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【小説】 ナマケモノの離婚ばなし

「なあ、梓。離婚しよう」
 玄関扉を開ける前に、剛史は小さく呟いた。言いたくないけど言いたい。言ってしまいたい。もう限界だ。そう思い続けていったい、どれくらい月日が経っただろう。

 今日こそは。

 ガチャッ。
「ただいまー」
 返事はない。金曜の夜10時。部屋の明かりはついていた。子どもはもう寝た後だろう。
 「おかえり」の返事がないことは、笹野家にとって特段、珍しいことでもなんでもない。剛史は靴を脱ぎながら、「おかえりー」と自分に自分で返事をした。

「…またか。梓、またナマケモノになってんのか」
 リビングに足を踏み入れた剛史が、ハア、と大きなため息をつく。
 ソファの上で一体のナマケモノが横たわり、愛くるしい顔でポテチを食い、尻を掻きながらテレビを観ていた。

 梓の家系は、しばしばナマケモノになる、やっかいな家系だった。
 ナマケモノといっても、怠け者のことを比喩としてナマケモノと表現しているのではない。本当に獣の方のナマケモノである。木にぶら下がる以外は邪魔でしかないような長い鉤爪を持ち、憎めない顔で、まだらな茶色の毛に覆われ、のそのそと動く、あの獣。
 梓は疲れるとすぐ、ナマケモノになるのだった。

 結婚してしばらく、剛史はそのことに気づかなかった。
 梓の隠し方が巧妙だったのだ。付き合っている時から、「私、疲れたら眠くなる体質なの」と言って所構わず仮眠を取っていたし、結婚してからは、動物のいない家に太い茶色の毛が落ちていることについては、「今日、帰りに犬五頭と戯れてきたから」と言って素知らぬふりをした。

 ことが明るみに出たのは、子どもが産まれた後。
 梓は、しんどい、しんどいと育児の辛さを訴えながらも、頑固なまでに剛史に疲れた姿を見せようとはしなかった。

 しかし、子どもが生後3ヶ月を迎えたある日のこと。
 帰宅した剛史は見てしまったのだ。眠っている赤子を腹の上に乗せて横たわる、大きな獣の姿を。
 剛史は、「ひん」と言って飛び上がりながらも、猛然と獣から我が子を奪い取り、震える手で警察に通報しようとした。そのとき、ダイニングテーブルの上に、梓の字で書き置きがあるのを発見したのだ。

 隠していてごめんなさい。ナマケモノは私です。

 何度読んでも、その文字の意味は理解できなかった。理解出来ない頭のまま、恐る恐る剛史がナマケモノの方を振り返ると、ナマケモノはゆっくりと、剛史の目を見て頷いた。

 それから梓は、ナマケモノになることを隠さなくなった。
「もう無理。ナマケる」と宣言して、梓がバーンと横になる。すると、なんということでしょう。そこには立派なナマケモノが横たわっているのです。

 始めは剛史も、驚きはしたものの、そんな梓を支えようと決意したものだ。梓だって、なりたくてナマケモノになっているわけではない。疲れている証拠なのだから、自分がフォローしてあげればいい、と。
 しかし、どこからだろう、剛史の心に疑問が湧き上がってきたのは。

 家に帰って、横になっているだけのナマケモノを眺めながら、仕方がないからと自分に言い聞かせては、残された食器を洗い、部屋を片付け、洗濯物をたたむ生活が、剛史の心を追い込んでいった。
 僕は一体、何と結婚したんだ?

 日中、子どもの面倒を見ている間は、梓がナマケモノになることはほとんどない。そこに、持てるエネルギーを全振りしているからだ。そして、一日の育児を終え、疲れが出る夜の時間。梓はほぼ毎日のようにナマケモノになるのだった。
 剛史の愛した方の妻は全て子どもに取られ、剛史が対峙するのはいつだってナマケモノの方の妻。

 剛史だって、梓の柔らかい身体をマッサージしたい。なのに、いつもマッサージさせられるのは、ナマケモノの剛毛な体。
 いくらナマケモノの顔が、いっさい悪気のない可愛らしい顔であったとしても、ナマケモノはナマケモノ。剛史はうんざりしていた。

 普通に、人間との生活を送りたい。
 いつまで続くか分からないこの生活に、剛史はほとほと嫌気が差していた。そう、離婚を決意するほどに。

「今日もお疲れさま。なあ、梓、聞いてくれ」
 ポテチをモソモソと頬張るナマケモノとテレビの間に割って入り、いよいよ剛史は切り出した。
「梓が、家のために頑張ってくれていることは分かってる。だけど俺、もう限界なんだ。たのむ。離婚してください」
 ナマケモノが、ポテチを食べる手を止めた。なんとも言えないタレ目で、剛史の顔をじっと見つめる。だがナマケモノなので、返事はない。

「俺、最近、梓のこと見てない。ナマケモノの梓しか見てないんだよ。このままだと俺、梓が本当はどんな顔だったのか、どんな声だったのか、どんな身体だったのか、忘れてしまいそうだ」
 もちろん、ナマケモノの返事はない。長い爪で、ぞりぞりと、ゆっくり腹を掻く。
「疲れて帰ってきて、洗い物をして。風呂を洗ってお湯を張って。風呂から出たらナマケモノの歯を磨いて寝かしつける。梓と会話も出来ない。なあ梓。梓にとって、俺ってなに?」
 そう言いながら剛史は、ナマケモノの前でおいおいと泣き出した。

 沈黙が、一人と一頭の間で流れる。
「突然こんなこと言ってごめん。また、返事を聞かせ」

ピンポーン。

 唐突に、インターホンの音が鳴り響いた。
 ガチャガチャガチャ!と鍵を回す音。

 誰だ、と剛史が身構える間もなく、その人物はリビングに入ってきた。

「あらお母さん。まだ帰ってなかったの」
 梓の姿をした梓が、ナマケモノに向かって声を掛けた。

「お義母さん?」
「そうよ。最近、疲れてナマケモノになってばっかりだったから、今日は昼からお母さんに代わって貰ったの。…あれ、剛史どうしたの。泣いてるの」
 梓が剛史の様子に気づき、顔色を伺いに来る。
 入れ替わりに、居座っていたナマケモノが動き出した。
「お母さん、今日はありがとね!そのままの姿で帰っちゃだめよ。この間みたいに、捕獲されちゃうからね。気をつけてね」
 ゆっくりと床を這い、リビングをあとにするナマケモノの姿を見送って、剛史と梓は向き合った。

「で、どうしたの」
 剛史がゆっくり三つ、瞬きをした。
「…いいや、なんでもない」
 泣き笑いのような顔で、剛史が首を振る。
「なんでもないことはないでしょう」
 そう言って梓は、剛史の頬の涙をぬぐった。
「いや、ほんとだよ。なんでもない。助けを呼んでくれてありがとう。僕も助かった。ほんとうに」
 梓は、しばらく黙って剛史の泣き笑い顔を見つめていたが、それ以上は何も追求しなかった。

「…食べる?」
 ナマケモノの残していったポテチを指して、梓が言う。
「いいね。紅茶でも淹れようか」
「賛成。ついでにチョコパイも…あら残念。残り一つじゃない」
「二人で分ければいいよ」
 こともなげに剛史がそう言った。


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