。なぜなら、感情はその時々で変化するからです。

信号が赤になれば停まり、青になれば進む。そういった、普遍的な法則性を何事にも求めたくなるので、他人の感情もそうだし、自分の感情も後回しにしてしまいます。

自分の感情を後回しにする分にはさほど他人に迷惑はかけないのですが、他人の感情を後回しにしてしまうと迷惑をかけてしまいます。
共感ができず、事実や理論ばかりに着目してしまうということになるのですね。
結果「私の気持ちをわかってくれない」と思わせてしまって、悲しませてしまうことになるのです。決して悲しませたくないし、気持ちを理解したいという思いはすごくあるのだけど、どうしても共感を示す行動ができない。そのことに自分自身もとても困ります。

何度も何度も修正しようと、本を読んだり動画で勉強したりして、頭では共感の仕方がわかるようになってきました。
しかし、その時になると頭の中が真っ白になり、何も言葉が浮かばないのです。

なので、共感性の強いるいさんが日頃人にどんなふうに共感を示しているのかを観察し、データとして残して真似するようにしています。

こだわりが強い

自分にはこだわりなんてなくて、とても柔軟な考えの持ち主だと思っていました。
実際に柔軟な考えを持っている部分もあると思うんですが、人から見るとこだわりが強いところがあるようです。

例えば、自分がどう在り、どう生きるかに非常に重きを置いて生きており、自分なりの美学のようなものが強いです。

それから外れることは許すことができず、どうしても「自分がこう在りたい」に忠実にいたいと思っています。

また、生き方に限らず「こんなふうにしたい」と思ったらそれが大変なことであってもどうしてもやり通したくなります。

例えば毎日野菜をたくさん作った料理を作りたい、と思っていたとして、「今日は野菜のメニューが少ない」とか「全体的に献立が茶色い」など、自分の中の基準を満たしていないととても不満に思って落ち込みます。

忙しい日や疲れている日はあるわけで、少しくらい野菜がなくたって普段からそこそこに食べられていればいいはずなのに、それはわかっているのに、どうしても許せません。完璧主義とも言い換えられるのかもしれないですね。どうでもいいとこはこの上なく適当なのですが。

言葉通りに受け取る

誰かの言った言葉をそのままに受け取ってしまいます。
よくカップルの喧嘩にある「もういい!」は、「そっか!もういいんだね!じゃあ、この話は終わりね!」と思って本当に終わらせてしまいます。

でも、相手の態度を見ていたら全然「もういい!」な感じしないけどなぁ…。本当にもういいのかなぁ、でももういいって言ったのだから、いいのだろう!という具合。

言葉と意味合いは必ずしも同じにならないということをここ1年ほどで知り、おったまげてます。まるで外国語!

Aと言えばAという意味だと思っていたのですが、Aと言って実はBという意味だということがあるってことですよね。Aという言葉はAとしか習ってないし辞書にも書かれていないのに、なぜBという意味になるのかわかる人がいるのでしょうか。すごすぎません!?

曖昧な表現が理解できない

「ちょっと」「多めに」「適当に」「ちゃんと」など、どれもわかりませんし、指示の中で使う場合はなんなら不親切な表現だとすら感じてしまいます。

でもこういう表現は日常の中でよくでてくるので、「多めと言うと、何文字くらいでしょうか?」とか、「早めにとのことですが、いつくらいまでのイメージですか?」などと、必ず数字で確認しておくようにしています。 

家での会話としては、るいさんが「時々お魚も食べたいなぁ」と言ったとき、「時々」がどれくらいの頻度のことなのかわからず「時々ってどれくらい?週2回くらい?3回くらい?」と聞いたりしました。

るいさん的には別に週何回、とか決めて言ってるわけじゃないんでしょうけど、目安として週何回、というイメージで言っているというのがわからないと不安です。

だって、るいさんの「時々」と、チャンヌの「時々」が同じだとは限らないから。そして、チャンヌは時々お魚を出してるつもりでも、るいさんからしたら「お魚少ないなぁ」というふうに、「時々」の定義のズレによりすれ違いが起きたら嫌なのです。

そして、だいたい週2回くらいかなぁと言われれば、その週2回は何が何でも守らないと!と思ってしまうのがまたこだわりの強さです。強迫観念にも近いかもしれない。

判断基準がないとわからない

「判断基準を教えて」とよく言います。
こんな時はこうして良い、こんな時はダメ、そういった判断基準がないと、自分がやっていることが正しいのか正しくないのかわかりません。 自分は人の気分を害することをすると常に危機感を抱いているので、自分がしていることが正しいかわからないのです。

毎度毎度「これでいいかな?」と聞くのも、理解できていない自分が嫌なので、聞かずとも自分で理解し、判断ができるようになりたいのです。そうなると、判断基準をシッカリと持つしかなくなります。
 
でも難しいのは、物事の判断基準というのは必ずしも固定ではなく、場合により変化することもあるわけで。じゃあそれは判断基準じゃないじゃないか!という風になり混乱。

物事には突き詰めればたいていの場合法則性があり(または、法則性を見出すことができる)、それに加えて例外もあり、その例外にもまたある程度の法則性があると思っているので、それを求めたくなるのですが、相手からしたら単純にうっとうしいだろうなと思います。

理論的な喋り方がウザい

チャンヌが自分の中で一番気に入っているところは、理論的なところです。
自分の中の感情に大きく左右されず、システマチックに物事を解釈して解決に導こうとするところが好きなのですが、こういう部分がウザいと思わせるところもあるようです。熟語を使ったりすることが多いし、堅苦しい感じがして冷淡なイメージを持たせるのかもしれません。
(例えば「考える」を「考慮する」とか言ったり)

全て、自分と周りの平和のため、幸せのために理論的に考え、解決策を見出すことをしているつもりなのですが、人をイラつかせることもあるようです。どうしてででしょうか。
「冷静は平和を作る」と本気で思ってるんだけどなぁ。

感情表現が苦手

そもそも感情にあまり起伏がないタイプなので、大きく感情を表現することが苦手です。
仕事は別。なんかスイッチが入るというか、まぁ俳優みたいなところはあるよね。まぁ謂うたら演技です。いかに大きく褒めるかとか、そういうスキルとしての感情表現はできます。

そもそも自分の感情を表現する必要性というものをあまり感じていませんでした。
ありがとう、ごめんなさい、嬉しかったよなど、言葉で表せれば十分で、それ以上にどうやって感情を表すというのだろうと思っていました。

るいさんからしたら、チャンヌは何を考えているかわからないと言われるのですが、何も考えてません(笑)。もしかしたら何か考えてたり感じてたりするのかもしれないけれど、自分の感情に鈍感なので、よくわからないんよな…というのが本音。喜怒哀楽はだいたいわかるけど、細かい感情まではわからん。だから表現不能です。ってことなんです。

これも感覚過敏?なのかな?

ASDの人によくあると言われる感覚過敏。
音に敏感だったり光に敏感だったりなど、色んな感覚過敏があるようですね。

チャンヌは音には少し敏感程度で、わざわざ感覚過敏というほどではないと思います。
最近これは感覚過敏のひとつなのではないかと思っているのが、「ネガティブな空気感」への過敏さです。本に載っているような「触覚過敏」「聴覚過敏」などと並列には書かれていませんが、チャンヌ的にはこれは感覚過敏のひとつではないかなと思ったりしています。

人の放つオーラが少しでも不穏になろうもんなら、ものすごく恐怖感を感じてしまいます。誰しも「あ、今この人テンション上がってないな」「機嫌良くないんだな」と気づくことってあると思うんですけど、これがチャンヌは異様に過敏なのです。相手がネガティブな気持ちを隠していてもわかってしまうことも多いです。

チャンヌが関係ないことで不穏な空気が流れていたのだとしても、怖くてたまらなくなります。その人が怖いとかではなく、空気感が怖いというか。

でも人間誰しも嫌な思いをしている瞬間やなんだかテンションが上がらない時って普通にあるわけで。この過敏さがあるのは、人と暮らすことに困難をもたらすなぁと思っています。チャンヌが困っていることの中で、一番大きな問題です。

こんな本をご紹介いただきました


Twitterのフォロワーさんから、こんな本をご紹介いただきました!
発達障害というのは、男性と女性で特性が異なる部分も多いらしいのですね。
図解やイラストも多く、サラサラッと読めそうです。

チャンヌも現在読み進めています!

ちなみに来週は、診断が下りて以来初のクリニックの診察です。
何を話すか、まとめておかないと多分何も話せず終わるので、話すべき内容をるいさんと話し合っておこうと思います。
(自分では「これは重要ではないな」と思って話さなかったことが、実は重要だったということがあるので、るいさんのアドバイスもきいてみようと思うのです)

それではまた次回!

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