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9年で価格が5倍以上に高騰してる本:『語りえぬものを語る』/野矢茂樹 Popcorn in a Strip Club vol.4

 大学生の頃、東大に通っている友人が基礎教養科目で受けている座禅の授業についての文句を言っていました。授業中に座禅の足の左右を組み替えると、先生から棒切れで叩かれるというのです。彼は合気道部の主将をしていて、関節に関しては一家言ある男でした。関節に対しては均等に負荷をかけていきたい、一時間右足が上で座禅を組んでしまったら、もう一時間左足上で座禅を組まなければならない、時間を節約するためには授業の中盤で一回組み替えるのがいい、それくらい許してほしい、というような内容だったと思います。私は関節についてはどうでもいいし、せっかくだから一回くらい叩かれとけよと考えつつ、東大って面白い授業があるんだなとも思いました。興味本位で先生の名前を聞いたところ、野矢茂樹、という答えが返ってきて私はびっくりしました。「野矢先生になら、俺は足を組み替えまくって喜んでぶっ叩かれるぞ。」そんなことを思い出しながら、今週末は久しぶりに野矢先生の本を読み返しました。

(発刊当時2500円で買った本が5倍以上の値段になっていて、びっくりしました笑)

今回の記事は、長々とわけのわからないこと書いてしまいました。書評にもなっていません。この本に関して言いたいのは、言葉にならないものを抱えた人間に対する癒やしがある、というただそれだけです。このnoteを開いていただいた方には申し訳ないです。少し読んでなんじゃこりゃ、と思ったら、一番最後の段落だけでも目を通していただければ幸いです。

 コロナウイルスのおかげで、我々が「暴力の時代」の真っ只中にいることが認識しやすくなりました。なんでこんな事になったのか、理由はさっぱりわからないし、分析したとしても、衒学的な隘路に迷い込むだけで、役に立たない可能性が高いですが、とにかく凄惨な暴力が目に見える形、目に見えない形で次々に起こりました。2020年の5月は世界的にもミクロにもそんな感じでした。(今週末も渋谷でデモがあり、歌舞伎町でヤクザがスカウト狩りをしていました。)


 人々は殆ど家に閉じこもって、オンラインでコミュニケーションを取るようになり、当初はZoom飲みなどで興奮していたようですが、そのうちに、「なんか寂しい」とか「つらい」とか言うようにりました。つらいとか寂しいとか平気で言えるようになったと捉えても良いかもしれないです。(*1) 

 「不安な心をさらけ出してもいい雰囲気が暴力につながった。」そんな言説もちらちら見かけます。そんなふうに簡単にまとめてしまってもいいものでしょうか。この2つの傾向は、多くの人がコミュニケーション不全に陥った結果であるのに、簡単に丸めてまとめることは、不全になったコミュニケーションを更に不全に陥れるのではないか。そう思いながらネット上の大小様々な論争やレスバを観察していました。そういうものを目にするたびに私はイライラしたり、怒りを感じたり、最終的には悲しい気持ちになったりしました。

 もちろんネット上のそうした光景を自ら意図的にシャットアウトすることはできます。しかし、今回ばかりはオフにすることは許されないような気がしました。シャットアウトすることで暴力に加担するような気がしたからです。同時代に生きたものとして、しっかり観察しておかなければならないような気もしていました。その結果、悲しい時はやはり衒学的な隘路に迷い込むしかないという結論に至りました。これは、臆病者の宿命でもあります。

 現代において暴力の典型はどのようにして発生しているのか。今回はこういう問立てを出発点に考えてみようと思います。銃刀を所持してその辺をウロウロすれば捕まります。暴力の芽は摘み取られているように思われます。にもかかわらず暴力は偏在しているのはなぜでしょうか。現在顕在化している暴力の多くは肉弾ではなく、言語もしくは言語によって定義される制度、社会認識、態度による暴力だからではないでしょうか。2020年にあって、その多くはWeb上で展開される傾向にあります。Webとはそのほとんどが言語で構成された空間です。こういう前提から、言語による暴力、について今一度考えるべきと直感しました。

 そう思って私は『語り得ぬものを語る』/野矢茂樹を手にとりました。(マーク・フィッシャーでも良かったのですが、もう少しベーシックで根源的な題材が良かろうと判断しました。)この本はヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を批判しようという試みられたほんです。ヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という概念の導入によって人間の認識を変えた人物です。丸めて言えば、世界とは論理によって構築された言語であるという考え方を提示しました。その哲学は『論理哲学論考』において「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という最後の一文の対偶に凝縮されています。野矢は『語り得ぬものを語る』において、この「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」というテーゼの克服を試みているのです。
 
 「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」このテーゼは一見当たり前のようで、実はひどく冷酷なものです。それは、語り得ぬものについて沈黙させられてきた人々の、もしくは語るための場を奪われた人々の、語りにならない怒りと苦しみを簡単に棄却してしまう考え方になりうるからです。
 
 話はここで2020年5月の問題に接続します。語り得ぬものについて沈黙せざるを得ないならば、言語が通じない存在(ウイルス)を前には敗北せざるを得ないし、マイノリティは抑圧され続け、人類は差別を克服する方法を失います。「語り得ぬものについては言語以外の方法で対処するしかない」といった暴力を正当化するテーゼにもつながる恐れもあります。ここで、野矢の試みと私の問題意識が一致するのです。

 野矢はヴィトゲンシュタインと同様の方法で懐疑論を突き詰めた人物として、ヒュームを取り上げています。「昨日地球に重力が存在していたからと言って、明日も重力が存在する根拠にはならない」というのが有名なヒュームが打ち出した懐疑論であり、斉一性の原理に対する懐疑の眼差しは鋭利です。(*4) この問題について、ヒューム自身は「人間は帰納的な推論をする本性を持っている」という解を与えて一応の解決を試みています。

 しかし、ヴィトゲンシュタインの想定する論理空間において、「人間の習慣」や「人間本性」という言語の外のある種プラグマティックな補助線は問の解決の指針たりえません。なぜなら、彼の前提において、言語で表現できないものは、存在を認識する事ができず、それについて言及することができないからです。すなわち、ヴィトゲンシュタインの仮定において、ヒュームの懐疑論は棄却されないのです。

 野矢氏は一連の論考の中で、こうしたヒュームの手法をある程度評価しつつ、論理空間と行為空間という概念を分けて考えています。(厳密には行為空間は論理空間に包摂された部分であるという位置付けです。) 

 論理空間とは、論理的可能性の総体、すなわち、論理的に整合性が取れていれば何でもアリな世界のことで、これは基本的に言語だけで成り立ちます。(なぜなら論理は言語のみで構成されるから)「論理的に整合性が取れている」というところが曲者で、ここでは観測的な整合性ではなく、論理学的な整合性が意味されます。これは一般社会で人々に共有されている正しさとはかなり異なった性質を持ちます。(*2)

 一方で行為空間とは、①概念所有、②習慣による囲い込み、③世界像(世界のあり方を探求する際に我々が鵜呑みにしている事柄)、という三つの観点から制限を加えられた論理空間の部分である、と野矢は主張します。これだけではさっぱりわかりませんが、この概念を持ち込むことが、野矢がこの本で成し遂げたかったことなので、複雑で当然でしょう。誤謬を承知で一言にまとめてしまえば、行為空間とは「言語以外の認識の制限が加わることによって、狭められた論理空間の部分」のことです。我々が一般的に認識している世界に近く、より具体的には斉一性の原理に基づく帰納的な推論な可能な世界のことでもある、というのが私の解釈です。

 つまり、野矢が本書で試みたことは次のようにまとめられるでしょう。論理空間において論理的に正しいことは無限に存在する。しかし、人間が生きるにあたって、現実の世界を認識する際はある程度可能性を狭めねばならない。人間は意図せずにそうしたプロセスを経て世界を認識している。それは、言語外の要素(語りえぬもの)にも制限されることによって起こる。すなわち「語られないものが語られたものを真にする」というわけです。

 
 ここで一旦ヒューム−(ラッセル)−ヴィトゲンシュタイン−野矢ラインのアプローチを袖に置き、私自身の問に戻ってもう少し具体的に言語という性質について考えてみたいと思います。

すなわち「言語という道具が、人間のコミュニケーションが対面でしかありえなかった時代に発生したのであれば、言語が対面においてのみ本来の力を発揮するものであるということはあり得るのだろうか」という問です。もしくは「非対面のコミュニケーション(テレビ電話も含む)において言語だけでは達成されない事柄はあるのだろうか」という問でもあります。もし「ある」ならば、次に立つ問は「それはどのようなもので、どのようにして補完、克服されうるか」ということになります。が、今回はそこまでは到達しません。

 言語の起源は藪の中ですが、その歴史は文字の歴史と比較しても遥かに長く、電話やWebなどの歴史とは比べるべくもないことだけは確かです。となれば、言語というツール自体が持つ弱点が、その後に出てきた、書物や手紙、電話、マスメディア、Webに至るまで、あらゆるメディア、プラットフォームにそぐわないという可能性もあるでしょう。

 そもそも言語は人間が仲間とみなせる範囲の他者(群れ)と意思疎通を図るための道具として登場し、何か特定の楔で繋がれた集団の間でのみ通用するツールでした。だとすれば、言語には当初から利害や目標の一致しない不特定多数とコミュニケーションを取るための機能が欠落しているのではないかという問を立てることもできるでしょう。おそらく言語にはそのような機能が欠落しているという前提で私は考えています。(*3)

 言語が機能するためには、集団の中で言語以前の何かが共有されている必要があるのだ。それは人間が共同体や集団を形成するための楔であり、利害の共有、達成すべき目標の共有、倫理、信条の共有(=感情の共有)の3つが主なものでしょう。(他に何かあるだろうか。)野矢風に言えば、これこそがまさしく無限に広がる論理空間を狭めるための習慣や概念、世界像といったものであり、論理的認識とは別の部分で行為空間を定義する「語りえぬもの」です。

 現代社会においては、大抵一人の人間が多様なレイヤーの集団に属しています。一人の人間が同時に子であり、親であり、被用者であり、友だちであるということはざらにあります。むしろそうでないことのほうが少ないでしょう。それぞれの集団では楔(=語りえぬもの)が違うので、話が通じないということもよく起こります。会社の同僚と仕事の話はスムーズにできるが、政治や趣味、家庭の話となるとうまくいかないということがあるでしょう。逆に、家庭で仕事の話や政治の話をしても話が通じずに居づらくなるということも当たり前にあります。これはそうした帰属レイヤー間の楔の違いの顕著な例です。

 SNSなどネット上の言説空間は、基本的に言葉だけで成り立つものであり、(画像や音声、映像もあるが大半は言語を補完するものである。)野矢風に言えば、論理空間に近い状態です。(行為空間と論理空間の境界は明確ではなく、グラデーション状になっていると野矢は指摘しています。)個々のアカウントは本来バラバラであり、利害や目標が一致していることは殆どありません。故に一人の人間が自認する帰属レイヤーに合わせていくつものアカウントを持つことがあります。これはペルソナと言われて揶揄されるような行為ではありません。むしろ、自発的に自己をちぎって定義して置かなければ、引き裂かれ、分裂してしまう。

 Web上のsocial network とは、そうしてバラバラな言語として存在する個が倫理や感情の共有だけでつながっている状態です。語りえぬものであるところの倫理や感情の楔で繋がれている。と勘違いしています。もしくは、無意識に行われている。そのため、自己認識の楔と他者から見た楔の認識のズレというのは往々にして起こる。そんな時、言葉がコミュニケーションの道具としての役割を果たさなくなり、逸脱し、暴力になります。

 もう少し具体的にしていきたいと思います。AとBの論争があるとします。Aのロジックは論理的に成り立っています。Bのロジックは論理的に成り立っています。しかし、A論の支持者はB論が人口に膾炙するのが許せません。B論の支持者もやはりA論が人口に膾炙するのが許せません。これが、「倫理が共有されていない」状態です。互いの支持者は互の論のロジックを突き崩そうと躍起になります。いろいろな条件付や特殊状態、前提に対する攻撃などで互いの論のロジックは崩れていきます。それを補完するために、既存のロジックになにかまた新しい言葉が付け足されます。そうやって、互いの論争が続いていきます。

 学会やジャーナルであれば、こうした営みは健全だと言えるでしょう。なぜなら、その集団は科学を発展させるという共通の目的、目標を共有しているからです。一方Web上のつながりにおいては共通の倫理のみならず、利害や目的も存在しないため、この攻撃はどちらかが諦めるか、滅びるかするまで永遠に続き、禍根を残します。

 倫理や感情が共有されない集団に属している個と個は、行為空間において何も共有するところがありません。そのため、言語が無効化され、コミュニケーションが全く成立しないのです。行為空間において、彼らの共有するところは完全に空集合です。ヴィトゲンシュタイン風に言えば、語りえぬものが語られないままに放置される。ただし、論理空間としての言語は認識されるので、永遠に噛み合わない場所で、互いを傷つけ合います。それが暴力と呼ばれます。

 本当に訳のわからない文章を書いてしまいました。この5月は語りえないものが多すぎました。語りえないものをなんとか言葉を尽くして語ろうという試みの結果、このようなわけのわからないものになりました。後半の議論は大部分の論証を端折っているし、読者に伝わる文章になっているかどうかはわかりません。しかし、読者に伝わるような丸め方をした時に切り落とされる部分にこそ、語りえないもの抱えた者の苦しさや憤りが宿っていると私は考えます。そこに言語の不可能性があるのだと思います。このわけの分からなさは、言語という道具にビルトインされた必然なのだろうと思います。この文章は、2020年5月に少しでも苦しい気持ちになったすべての人々と、昨日31歳になった親愛なるK君に捧げます。

(*1)これに関しては好きな短歌があります。「サバンナの象のうんこよ聞いてくれ だるいせつないこわいさみしい」穂村弘


(*2)阿部雛子という詩人の『典雅ないきどおり』という作品集の中の「キャロル式三段論法十番勝負――『記号論理学補遺』――」という詩があります。論理を用いることによって、素朴な命題から現実的にはありえない倒錯した世界を言語的に導いていく、かなり狂った、それでいてスリリングな試みです。ただし、この本は現在全く手に入りません。国会図書館か広尾の都立図書館に行けばあります。

(*3)このような問を立てることは、厭世的で、悲観的だ、知性を蔑ろにしている、社会の進歩を否定しているという意見もあるかもしれません。しかし、弱点を認識することから状況の改善が始まると私は考えます。

(*4)これに関しても、枡野浩一の短歌を引いておきます。「こんなにもふざけた今日があるならばどんな明日もありうるだろう」 日本の科学教育において、ヒュームの懐疑論が話題になるのを見かけることは少ないです。しかし、これは非常に重要な科学哲学上のパラダイムでしょう。この議論を経なければ、例えば、現代の最重要ツールである統計学がなぜ成立するのか、理解することはできません。なぜなら、統計学という手法を受け入れることそのものが、それこそ信条や倫理の共有の問題になるからです。水俣病やピロリ菌、HPVワクチンなど、日本の科学教育はここを蔑ろにしたせいで何度も大きなものを失ってきましたが、まだ学びが足りないように思われます。

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