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美穂

3年ぶりに美穂から連絡が来た。美穂と私は高校の同級生だった。
彼女からくる連絡は珍しい。

昼休みになっても机をくっつけず、いつも一人でフランスの小説を読んでいるような、妙に大人びた同級生だった。寡黙でいつも一人の彼女は、本を読んでいるか、煉瓦作りの旧校舎の裏庭に座りながら、じっと空を眺めている印象だ。彼女にはどこか退廃的な影が付き纏っていた。

両親はともに医者をやっているらしく、昔テレビドラマで見た、医者家系の病室のようなモノトーンで厳粛な家の空気感が、彼女の横顔からも伝わってくるようだった。そのミステリアスな雰囲気に、見下されているような感じもした。高校を卒業し、大学進学とともに上京した。東京の御三家と呼ばれる医大に進学した彼女は、開校以来の快挙と騒がれるほどの才女だった。

そんな彼女と初めて言葉をまともに交わしたのは、高校の通学路を外れた旧商店街にある一見パッとしないトタン素材の寂れた喫茶店だった。
「三橋さん?」
いつものように店の奥まった角の席でフレーバードコーヒーを飲んでいると、聞き覚えのある声がした。美穂だった。
「ああ、美穂もこの店に来るんだ、奇遇だね」
教室では全くと言っていいほど会話したことのなかった私たちが、学校からたった数百メートル離れた喫茶店で親しげに会話する様子が、なんだか滑稽だった。まるで旅先の心許ない状況で、偶然同郷の人を見つけ、普段は決してしないであろう地元の話題で会話が弾むような、そんな諧謔を含んだ親しみがあった。以来、私たちはこの店の常連になった。野良猫が3匹、どこからともなくやってきて住み着くようになった。

店のオーナーの田辺さんは、半世紀以上前はサーフィンの選手としてハワイで活躍し、引退後は現地で家庭を築いていたが、子どもが成人したのをきっかけに、こちらに移住したらしい。店内には南国らしさが色濃く残っていて、私はよくテスト終わりに通ったものだ。夕陽に切り取られたパームの葉っぱの陰影が、タバコでやや黄ばんだ壁に投影される時刻が好きだった。椰子の木を素材にサーフボードを模った壁掛け時計や、ドライフラワーでできたレイが飾られ、おまけに田辺さんの肌は、昨日南国から帰ってきたばかりのように、健康的な色で深い皺を刻んでいた。

「ヤンなっちゃったの、身の回りのことすべてが」
連絡をもらって、二週間後、私たちは例の喫茶店で会うことになった。
彼女は何もかも変わってしまっていた。いや、変わってしまったように、懸命に見せようとしていて、それが痛々しくも感じられた。彼女は相変わらず肩までかかる黒髪で、ヘレニズム期の大理石彫刻のように透き通った肌をしていた。年齢を知らなければ、まだ高校生に見えてしまうほど、彼女はうら若い。なのに、なんだろう、この違和感は。強いて変わった点を挙げるとすれば、服装だ。彼女の私服は数えるくらいしか見たことがなかったが、昔に比べ随分と質素になった気がする。リネン生地のワンピースは病室のシーツを連想させる。サナトリウムからそのまま抜け出してきたような、今にも命が溶けてしまいそうな危うさが、ワンピースの白い影に揺曳していた。


「毎日、友達の愚痴ばかり聞かされる身になってみて、そういう経験ない?」
彼女はこんな喋り方をしただろうか。記憶の中の美穂と、今目の前で不機嫌そうに声を発する女のイメージに繋がりを見出すのに、少々時間がかかりそうだ。
「あ、ごめんね、いきなり呼び出して。こっちにくる機会があってどうしてもこの喫茶店に寄りたくなったの。三橋さんとしか、ここに来たことがなかったから」
「それは大丈夫、今日は仕事が午前で終わったから」
「三橋さん、仕事してるのね。やっぱり美容師?」
うん、とだけ頷いた。彼女のこういう何でも見通してしまうところがいまだに苦手だと思った。
「それで今日はどうしたの?」
「三橋さんはさ、こういう経験ないかしら?友達だと思って仲良くしていた人がさ、だんだん自分を港にしてさ、どこか遠くへ言ってしまうの。波が高くなって、海風が強くなった時だけ、あたしに戻ってくるの」
「まあ、ないことはないけれど…」
正直拍子抜けしてしまった。なんだ、今の歳になって友人関係の悩みか。あたしはこれからくるであろう相談内容を過去の例と照合し、それに対する適切な回答を考えた。
「向こうはさ、何かあるたびにあたしのところに来て、自分の愚痴を聞いてもらうことが友情の証だと思ってる。でもね、あたしはあんたたちの保母でもなければ、日記帳でもないんだっつうの」
彼女は語気を強めて、その場にいない誰かに向かって懸命に抗議をしているように見えた。
「その点さ、男はいいわ。特に出会い系サイトで出会った奴なんて最高よね」
耳を疑った。出会い系?男?どうして、と口を開こうとした瞬間、彼女は私の疑問を遮るように続けた。
「みんなさ、真実の愛が欲しいだの、あたしだけを愛してだの、言うじゃない。でもそれってさ、違うんじゃないかな」
「本当の愛とかさ、どうやって見分けんのって思うよね。告白してひと月ふた月はベッド三昧。永遠の愛を知ったような気になって毎日一緒にいなきゃ気が済まないじゃない。でも、3年経ってご覧なさい、同棲でも始めた奴らは、トイレの蓋が開けっ放しだの、やれ同僚と飲み会で遅くなるだので互いに付き合っている理由の輪郭が徐々に朧げになってくるの。みんな異性の友達に期待し始める頃よ。そうやって恋に恋して、恋に疲れて、ちょうど気力に陰りが見えたところでひと休みする峠の茶店のような、そんな人と結婚するのね。言えば、惰性よ、惰性」
「何があったの?」
「心配しないで、全部聞いた話なんだから。そういう傾向があるってだけのことよ」
「ねえ、三橋さん、さっきあたしが出会い系の男って言った瞬間、随分とおかしな表情してたわね。鳩に豆鉄砲ってあんな顔なのかしら」
なんだか、美穂がこの場にいない気がした。その掠れたような細い声にはあまりに似つかわしくない話しぷりだ。
「あたしの肉体がさ、有用な価値を持って男たちに消費されるわけ。それも、あたしを人間とも思ってない男たちに。あたしの肉体は、ホテルの薄明かりと洋風の安っぽい生地のベッドがあれば、人間に精巧に似せて作られたゼンマイ仕掛けのお人形になるの。男が挿れたらさ、あたしはただその往復に従って機械的に声を出せばいいだけ。吐息まじりに適当にあぁだのうーんだの、人間辞めたような声を出してさ、それで男の矜持が保たれるんだから安いもんよね。」
「なんであたしがこんな不健全な情事にハマっているかわかる?あいつら出会い系の奴らはさ、あたしの表の顔しか知らない人間たちと対照的なんだけど、それでいて非常に似たつがいなわけ。そのつがいを、あたしは今まで心の羅針盤で求めていたんだと思うの」
どういうこと?と聞こうとすると、またもや彼女は私を遮るように、続け様に喋り出した。
「あんたたちはさ、あたしを精神的な支柱にしてなんでも悩みを打ち明けてくれるじゃない。一見すれば随分と人から頼りにされていて、充実した毎日を送ってるように見えるよね。でもあんたたちが欲しいのは結局、自分を肯定してくれる存在なの。何もあたしでなくてもいい、話をウンウン頷いてくれて、最終的にその人を傷つけないような当たり障りのない回答を、本で読んだようなセリフと一緒に優しく言えば、それであたしの役目は終わり。で、どこにあたしはいるの?そんな人たちの目の前に、あたしが本当にそれで存在したことになると思う?」
彼女の存在の希薄さの理由が氷解したような気がした。思い返せば、ずっとそうだった。彼女はクラスで中心的な人物ではないけれど、何かあったら美穂に相談すれば解決するという暗黙の認識が、同級生の間で共有されていた。美穂は、頼りがいのあるお姉さんのような存在だった。彼女は、優しかった。彼女は拒絶もせずただ、来るものに全てに門戸を開いていた。慈悲深くて、石造の教会で説教を受けているように、彼女に相談すると、なんだか心が洗われるような感じがした。美容師の道を決めたのも、彼女の助言があったからだ。
「男たちは、確かにあたしを肉の塊としか見做してないわね。そりゃそうよ。出会い系なんて一夜の性欲も処理できないソドムの市の住人の集まりみたいなもんだから。ただね、嬉しいのは、あたしが目の前にいて、あたしがどんな言葉を喋ろうとしても、彼らには意味をなさないわけ。薄闇の中に浮かぶのは、あたしの突起と窪みを凝視する、ナメクジが這った後の曇りガラスみたいな落ち窪んだ眼球。それしか見えない。あたしはといえば、彼らの前でただ女性の肉の塊として、陶器のような触り心地の良い20代半ばの滑らかな曲線としてしか存在していないんだから、互いが互い、人間を殺し合って求めているの。でもね、それがいいの。男の人に求められる時ってさ、あたしが初めて肉体を持った今ここに存在する人間として扱われたって感じがしてすごく嬉しい。人間関係を生まれて初めて対等に築けた感じがして、あたし、最初の夜は泣いちゃったの。おかしいでしょ」
私はなんだか、取り返しのつかないようなことをしてしまった気がする。
「あたしを快楽の入り口として使ってくれたらさ、もう何もいらないって思っちゃう」
アイスコーヒーはすでにぬるくなっている。ちょうどブラインドから西陽が差し込み、美穂の顔に縞模様の影が走った。
閉店までこうやって話し込んだ学生時代、彼女は、どんな顔をして聞いていたのか、私は今も思い出せずにいる。


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