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【小説】 そしてまた一輪

 僕は頭がいい。有名な大学を出て、大手商社に勤めている。そこいらの奴とはレベルが違う。顔だって、今流行りの塩顔で、そこそこイケてる。女にだって苦労しない。僕は特別だ。
「特別だ」
 出勤途中、駅までのショートカットに通る公園の池のほとりに佇み、鈴森洋次は水面に映る自分を眺めていた。新調したばかりのスーツがよく似合っている。よし、今日もひと仕事するか、と鈴森が立ち去ろうとしたその時、親子連れが近くを通った。
「ママ、ママ! こっちに来て」
 少年の呼びかけに、母親らしき人物がこたえる。
「なあに」
「ねえ、これ! なんの花?」
 少年は池の淵に群生する花を指差していた。
「ああ、これはね、スイセンよ。綺麗ねえ」
 なんとなく、つられてスイセンに目をやった鈴森は、はて、と首を傾げた。この花の、いったいどこが綺麗というのだ。白と黄色の花弁を重たそうに傾げて、むしろ陰気な花に思われる。まったく、何でもかんでも矢鱈めっぽう綺麗だなんて言いやがって、と、白けた眼差しで見ていたところ、少年が「だっこ」といって両手を広げ、母親の抱擁を求めた。
「もう、甘えんぼさんね」
 少年の求めに応じて母親が少年を抱きすくめるのを見て、鈴森の背中に、冷たいものが走る。露骨に顔をしかめ、そのまま駅へと歩き去った。

 鈴森には、母親に甘えた記憶がない。母親は、いつも年子の兄を溺愛しており、そして兄は、愛される全てを持ち合わせていた。容姿、頭脳、人柄。どこをとってもかなわない。だから鈴森は、自分で自分を愛することに腐心した。
 自分を愛するためにしたこと、それは、兄の欠点を事細かにあげつらうことだった。始めのうちは、そうした兄の欠点を母親に報告してみたりもしたが、どうやら母から自分への嫌悪感が増すだけだ、ということに気がついてからは、己の心のうちに留めるだけとした。

 しかし鈴森にとっては、己を愛するためには己が特別でなければならなかった。そして己が特別であるためには兄は愚者でならねばならなかったし、ひいては社会全体が自分よりも劣った存在である必要があった。
 誰とも比べず、ただ、自分が特別である、というふうには思えなかった。とはいえ、社会全体よりも優れる、などというのは限りなく不可能なことであり、鈴森にとってそれは、つねに耐え難い虚無感をともなうものであった。

 そのため、少なくとも親しい人、とくに、愛しているとうそぶいて恋人関係になる女などには、自分がどれほど優れているかの証明をしてみせる必要があった。なにか思い通りにいかないことがあれば、徹底的に相手を糾弾し、蔑み、怒鳴りつけ、そうして、相手が反論しなくなったころ、いっときの恍惚感を得る。そのあとに彼女たちに優しくするのは、「いいなり」に成り下がらせてしまった彼女たちへの、一種、謝罪の儀式のようなものであった。

 それがどれほど、鈴森が鈴森自身を愛することに貢献していたかは、定かではない。恍惚感に向かってひた走り、必死に相手をコントロールした末に襲いくる虚無感に、名前などつけようもなかった。人間を相手にしていたはずなのに、うちのめした瞬間、それはもう人間ではなく、もののような存在になる。ものより優れていることを証明したところで、果たして自分は優れていると言えるのだろうか。滾々とこみ上げる焦燥感は、止まるどころか膨らみを増す一方であった。

 帰り道、鈴森はやはり、あの公園を通って、池のほとりで立ち止まる。枯れ葉もすべて吹きさらしたあとの、一月のことだった。なぜだろう、ことさら今日は、寒さが身にしみる。同僚の榊が、自分よりも先に社内表彰を受けたからだろうか。それとも、何度も引き止めた恋人がいよいよ他に恋人を作り、自分のもとを去るといって聞かなくなったせいだろうか。

 水面に映る自分の姿を、じっと見る。僕は、僕を愛している。他の誰よりも、素晴らしい、特別な僕を。
 冷たい風が水面を打つ。歪んだ自分の姿を見るのが何よりも辛かった。僕は、水面に映る僕を抱きしめてやることが出来ない。愛している。それ以上にきっと僕は、そこに映る僕自身を、助けたいと思っているのだろう。
『だっこ』
 それはちょうど、朝のあの光景のようであった。少年が母親に手を差しだしたみたいに、鈴森は、揺れる水面に両の手を差し出す。

 ―思えば僕は、自分で自分を愛することにしたあの日から、ひとから愛されない人生を送ってきたのだった。

 どぼん、という音が誰もいない公園に響いた。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!