見出し画像

【小説】 なにもできない

「母さん、棺桶作ろうと思ってるんだけど」
 ながらく引きこもりをしている俺の部屋のドアのむこうで、母さんが言った。御年六十二歳。棺桶を作るには少し早いんじゃないか、と俺は言った。
「だけど、うちには父親もいないし、もし母さんが死んだとしても、どうせあんた一人じゃどうにも出来ないでしょう。せいぜい死体の横で途方に暮れるのがおちよ」
 そう言われて俺はカッとなった。俺がなんにも出来ないなんて、馬鹿にしたこと言いやがって。誰のせいでこうなったと思ってるんだ。俺は無言で、ドアに向かってゲームのコントローラーを投げつけた。

 その日から、リビングでカンカンと板に釘を打ち付ける音が鳴り響いた。もちろんそれは俺の部屋まで届き、四六時中、俺の精神を苛んだ。ヘッドホンをつけ、大音量でゲームの音を聞く。それでも、甲高い金属音は一定のリズムを持ってヘッドホンの中にまで侵入してくるのだった。やりきれなくなって俺は部屋の壁を殴った。うるせえ、との怒号つきで。これまでは、そうやって部屋で暴れれば、母さんが俺の顔色を伺いに部屋の前まで来て、「ごめんね」と言って去るのだが、どうしたことか今回は「ごめんね」どころか金槌の音すら止む気配がなかった。
「いい加減にしろ!」
 怒りが頂点に達した俺は、もう何年も顔を出したことのなかった昼間のリビングに怒鳴り込みに行った。明るい日差しの中のリビングは、母さんが寝静まってから徘徊するいつものリビングとはまるで別物だった。
 母さんは、テレビの前に置いてある机をどけて、薄くて大きい木の板に一生けんめい釘を打ち付けていた。大工さながら捻りハチマキを頭に巻き、暑くもない室内で汗だくになって作業する母さんは、何か悪いものでも取り憑いてしまったのかと思えるほど真剣な、鬼気迫る表情をしていた。
「おい! おい! やめろ! 頭がおかしいのか?!」
 金槌を振りかざす手をむんずと掴む。そこで初めて母さんは俺の存在に気がついたようで、「あら、手伝いに来てくれたの?」とにっこり笑った。その笑顔があまりにも自然で、だからこそ俺の背中には何か冷たいものが通り過ぎた。
「母さん、なにかあったのか」
 こうして、まともに母さんの顔を見るのは何年ぶりだろう。リビングよりも久しぶりだった。皺とシミが増え、以前は染めていたはずの髪の毛も今や真っ白で、長らく手入れがされていないようだった。記憶にある母さんの体よりも、ひとまわり、いやふたまわりほど小さくなっていた。
「なにかって? ああもう、棺桶を作るのがこんなに大変だなんて知らなかった。ほら、あんたも手伝って」
 予想だにしなかった母親の姿を見て、ショックなのか何なのか、差し出されるがまま俺は金槌を受け取るしかなかった。

 その日から、母さんと俺の奇妙な棺桶づくりの毎日がスタートした。死体の重さを支えられるとは思えない薄さの木の板に、懸命に釘を打ち込む。引きこもりで体力のない俺と、昔の面影はどこへやら、ふざけてるのかと思うほどに力のない母さんにとってはそれが精一杯だった。とうぜん、近所の人から苦情が来た。そのたびに母さんが小さくなってすみませんと頭を下げ続ける。それでも、母さんが棺桶作りをやめることはなかった。蝶番で蓋を取り付け、ようやく箱らしい形が出来上がったところで母さんが言った。
「綺麗な布を貼りたい」
 そうして引っ張り出してきたのは、どぎついショッキングピンクのサテン布だった。それをボンドで貼るのだという。
「ウソだろ。よりにもよって、なんでこんなふざけた色なんだよ」
「そりゃ、あんたを励ますためよ。どうせ母さんが死んだらあんたは子どもみたいにビービー泣くんでしょうし、これくらい明るい色じゃないと元気もでないでしょ。それに、覚えてる? あんた子どものころ、ショッキングピンクが大好きだったのよ」
 それから、母さんの口から次から次へと思い出話が語られた。大切なキャラクターのぬいぐるみを失くして、日が暮れた真っ暗な公園を二人で探し回ったこと。幼稚園に行くのが嫌で、母さんと自分の靴を隠したこと。母さんのハンバーグが大好きだと言っていたが実はそれは冷凍食品であったこと。ジャキジャキと布を裁断しながら、母さんは俺の幼いころの話を滔々と語り続けた。そして俺は、その殆どを覚えていなかった。
「俺が覚えているのは」
「え?」
「俺が覚えているのは、中学でいじめられて学校に行きたくないと言った俺に、『情けない』と言った母さんのセリフだよ」
 ジャキ、という音が止まる。
「…ごめんね」
 裁断バサミを持つ右手が震えていた。
「ずっと謝ろうと思ってたんだけど。言おう言おうと思って言えないまま、今日まで来ちゃった。ごめんね」
「遅えよ、いまさら」
 俺は母さんの手からハサミを取り上げた。どうにもならないのだ、いまさら。ザクザクと布を切っていく。
「贖罪のつもりで、あんたのことずっと守ろうと思って、今日ここまできたんだけど。それもただのエゴだったんだろうね」
 そうだね、とも、そうじゃないとも言えず、俺は黙り込んだ。ただ布を切る音だけが静かなリビングに響き渡る。
「まっ。だから最後くらいね、立つ鳥跡を濁さずってことで、あんたに迷惑かからないようにさ。もし母さんが死んでも、この棺桶に入れてくれればいいから。楽なもんでしょ」
 それから二人で、黙々と布を板に貼り付けた。バカみたいな色をした、バカみたいにガタガタの棺桶は、二日後に出来上がった。棺桶を作るという執念を燃やし尽くした母さんは、憑き物が落ちたかのように穏やかな表情になっていた。
「手伝ってくれてありがとう。今日はお寿司を頼んでお祝いしよう」

 それから一週間後に、母さんは亡くなった。末期の癌だったらしい。すべての手を尽くし、残すはどう最期を迎えるか、という段まできていたそうだ。母さんが死んで、あらゆる手続きをするまで、俺はなにも知らされていなかった。
「…えぇーっと。これですか? 故人のために使いたい棺桶って」
リビングの中央に陣取った、ショッキングピンクに光る棺桶を見て、わざわざ出張ってきてくれた葬儀屋が困惑の色を見せた。こころなしか、口の端が笑っている。
「はい、それです。よろしくお願いします」
 あのとき母さんと一緒になって作った棺桶は、それがあったおかげで母さんの死後の手続きが楽になるなんてことは微塵もなかったし、そしてそれはきっと、母さんだって端から分かっていたことだろう。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!