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【小説】 子は鎹

 「子は鎹(かすがい)」とはよく言ったものだ。
 物心がついた頃から、僕は鎹だった。

 鎹。それは、二つの材木をつなぐ、コの字型のくぎ。父と母をつなぐ釘。それが僕。両親には、「鎹としての役割を全うしなさい」そう、何度言われたことかわからない。


 僕は鎹なので、伝書鳩になった。
 「ねえ、明日って遅くなるんだっけ」聞こえているはずの母の言葉に、父は反応しない。だから、僕がもう一度尋ねる。「父さん、明日は遅くなるの」すると父さんは答えるのだ。「なるよ」と。それをまた僕は、父の声が聞こえているはずの母に伝える。「遅くなるみたい」。「また!?いったいどこの女とほっつき歩いてんのかしらね。まあ、そんな甲斐性もないでしょうけど」と、あざ笑うように放つ母の言葉が分からなくて、僕は途方に暮れる。これは、伝書鳩が伝えるべきこと?伝えるべきでないこと?
 どうしよう、と固まる僕に目もくれず、立ち上がった父が無言でリビングを後にする。取り残された僕に、母は機嫌良く話しかける。まるで、さっきまでの不機嫌が嘘だったかのように。


 僕は鎹なので、道化師になった。
 静かに張り詰めた、夜の食卓。父の顔も、母の顔も、まるで能面のように動かない。カチャリ、カチャリと食器の触れ合う音だけが響く。僕はその静かな間を少しでも埋めようと、今日学校であったことを話す。出来るだけ楽しそうに。出来るだけたくさん。すると母は笑顔で僕の方を見る。うんうん、と優しい笑みをたたえながら。でも僕は、その笑みが母の本当の笑みでないことを知っていた。父が居ない時の、母の本当の笑みを知っていたから。だけど僕はそれで良かった。例え偽物の笑顔でも、能面を見るよりはましだったのだ。

 「からあげ美味しい?」ある日、珍しく母の方から沈黙を破って、僕に質問をしてきた。「うん、美味しい」考える間もなく、僕は反射的に返事をした。母が会話を切りだしてくれたのが嬉しかったのだ。母は、「やっぱり男の子ね」と言った。それから食卓には、頻繁に唐揚げが並ぶようになった。


 僕は鎹なので、サンドバッグになった。
 頻繁に朝帰りを繰り返す父に、母は怒りを募らせていった。「なんであんたの父親はああなの!」「あんたもきっとママのことを捨てるのよ!」と、父の代わりに僕をなじった。その罵声は数時間に及び、僕はずっと項垂れてその声を浴びていた。

 父が比較的早くに酔いつぶれて寝てしまった、ある日のこと。僕は母から、寝室に忍び込んで父のスマホを取ってこいとの命を受けた。寝ている父の指紋で、ロックを解除して持ってこい、と。僕は嫌だったけれど、「鎹としての任務を全うしなさい」とすごむ母の迫力が怖くて、素直に従った。
 僕から、ロック解除済みの父のスマホを奪うようにして取った母は、目を血走らせてその画面をたぐり続けた。三十分後、僕がリビングを後にするときには、その能面のような顔は青ざめ、ただ前方の宙を見つめるばかりとなっていた。僕はただならぬその様子に恐怖し、音も立てずにリビングの扉を閉めた。

 その日から、母はよく泣くようになった。怒り、僕を罵っては、おいおいと泣き、謝罪と愚痴と不安を延々と僕に吐き続けるのだった。僕は、悲しみにも対応出来るサンドバッグになった。


 ある日、母は家を出た。「どこに行ったの」と父に聞いても、しばらくは答えてくれなかった。父との、束の間の二人暮らしだった。料理の出来ない父は、スーパーの惣菜で唐揚げばかりを買ってきては、僕に食べさせた。
 深夜、父が電話相手に怒鳴っている声で目を覚ますことが多くなったころ、父から、母の筆跡による「実家に帰ります」という書き置きを見せられた。父は僕になにも言わなかったが、なぜそのタイミングで父が僕にそれを見せたのか、僕には手にとるように分かっていた。

 鎹として、僕は母の実家へ向かった。家からそれほど遠い距離ではない。だからといって、父が母を迎えに行くことはない。だから僕が迎えに行く。鎹として、家族の理想像を取り戻すために。二人をつなぎとめておく。それが、鎹である僕の使命なのだから。

 結局、僕は何度も母の実家へと足を運び、「ママがいないと寂しい」と何度も訴え、ようやく母を家に連れ戻すことが出来た。本当のところ僕は、ママがいないと寂しいと思ったことは一度も無かったのだが、「ママがいないと寂しいだろ?」と毎晩のように酔っ払いながら僕を問い詰める父のせいで、そう思わなければいけないような気がしたのだった。


 そんな毎日は、僕が十九になるまで続いた。高校を出てすぐに就職した僕だったが、家を出て一人暮らしをすることは許されなかった。家を出たい、との希望を僕が口にしても、
「鎹がいなくなったら、うちはどうなるの」
と、追いすがるような目で母は何度もそう繰り返すのだった。僕は、これから先何十年もこうしてこの家に縛り付けられる自分を想像して、胃の辺りが痺れるのを感じた。

 ある日の夕食の席だった。
「早く可愛い孫を抱かせてね。ママは、息子と孫と一緒に暮らす、幸せなおばあちゃんになりたいの」
 母が僕に向かって笑顔でそう言った瞬間、僕は食べていた唐揚げを全部吐いた。美味しくない。その時、僕はようやく気がついた。唐揚げなんて、全然好きじゃない。それどころか、もうとっくの昔から、食べたくない。味がしない。キャパシティを越えた唐揚げが、胃液の匂いとともに静かなダイニングに広がった。


 そこからの僕の行動は早かった。一人で住める部屋を探して契約し、書類を提出し、泣きわめく母を振り払い、荷物をまとめた。たとえ身一つでも、家を出る覚悟だった。僕は新居で、唐揚げ以外のものを食べて生きる。

 引っ越しが完了し、新居が落ち着いたころ、僕は手続きをしに役所へ向かった。必要事項を記入した紙を、窓口に差し出す。「あ、ここ、フリガナが抜けてますね。ヨツヤ…えーっとこれは、カナヅチのヅチですか?」と聞かれて、僕は答える。
「いえ、カスガイです。四谷鎹。もう変わりますけど」
 その日、僕は鎹を辞めた。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!