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「続ける」という仕事。

どうも。

ヒューマンビートボクサーのmomimaruです。

この度、noteを始めました。
理由としては、文章で自分の考えを発信する場が欲しかったのと、文章でしか伝えられないこともあるかと思ったからです。

簡単に自己紹介させて頂くと、
1996年生まれの乙女座A型。
岐阜県出身で岐阜県在住。
ハモネプを見てビートボックスを始めました。
歴は14年ほど。
2018年に公式大会で日本チャンピオンになりました。
2023年には別の団体でまた日本チャンピオンになりました。
ももクロ、ボイメン、WEST.、C&Kなど有名アーティストとの共演経験もあります。
ちょこちょこテレビにも出てます。
会社経営でビートボックスを事業にもしています。
令和の虎チャンネルに出演したこともあります。

結構すごいんですよ、僕wwww

JPN CUPという全国大会の主催者もやってます。
今はライブ出演やテレビ、ラジオ、YouTube、オンラインレッスン、ワークショップ、大会審査員なんかもやってます。

そんな僕はとある爆弾を抱えております。

一般に公開するのは初めてですが、

躁鬱とパニック障害で昨年末から通院しております。

一見、ビートボックスの成功者側に見える僕が、なぜ爆弾を抱えることになったのか。なぜ、カミングアウトしようと思ったのか。
お話ししたいと思います。


#1 -ビートボックスとの出会い。

はい。
まずはここからっすよね。

中学1年生の時でした。
思ったことをすぐ口にしてしまう僕は性格の悪い小デブでした。
昔からなーんか周りと馴染めないなあ。とよく感じることがありました。

ちゃんと検査してADHDと診断はされておりますww
前向きです🔥

クラスから孤立してしまい、辛い学生生活を送っておりました。
周りに理解されない、周りを理解したくてもできない。
人の気持ちなんて本当にわからない。
先生が何を言っているかさっぱりわからない。
2人以上に話しかけられると1人との対話すらもできなくなる。

学校に行かなくなってしまいました。

行くふりして、親が仕事行った頃を見計らって帰宅。ゲーム。
そんな毎日。
でも、不思議なもんで、多分同級生たちはそんなこと覚えてもなければ気にもしてなかったでしょう。
そんなもんなのかもしれない。

中学2年になった頃、何かやりたいことを探していた僕は、ふと、たまたまテレビでやっていた、ハモネプの企画の「ボイパリーグ」というものを観ました。
なんじゃこりゃ。衝撃を受けました。
みんな上手いのはもちろんでしたが、そんなことよりも、制服メガネオタクの青年がとんでもない(うますぎる)ビートボックスを披露していたからです。
「何これ、アニメに出てくるモブかと思わせてめちゃ強いやつのそれやん」
ナルトでいうロックリー的な。

こりゃもう厨二心をくすぐられましたよ。

「このオタクにできるなら俺にもできるだろ(めっちゃ失礼&本人公認)」

それが僕のビートボックスとの出会いでした。

まだ日本語対応されたばかりくらいの頃のYouTubeをとにかく漁りまくって、ビートボックスばかりの毎日を送っていました。
1日ってクソ長えなあと思っていた日々から、1日ってクソ短えなあって日々に変わりました。
めっちゃいいことですね。うん。

学校行くのも少し嫌じゃなくなりました。

その時の先生には本当に感謝してます。
いい先生でした。
大岩先生。ありがとう。

大岩先生が学級解散式で人前で披露するチャンスをくれてから僕のビートボクサーとしての人生が始まったのです。


#2 -人生最初の大失敗

僕は昔から絵を描くのが大好きでした。
絵めっちゃ上手いんですよ僕!!
めっちゃ賞とか取ってますからね!!

高校受験で僕はデザイン科の学校に行くことを決めました。

当時、特色化選抜という特殊な入試制度がありました。
学力ではなく特性で合否が出るという入試制度です。
自信がありました。

落ちました。。。。。

大雪で2時間遅刻しました。
遅刻したのは僕だけでした。

自信を無くしました。

本当に中学3年間はビートボックスに出会った事以外はなんも楽しくなかったです。クソでした✨(今は笑って言える)

二番目にやりたいこと(やってもいいかと思ったこと)ってことで、工業高校の機械科に進学しました。
まあそこそこ楽しい高校生活でした。結論から言うとね。

文化祭でビートボックスもやったし盛り上がったし!

でも、どのエピソードよりも一番心に残っているエピソードがあります。

テニス部だったんですけど、肘を怪我してやめてしまいました。
2年から新しく赴任してきたコーチ兼顧問がなかなかな人でした。
こちらは学ぶ意思がある、だけれど本当にうまいやつしか興味ない。
実績厨ってやつですね。大人になった今でも嫌いですwww
やめますと伝えれば「お前は裏切るのか?」と。
いやいや、肘怪我した時に助け求めた僕を突き放したのはそっちでしょう!!
まあ、どうせその先生はそんな事覚えてないんでしょうけど。

その後半年くらいなんもせず、フラフラ学校生活を送ってました。

そんな時、救世主登場!

美術部のおばちゃん先生!!
山本先生。ありがとう。

僕を美術部に引き込んでくれたんです。
冬休み期間中にデッサンも教えてくれました。
絵の基礎知識がない僕を鍛えてくれた恩師✨
マジ感謝卍

その先生が勧めてくれたのもあり、進学することを決意。
一度諦めたデザインの夢を再び追うために!
色々見学に行った結果、職業実践専門課程に認定されている専門学校に行くことを決めました。
AO入試万歳。

この先生に出会わなければ今の人生はないと言ってもいいくらい、本当にお世話になりました。そしてデザインの道を再び歩み出しました。


#3 -日本トッププレイヤーへの道

初めてのビートボックスイベントは2014年。
確か2月か3月頃に開かれた「関西流儀」の第一回大会。この時高校2年生。
画面の向こうで見ていたスター達、そして生で感じる音圧に終始圧倒されていました。

DAISAKUさんとの初対面!フィルターの師匠!

こんなに爆音なのか!低音の音圧に風を感じる・・・!

半端ない!!

一気にビートボックスに対する考え方が変わりました!
日本一になりたい!世界一になりたい!
こんなかっこいいビートボックスをやりたい!

一つのイベントが1人の青年の人生を動かしたんです。
自分の話なんですけど、これってまじすごくないですか???

そこからもうとにかくいろんなイベントに出まくりました!!
当時はまだ初心者向けの優しいイベントなんて存在しなかったので、ゴリゴリの大会ばかり出てました。
当時の僕はと言いますと、現場に出始めてから1年半で出場大会は5〜6くらい。
全て予選落ち。バトルも予選がないイベントで、1回だけ2回戦か3回戦まで行けたくらい。
バイトの給料全部それに突っ込んでたなあ。

話は戻って、専門学生になってからすぐ、JBCという全国大会の大阪予選に出場しました。今まで大会で成績はゼロ。果たして行けんのかもみまる!!
デザインの勉強に集中したい気持ちもあった為、僕は「これでダメなら現場出るのやめよう」と決めていました。
自分に十字架をかけておりました。

結果は・・・

大阪予選TOP4!!!!最終予選出場決定!!!!!

痩せていたmomimaru

嘘みたいでした。
まさか、俺なんかがこんな成績残せるなんて。

当時の僕を知ってる人たちなら分かると思います。
本当にパッとしないビートボクサーでした。

でも!とにかく夢と希望に満ち溢れていたというかwww

そっからの僕は止まりませんでした!
Boostという、今でいうB'みたいなバトルでA部門優勝!
JBC最終予選通過!!!本戦トーナメント出場決定!!!

夢じゃねえのか!?

俺、ビートボックスやめようと思ってたんだけど。
なんや、上手くいってしもうた。
そんな狐に摘まれたような変な感じでした。

一度、日本のトップに数えられたらその後はもう余裕っしょ!

って思ってました。


#4 -迷子

それから全国各地の色んなイベントに片っ端から出まくりました!
もう優勝実績欲しすぎて、行ける行ける〜って軽いノリで色々挑戦しました。
しかしまあ、人生そんなに上手くもいかないもので。。。

TATSUYAさんとGeneさん

当時のイベントは正直、今の時代より勝ち上がるのは簡単だったと思います。
理由はイベント数が今ほど多くなかったので、今の方がプレイヤーも経験値がたくさん積めるから。
技術の進化も勿論あります。

でも、日本トッププレイヤーの仲間入りしたはずの僕でしたが、2016年優勝ゼロ。JBC最終予選で落ち、僕のボーナスタイム終了。完全に心が折れました。

終わりました。ありえないくらい泣きましたし、ありえないくらい凹みました。

ビートボックス聴くのも嫌になりました。

あんま記憶ないくらいwww

でも、やっぱりビートボックス大好きで、この気持ちには嘘付けませんでした。
いっぱい仲間増えたし、仲間の活躍に嫉妬したし、後からシーンに入ってきた後輩にもたくさん負けた。

それでも。

タバコくさいライブハウスのエアコンが効いたあの空間で、あの全身が震える音圧を聴きながらワクワクするのが大好きで仕方なかったんだと思います。
また1から頑張ってみようと思いました。

2017年は専門学校を卒業して年商250億を超える大手アパレル製造会社に就職。(頑張った✨)
プライベートもビートボックスも全部頑張っちゃうぞ!!ってな感じでとにかくがむしゃらに!

社会人なりたて


ここからmomimaruの最強の音圧と音質、マイキングの修行が始まりました。
まずはTATSUAKIさんのビートボックスを分析しました。

あの人のマイクを通してない生音ってそんなに大きくないなあ。でもマイク通したらあんなバケモンみたいな音になるんだ???
何が他の人と違うんだ??
そればっかり考えていました。

そこで、考えた結果、僕は何を思ったのか。
「北海道に会いに行こう〜」
と決めました。

行った方が早いわ。直接観てこよう!そう思ったんです。
当時たっさんは現役日本チャンピオンで日本最強。
僕は関わりはゼロ。
しかもたっさんは・・・。
バトルでは他の人達と馴れ合いをしない為、印象は怖い。。。
嫌だなあ。怖いなああ。でも気になるなあ。

そんなことを考えながら札幌に到着。
Q5(キューファイブ)という北海道のバトルイベントに出場しました。

結果は2回戦でSHOW-GOに負けたらしい。

らしい。

そう。覚えていない。

なぜか?

怖いたっさんに話しかけに行くことができずチキってた僕は、お酒の力を借りたんです。その結果、一泊二日北海道に居たのに記憶が5時間分くらいしかない。

もったいねええええええ。

何しに行ったんだよwwww

まあそんなこんなで独学しかねえかあ。となってしまいました。
とりあえずスタジオ入るか。ってことで毎週末スタジオに入る日々が始まりました。とにかく色々試しました。めっちゃ研究して実験して。

そしてそして、2017年夏、JBC三度目の挑戦!
初の中部予選!つまり我が地元のエリア予選が開催されました!

進化を見せる時が来た!!!

そして、全試合延長戦の末、初代中部チャンピオンになりました!

2017年初代中部チャンピオン

本当にホッとした。
嬉しいよりホッとした。

ちなみに、この年のJBCはTOP4。
またトッププレイヤーとして戻ってくることができました。

ですが、ダメなんです。
僕の目標はもっともっと先。
日本チャンピオンよりももっと先。

だからこそまた悔しい思いをしました。

でも、その時の涙は一年前より乾くのが早かったですね。

2018年、僕は全てを変える年にすべく、未来予想図を作りました。
今年日本チャンピオンになる。
まず一番最初の目標です。


#5 -日本チャンピオン

JBCで優勝するために全てのネタを現場で調整するという大胆な計画を立てました。
つまり、1つのネタを作って調整するためだけに1つのバトルに出る。
まじでメンタルすり減らすようなやり方です。
でも、それで優勝できたらまた一つ目標に近づく。

覚悟ですね。

この挑戦のおかげて最強の音圧と音質とマイキングを手に入れました!

とある夜、僕は親友のビートボクサーDUB-OXと電話をしていました。
ビートボクサーの夢を語るなんて夜は珍しいもんじゃないんですが、小っ恥ずかしさもありつつ、熱く語っていました。

「今年は俺らでJBCの決勝をやろう。」

今年は96の年だ。

もう負けていられない。

僕らは住む地は違うし、歩んできた人生は違う。
ビートボックスやってなかったら友達にもなってない。
でも、今ビートボックスで繋がっている。
お互いがライバルと認め合い、親友として愛している。

絶対に実現させる。

俺の人生のモットーは有言実行。

さあ、戦いの時だ。

会場入りの時から不思議と緊張はあまりなく、なんなら落ち着いている。
なんなんだこの感覚。気持ち良いぞ。

そしてイベントが始まる。
そして勝ち進み、運命かの如く、決勝のカードは、

momimaru vs DUB-OX

俺らは決勝前に会場の裏で2人で話をしました。
ついに来たなあ。と。
勿論、2人とも、本当に決勝できるなんて。という言葉はなかったです。
実現するつもりでやってたんで。
当たり前。
あとはアツイもん見せるだけ。

そして。

俺は優勝し平成最後の日本チャンピオンになりました。

夢は追い続ければ叶うもの。これは本当にそう。
でも叶えるためには自分次第。なんでも上手くこなせる天才は本当にごく一部。
そんな天才すらも実は努力している。
やってるフリや努力してるつもりじゃなくて、まずは目標を決めること。

日本でまあそこそこうまいビートボクサーが一夜にして日本チャンピオンになったという事実。これ、僕はみんな日本チャンピオンになれると証明できたと思っています。

6年経ってもあの日のことははっきり覚えています。

良い日でした。

心からホッとしてました。


#6 -新たなスタート

日本一になって会社を退職しました。
少しは貯金もあったしビートボックスで食べていくのを目指してみたいなあと。
日本一になったんだから仕事も来るだろう!
そんな甘い考えをしていました。

ない!!仕事が来ない!!!

まさかのこれが現実でした。
少しのラジオとライブはありましたが、如何せんバトル以外の活動は皆無だったので頼れる人もおらず。
どうしようと。
本当に困った。

まだビートボックスも今みたいな波が来る前だったので、ボイパと言った方が伝わる世界線。
この魅力全然理解されない。
まじで困ったなあ。

自分で行動を起こすしかないと思い、とりあえずがむしゃらに動いてみました。

学校公演をやらせてもらうためにいろんな小学校や中学校にメールしたり、ライブハウスを回ったり。色々してみました。
名古屋の芸能プロダクションに所属してみたり、とにかく泥臭く。
武器は日本チャンピオンただ一つ。

なんとか活動を手に入れて少しずつ良い感じになってきた頃、

ついに!

ももいろクローバーZのワンマンライブへのゲスト出演の話が!!!!
アツイ!あーりん大好き!(そこじゃない)
とにかくこのチャンスをものにしたい!
そう思い出演決定!

クリスマス公演の大阪城ホールとさいたまスーパーアリーナ!
何万人の前でビートボックスできる!
ここに一緒に出演した中にTATSUAKIさんがおりました。
これを経てちょー仲良くなったんですよね。

これは本当に貴重な経験でした。

そしてこれからだっていう時にコロナ禍に突入してしまったんです。

このコロナ禍の直前に僕はとあるイベントをオーガナイズしました。

Ω-ANTHEMというショーケースのコンテストイベントです!

このイベントが今のシーンの核となるイベントでした。
この時のゲストに、

Fuga
HIRO
SHOW-GO
TATSUAKI
Keigo Inamoto
DUB-OX
RUSY

すごくないですか?
今の日本の最前線のメンバーばかり!
ここにプラスでRentaroも合わせてうちに一週間泊めていました。
みんな金なさすぎて家でテトリスやりまくったり語ったり。
楽しかった。

このメンバーがまさか今の日本のシーンの主要メンバーになるなんて。

この後、コロナによる緊急事態宣言が発令されることになりました。

発令される前にTATSUAKIさんから一つの連絡が来ました。

Ω-ANTHEM帰りの飛行機を一ヶ月間違えて取ってしまっていたから、

momimaruが北海道に行くか
たっさんが岐阜に行くか

僕が行くことにしました。

今度はね、怖いイメージないから良い北海道遠征にできるはず!

この北海道遠征が全てを変えるきっかけになったんです。


#7 -伝説の幕開け

北海道でFugaがボソッと言いました。

「RofuでYouTubeやろうと思うんだよね。HIKAKINさんってうまいじゃん?本当に上手いんか??っていう動画を作りたいんだよね」

俺は「良いじゃん!面白そう!良いなあ、俺もなんかやりたいんだよねー」と返すと続けてFugaが一言。

「え、もみ、教えるの上手いから教える人やったら良いじゃん」

はい、みなさんもうお分かりですよね?
僕らのYouTubeの型はここから始まったんです。
コロナだから何もしない。何もできない。じゃなくて、
”今できることをやってみる”
ここなんですよね。

とりあえず僕は講座動画を作ってみました。

・・・・。

え、むり。大変すぎる。死ぬ。

3本作って諦めてしまいました。
またアルバイト三昧。パチンコ行く。
何やってんだか。

そしてついにRofuは大バズり。
YouTubeの登録者をメキメキ伸ばしていき、今一番影響力のあるビートボクサー達になってしまいました。

やはり、ジェラシーを感じました。悔しい。

そんなある日、先輩ビートボクサーから電話がありました。
「momimaruの講座伸びてるじゃん!俺編集してやるからYouTubeやらん?」
パチンコの左打ちを止めて放心状態。
Rofuの影響で僕の最初に自分で作った講座動画が伸びていたんです。

知らんかった。

パチンコなんてしとる場合じゃない!!!!

すぐに動画を撮り始めました。
そして講座動画の影響もありオンラインレッスンの生徒をたくさん獲得して、ついにビートボックスで食べれるようになりました。

これがYouTubeを始めてから半年の出来事です。

そして結婚、JPN CUPという全国大会の主催、法人化、家を建てる、順に幸せの形を作り上げていき始めました。

#8 -病気との戦い


JPN CUP一回目が大成功し、ビートボックスにおけるコロナ禍を脱することに成功したんですが、僕は次なる目標「世界一」に向けて動き始めました。

GBBが日本で開催される。

これは絶対に掴みたいチャンス。
やるしかない。
この時僕の体に異変が起こり始めておりました。

JPN CUPの大規模主催
GBBへの挑戦
YouTube
オンラインレッスン

全部できるわけもなく、GBBへの出場権を賭けた新しい全国大会BEATCITY JAPANの一週間前に過労で倒れてしまいました。
まさか、自分が倒れるなんてあるわけないと思っていたからびっくりしました。

何とか少し回復し、BEATCITYに出場することができました。

身を削って練習していたからこそ僕は自信がありました。
いくら過労で倒れたとしても、チャンスを逃さないという事においては、この人生で死ぬほど経験してきていたから。

日本一をとってから5年。
ついにもう一度日本一に返り咲く時が・・・。

ついに二度目の日本一になり、GBBへの出場権を獲得しました。

日本人でGBBに出た人は本当に少なく、期待とプレッシャーからいつしか自分を見失うようになってしまいました。

GBBでは夢のような経験をできたと思っています。
世界TOP8入りを果たした事。
世界トッププレイヤーの仲間入りができた事。
そして、
自分が本当にやりたい事に気付けた事。

JPN CUPという全国大会を通して、ここでは言えないような沢山のものを得ました。そして失いました。失ったその中で一番大きかったのはお金と健康です。

JPN CUPの次の日、僕は空港で倒れました。
過換気症候群、いわゆる過呼吸です。
全てが限界でした。

自殺未遂もしました。
自分が自分じゃなくなる気がして。

家から出られなくなりました。

体が思うように動かなくなりました。

朝が来るのが怖い。

今何時なのか、何曜日なのか、
全くわからない。
知りたくもない。

死んでしまいたい。
そう思いました。


そんな時、助けてくれた仲間達がいました。

空港で救急車を呼んでくれたDUB-OX。
搬送先で僕が意識戻るまで一緒にいてくれたRentaro。
心配して連絡くれたFuga。
俺の気が済むまで長電話付き合ってくれたたっさん。
Rentaroと一緒にわざわざ岐阜まで遊びにきてくれたMONSTER。
車飛ばして会いにきてくれたWATARU。
今でも心配して生存確認してくれるT2さん。
他にもいっぱい!

俺はちゃんと愛されていたんだと。

本当に嬉しくなりました。

このシーンは仲間の死に敏感です。
同じ事が起きないようにと電話越しに涙を流してくれた友。

日本のビートボックスシーンは愛で溢れています。
むしろ愛で成り立ってるんです。
金じゃなくて愛なんです。

倒れてから1週間後、僕は病院に行きました。
躁鬱とパニック障害と診断されました。


#9 -愛

それから病気を治すための日々が始まりました。
最初、もう人前でパフォーマンス出来なくなるんじゃないかと不安で死にそうでした。でも、大丈夫でした!
そういえば俺は努力の天才だったこと忘れてました!
時間をかけて積み上げてきたコイツはそう簡単に崩れたりしませんでした。

もちろん、半年以上経った今でもまだ本調子には戻っていません。
GBBの頃と比べるとやっと75%くらい。

2024年の新しい目標ができました。

「幸せになること」

とあるビートボクサーの先輩が言っていました。

「俺は幸せなスターになりたい」

それ聞いて思いました。
僕はスターになれるようなカリスマ性はないけど、でも幸せにはなれるよなって!
みんなが憧れるビートボクサーであり続けたいよなって!
そう思うようになりました。

多分、日本で一番挫折したビートボクサーは僕だと思います。

日本で一番負けたビートボクサーは僕だと思います。

そして、日本で一番負けず嫌いなビートボクサーは僕だと思います。

僕が幸せになりたい一番の理由、それは家族のためです。
一番近くで支えてくれている人達のために、僕は今日も口からブッツカ音を出します。

僕がこの事を公表しようとした理由。
それは「続ける」ということが一番大切だと誰よりも知っているからです。
何の才能もなかった僕がビートボックスでキラキラしたステージに立ち続ける事ができるのは、続けたからです。
本当の友情とその価値をビートボックスを通して知る事ができた。
それをみんなに伝えたいからです。

ネガティブな理由でもうビートボックスやめるなんて言わないでほしい。
悩みなら何でも俺が聞きます。
強く、強く乗り越えるために。

好きな歌手の好きな歌に

「強くあるなら、弱くあること」

という歌詞があります。
僕の人生のもう一つのモットーです!
だから公表しました。

僕も乗り越えるために戦っています!
だから自分だけなんて思わないこと。

大好きな先輩や後輩や仲間達で、ビートボックスをやめてしまった人達はたくさんいます。

寂しいっす!!

日本一になることや世界一になることって別に偉くなんかないです!

「続ける」事が一番偉いんです!

大好きなことを大好きで居続ける、そんな幸せこそ選ぶべきなんです。

人生なんて「そういうことにしておく」くらいのノリで良いと思います!
そしたらやり直しなんて何回もできるじゃないですか!
全然かっこ悪くない!
何度も立ち上がるヒーロー!

一番かっこいいじゃないすか!

自分の正義を貫き通す!

だから僕はこれからも一生、
心は誰よりヒップホップで居続けます。

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