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流れに身を任せること㉝

断食施設にきて半分の日が過ぎようとしていた。
ゆっくりと流れる時間の中で、意外といいリズムで動いていく。
調度いいくらいすることがあり、合間に身体を休め、何も急ぐことなく一日の自分が決めた予定の為に動く。 理想的な時間の使い方。
日常に戻ったら、ここまでの時間作りは難しいだろうから、ここにいる間に少しでも、この感覚を身体や感覚に記憶させておきたい気持ちだった。

6日目が過ぎる頃には2度目の好転反応。また辛い症状だ。とにかく痛い。身体も頭も引き裂かれそうな痛み。熱っぽくてふらふらする。だけど一度体験すると、不思議と大丈夫だっていう感覚だけはある。2回目は素直にいただいていた漢方薬を飲んだ。すると1回目に比べるとかなり症状は緩和されて、この時は眠る事が出来た。

身体と心は本当に繋がっていて、こうなると感情の浄化も起こってくるわけだけど、何もかもが痛くて、我慢強くないのに我慢して、自分をいたわらずほったらかしにしてきたことが身体の痛み度合いでよく見えた。

寝て、大量の汗をかいて、トイレにも何度も行って朝になるとすっきりしていた。毒を入れるのはとても簡単だけど、出すのは本当に至難の業。
分かっていても何度も繰り返すこの生活習慣。
すぐに断ち切ることは難しいけど、もう限界ラインを超えて、身体が壊れたので、今後の人生は、常に意識しながら生きる必要がある。

自暴自棄になって自分の身体を痛めつける癖。
私の場合は暴飲暴食だ。やたらとケミカルなもので腹を満たす。
空虚な気分や満足感を胃の中をいっぱいにすることで埋めていく。
愛がゼロの状態。 もともと食べるのが遅くて、胃腸も常に調子悪くて痩せていた子だった。

見た目は健康的で、食べることが大好きだけど、それとは別に詰め込むように食べ過ぎる日は、完全なる隠れ摂食障害だったんだろう。吐く行為は自分が辛すぎるのでやらなかった。だからみるみるうちに体重が増えた。過食が止まらない。酷い時は食べた後、息ができないので、しばらく横たわっているしかない時もあったり。そんな自分を誰にも知られたくなかった。

何をやっていても、誰といてもどこへ行っても満たされない空虚な感覚。
好きな事やって、自由にやって来たでしょう!と言われていたが、現実から逃げていただけ、行っても行っても永遠に見つからない自分の居場所。見つけたと思ったら、その想いは幻ように消えてしまい。見たくなかった現実だけが自分の手元に残っては絶望する。

これをインドではおそらくマヤというのだろう。イル―ジョン(現実を誤って知覚することからくる、誰にでも起きる間違い。)誰かの為に都合の良い世界、偽善的な宗教、毎日の現実、全てがエゴで、自分を良く見せるために言い訳をする、特別な行動、行為をしてると思い自己満足に浸る。一般社会も精神世界も同じ穴の狢。人間の人生そのものがマヤなのだ。

子供の頃から全てにうんざりしながらも、大好きという純粋な心が、自分から溢れては深い傷を負っている感覚が蘇る。

探してるものは、どんなに素敵な場所に行ってもどこにもなくて。遠回りしたけど、結局はここに私の中にあったのだ。自分がどこにいようとも何をしていようとも、その瞬間のそれが全てだ。それがその時に必要な出来事であり、完全なる私であり、私の居場所であり、全ての瞬間が常にベストなんだ。

悲しみも怒りも喜びも絶望も好きも嫌いも、全てが人間として生きてる証。自然な事であり、あって当然の感情。どちらもあるから成り立っている。

何気ない毎日は、自分が何かに気づくためのヒントでいっぱいだ。時には自分のエゴや欲求とは真逆の、望まない体験が目の前に来るけど、それもまた自分の魂にとっては愛なのかもしれない。

そう思うと、どんな自分でも、今の私として存在できる一度きりの人生も愛おしく、尊い。

今日までの出来事も全てが、今日の私には大切な体験だった。人生そのものに無価値は存在せず、過去を否定する自分の存在もだんだん小さくなっていく。

もし、何かをやっていて、誰かと共にいて、これでないといけない、こうしなければ、これをやってないからダメなんだと劣等感を足りていない自分を感じてしまうなら、それは自分じゃない何かになる必要があるから、自分には合わない生き方や関係性を手放せずにいるだけ。

どの分野の社会にも、人の苦しみや良い悪いがあった方が、都合の良い人がたくさんいるから。

その何者かが決めた、お手本とされる基準に合わせて、自分は変だ、足りていないと思わされてしまう。

今回の浄化では、そうやって長年かけられていた魔法が溶けていくようだった。

それは社会や団体に限らず、個々の中にもある。私が病気になったのも恐らくそういった類いの理由に違いない。
だから、自分にとって表現できなかった気持ちや消化できない感情があって、それを証明する為に、訴える為に病んだ自分を作り上げてしまったのかもしれない。あの時から、そんな私を辞める必要があると感じていた。役を降りる。一抜けるみたいな感じ。

とはいえ、それは努力して頑張って変えていく必要はなくて、自分のすべてを受け入れる準備ができたら勝手に変わることでしょう。だから頑張りすぎないでと自分に言った。気楽にいこう。
もしも、変わらなくても、万が一、役が続いても良しとしよう。
とにかく今ある全てを否定しない。それだけ。

いつの間にか不安定でダサくて容量が悪くなって、余裕がなくて、ステイタスも何もなくて、世間についていけず、いわゆるいけてない私。すべての事が罪悪感に変わってしまって常に自分を責めるようになっていた。

自分が見てる自分がかなり悪印象で、何かや誰かの影響を受け、神経質な完璧主義者に変身していた。自分を全力で全否定すのはもう辞めにしよう。

そして自分に頑張ったねと声をかけて抱きしめる。

そうこうしているうちに、好転反応が抜けた次の日に、先生の診察が入った。昨日の身体の反応の事、漢方薬がとても助けになった事を色々話した。
やはり、この先生。私の感覚では会うだけで元気になるし、何を話しても親身に聞いてくれて批判しない、自分の優越感に浸らない。そんな感じだった。

すると、先生は私が初診で悩んでいたことを覚えてくれていて、ある西洋医学の先生を紹介してくれた。本人同士は面識はないし、この先生はきっと僕のような東洋医学や食事療法は嫌いだと思うけど、西洋の治療を受けるか受けないかを悩んでいるなら、この先生はかなりの数の癌患者さんを見ているし、論文もたくさん出されていて研究されているので、聞いてみてもいいかもしれないとのことだった。

別の分野で活躍していて、それぞれの活動が交わることはないが、すごくレスペクトを感じてしまい。その内容と初めて来てあまり知らない私の話したことを気に留めてくれていたことに、なんだか胸が温かくなり、その後も体質完全や必要事項を含め楽しい話で診察が終わった。

ただ、この日少しショックだったのは、水太りの私には最後の日まで、固形の食事ではなく玄米粥にしましょう。という話になった。
ガーン…。恒例の断食終了記念豪華懐石料理はおあずけになってしまったのだ。とほほ…。やっぱ食べるの好きなんだよ。

トボトボと部屋に帰り、早速その先生のホームページをみたり調べたりしてしてみた。色々な意見はあるみたいだけど、とにかく会ってみようと予約を入れた。ここから、帰宅してからちょうど10日後に予約が取れた。体調調整するには調度よい感じ。

残りの時間は、引き続きマッサージや散歩に温泉を楽しんで、とうとう帰宅の日がやってきた。まだまだ体調改善と体重を落とす必要はあるけど、10日でちょうど10kg減。心も体も来た時とは別人のように軽かった。
いつも不調な関節や腰も気にならないレベル。運動できないくらい悪くなっていたけど、軽くできそうな気持ち。

そして、子供達がグリーン車に乗りたいがために熱海まで迎えに来てくれるという。なんとも微笑ましい。
久々に会ったから、すっきりした私にビックリしていたが、そのくらい変化はあった。
ほどなく熱海を散歩して、軽く食事をして帰宅。
久しぶりに家族でミニ旅もできたし、行く前よりも気持ちが軽い。

家に着いたら、やはり心配していた水回りも期待を裏切らないほどに汚れていたけど、興奮してたからかその日はすごく元気だった。一通り掃除してお風呂に入って、ぐっすり眠った。そんな普通の事が幸せなひとときだった。行く前にできなかった事が、楽にできていることが嬉しかった。次の日は、早速やること山盛りで日常に戻ることで徐々に身体が戻ってしまうことも不安だったけど、確実に自分の気持ちや思考のパターンは変わってきていたので、それだけで見えてくる世界が違う気がしていた。

どうやら自分に必要な事が決まる時は、どんな状況下でも動きがあるみたいだ。
心配をよそにお金も時間も全て滞りなく用意もされていく。
思考は色々考えてしまうけど、この感覚を忘れないようにしたい。
これが最初で最後になろうとも、あの時に思い切って、あの場所に行けたことを今でも心から感謝している。


…続く



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