【小説】 愛を守らなくちゃ

「あなたもあの人と同じ。笑顔が優しいおとこ」
 そう言ったら大輝くんは、宙を見つめてゆっくりと煙草を吐ききったあと、「一緒にしないでよ」と諦めたように笑った。

 23歳。男子大学生。
 彼にとって、34歳の私はいったい、どういう風に映っているのだろう。
「大学なんてつまらないところだよ」
そう言ってやさぐれたように煙草をつまみに酒を飲む彼だけど、私は知っている。あなた、大学の研究、とても頑張っているんでしょう。教授の推薦を受けて、行きたい企業からの内定も貰ったんですってね。

 前途有望。あなたの未来が輝いているのが見える。
 それに比べて、私ときたら。
 自分の限界を知って、体力の衰えも実感して、守りに入ってしまってる自分が分かる。それにもう、私に選べる余地のある未来なんてない。
 あの人と結婚してしまったから。

「ねえ。今日はあの人、何時に帰ってくるの」
 大輝くんが時計を気にする。
「今日は飲み会なんだって。だから今日中には帰ってこないんじゃないかな」
「ふうん。ねえ、もう一回、見せてごらん。ぶたれたとこ」
 そう言って、あの人に作られた私の腕の痣を、大輝くんが撫でる。
「酷いね。俺に、亜希さんが守れたらいいのに」
「無理よ。あの人は、きっと地の果てまで私を追ってくる。私を殺してでも逃さない。私があの人を殺すか、あの人が私を殺すか、二つに一つよ」
 私が言うと、大輝くんの腕を握る力が強くなった。
「亜希さんは死んじゃだめだよ。俺には亜希さんしかいないんだから」
そう言って、大輝くんは私にキスをする。

 おませさん。髭も酒も煙草も、つい最近20歳になったばかりの子のものとは思えない。いつからそうしていたの。あなたみたいな男性を、女がほっとくわけがないでしょう。私みたいな年上に、たくさん可愛がられてきたんでしょう。そうやって、全てを諦めたような顔をして、可愛い笑顔で笑いかけて。

「あの人も、昔はそう言ってたのよ」
「ねえ、だから一緒にしないでよ。俺は亜希さんのためなら何だってする。亜希さんを傷つけるくらいなら、死んだほうがましだ」
 そういって大輝くんは、煙草をもみ消し、いつもより強く私を押し倒した。
「ごめんね」
 怒らせてしまったかと少し怖かったけれど、大輝くんはいつも以上に優しく、私を抱いた。

 あの日、私と大輝くんは約束をした。
 二人で一緒に、どこか遠くへ逃げようと。どこか、誰も知らない場所でひっそりと暮らそう、と。

 私は、何度も拒んだ。あなたは未来のある身なのだから。一時の気の迷いでそんなことをしてはだめ。あなたはこれからの人なのだから。これから、私とは別の女性を見つけて、幸せになる未来が待ってるのだから。

 そう言ったけれど、大輝くんは聞き入れてはくれなかった。
「次のあの人の出張のとき、東京駅で待ち合わせしよう」

 そう言われて、私もどこかで嬉しかったのだ。
 あの人にぶたれては、優しくされる。その毎日から、救い出して欲しかった。きっと、大輝くんが言ってるように上手くはいかない。前途ある若者の未来を奪ってはいけない。大輝くんもきっと、本気で言ってるわけがない。そんなことも分かっていたけれど、それでも私は、嬉しかったのだ。

 だから、今こうして、東京駅の改札に立っている。大輝くんが来るのを、バカみたいに待っている。

 もし来なければ、私は一人ではどうする勇気も出ずに、来た道を戻るのだろう。そしてまた、あの人の怒りに怯える日々に戻る。

 期待してはいけない。大輝くんが、あんな約束のために、私のためにここに来るわけがない。若い子に弄ばれて、自分の惨めさを再確認して、いったい私はどうしたいんだろう。
 だけど、それが今の私に出来る、あの人への精一杯の抵抗だった。

画像1

 どれくらい待っただろう。
 大輝くんは現れた。ちょうど彼が改札を通るところだった。緊張しているのか、難しい顔をして、年齢以上に渋い顔を更に渋くさせていた。とても23歳には見えない。

「大輝くん」
 嬉しくて思わず駆け寄る私を見て、大輝くんの顔が柔らかくほころんだ。ぎゅうっ、と、私は大輝くんを、大輝くんは私を抱きしめる。

「亜希さん、来てくれてありがとう。だけど、俺はやっぱり、一緒には行けないや」
 耳元で、低く優しい声で、大輝くんがそう言った。
「えっ、どうして」
 思わず、身体を離して大輝くんの顔を見ようとする私に、大輝くんが「このまま聞いてて」と、私の身体を更に強く抱いた。

「どうしてって、亜希さんも言ってたでしょ?俺には未来があるって。あれから、考え直したんだ。自分の未来を大切にしようって。だから、ごめんね。もう、亜希さんに、俺のこと、汚されたくないんだよ」
 大輝くんはゆっくりそう言い終えて、私を抱きしめていた腕を解いた。

 分かっていたことなのに、こうして言われると辛かった。
「泣かないで。旅の手配はしておいたから。あの人の出張の間だけでも、旅行してきなよ。ね。俺からの最後の頼みだと思って。身体を休めておいでよ」
 私は、惨めさに泣きじゃくった。こんなふうにコケにされて、それでも、大輝くんの優しさにすがりたかった。
「そうね。そうよね。ありがとう。ごめんなさい、迷惑かけて」
「亜希さん。泣かないで。俺の笑顔を覚えててよ。俺、亜希さんのこと、本当に大好きだよ」
 そう言ってまた大輝くんは、渋い顔に見合わない、優しく可愛い顔で笑うのだった。

 一泊旅行の旅先は、箱根だった。
 東京から、およそ一時間半。新幹線に乗る時、大輝くんのような影を見た気がして、自分の欲の深さにため息がでた。忘れないと。バカな夢を見た自分がいけないのだから。大輝くんは何も悪くない。

 箱根に着いても、こんなことをして、あの人にバレたらとんでもないことになる、いやもうバレているのではないかという不安は常に心のどこかにあったものの、忘れかけていた世界の広さを、久しぶりに感じることが出来た。

 箱根の旅館で一人、ゆっくり温泉を堪能し、ゆっくりご飯を食べたころ。
 私のスマホが鳴った。
 心臓が早鐘を打つ。あの人だろうか。最後にしたメッセージのやり取りは、確か3時間前。なにか気に障るようなことでも言ってしまっただろうか。いや、でも、確か、返信を途絶えさせたのは向こうの方だ。

 知らない番号からだった。恐る恐る、電話に出る。
「愛知県警刑事部の山内です。常磐亜希さんですか?落ち着いて聞いてください。旦那様と思われる人物が、先ほど何者かに殺害されまして」
 私のスマホが、ゴンと鈍い音を立てて地面に落ちた。

 そこからは、電話の相手が何を言ったかほとんど覚えていない。
 ただ、「笑気ガスを吸わされたようで、遺体は笑っていた」という言葉と、大輝くんの最後の笑顔だけが、私の頭の中を行ったり来たりしていた。

(了)




【Side B】


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!