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映画監督 足立正生とは誰なのか?

 ここ半月ほど、ある映画監督の名前がクローズアップされている。安倍晋三元首相を暗殺した山上徹也容疑者をモデルに、事件までの軌跡を描いた『REVOLUTION+1』を監督した足立正生である。
 といっても、「誰?」という反応が大半なのは、映画ファンでも彼の名前を知る者は限られており、ましてや彼の映画を観た者となると、さらに少ないからである。つまりは、単なる無名の自称映画監督なのかと思いそうになるが、実は日本映画史を語る上で欠かせない重要人物であり、映画監督にとどまらない異色の経歴を持つ人物でもある。
 1960年代前半に前衛映画の若き監督として登場し、アンダーグラウンド・シーンの寵児となった足立は、若松孝二と組んだピンク映画では性と犯罪をテーマに脚本を量産、さらに大島渚の作品にも参加するなど多彩な活動を行った後、日本赤軍に身を投じる。それから27年にわたって日本を離れ、帰国後、再び映画監督として活動を再開する。
 その足立が、事件発生から2か月半、撮影開始から1か月で国葬当日に暫定版の上映にこぎ着けた新作『REVOLUTION+1』は、公開前から毀誉褒貶が渦巻いたが、映画そのものを観れば、実に足立正生らしい、足立正生にしか作れない映画になっており、日本赤軍での経歴から想像するような、単純なテロ肯定映画などではない。
 『REVOLUTION+1』を知るには、〈映画監督・足立正生とは誰なのか?〉を知るところから始めなければならない。筆者がこれまで数回行ったインタビューも引用しながら、その映画経歴をたどってみたい。
 

前衛映画の旗手から、若松プロダクションへ

 1939年に福岡で生まれた足立は、日大映画学科に入学後、新映研を立ち上げ、『椀』(61年)などの自主制作を行う。後に『まんが日本昔ばなし』の脚本を手がけることになる沖島勲らもスタッフに加わった『鎖陰』(63年)では上映自体をイベント化させ、1965年には当時の学生映画としては異例の商業映画館での興行を成功させたことでも知られる。

 伝説的なアンダーグラウンド・フィルムとして大きな反響を呼ぶ『鎖陰』を遠巻きに眺めていた映画監督が若松孝二である。当時、急成長を見せ始めたピンク映画の監督として頭角を現した若松は、その波に乗って若松プロダクションを設立。第1回作品として団地を舞台にした性の物語に、政治的なモチーフを加えた『壁の中の秘事』(65年)を発表。同作は急転直下、第15回ベルリン国際映画祭に出品されることになったが、現地での反発に加えて、国内では大手映画会社の作品を差し置いてピンク映画が出品されたことから、轟々たる非難が起き、国辱映画騒動が勃発する。マスコミからの激しいバッシングに一人で立ち向かう若松の姿を、興味深く眺めていたのが足立であり、松竹退社後、新たな映画作りを模索していた大島渚だった。
 やがて足立は助監督として若松プロに参加し、間もなく脚本家として若松映画の量産体制を支える存在になる。

 足立によれば、「(現場で)『そんな撮り方は無いだろう』って若松さんに俺が言うもんだから、『うるさい、現場に来るな!』ってことになった。俺を追っ払っておくために『次にやるシナリオを書いておけ』ということになったんだね」ということだが、もちろん、それだけではない。手早く奇想に満ちた脚本を書く足立の才能に若松が惚れ込んだことは、足立の登場以降、若松映画がガラリと様変わりしたことからもうかがえる。

 若松×足立コンビの仕事の進め方を、『胎児が密猟する時』(66年)を例に見てみよう。梅雨の時期は撮影が順延しがちなことから、若松プロの事務所のなかだけで映画を1本撮ってしまうことはできないか――若松からの持ちかけに、足立は女性を監禁してサディスティックに調教する男の物語を、密室や子宮といった象徴性を持たせて直ちに脚本に落とし込んだ。わずか1日で初稿を書き上げ、製作条件に合わせてリライトされ、1週間で決定稿が完成。
 その間に若松はトイチの貸金業者から製作費を借り出し、スタッフを集めて撮影準備に入る。こうした若松プロの製作方法には、本作で主演に抜擢された山谷初男も驚いていたと足立は回想する。

「渋谷の仁丹ビルの隣のマンションにあった若松プロに来たハッポン(山谷初男)が『どこで撮るんですか?』と訊くから、ここって言うと『この事務所で!?』と驚いてた。中のものを全部外に出して、部屋を全部真っ白に塗るんだって言うと、『それなら私も手伝う』って、最初の4日ぐらいはハッポンも一緒に部屋中を塗ってたよ。キャスト、スタッフ全員で事務所に泊まり込んでやったんだけど、狭い部屋で合宿していると、みんな少しずつおかしくなるね。撮影3日目ぐらいからヒステリックになって叫び合ってた」

 製作費210万円、スタッフは監督以外に助監督2人、撮影1人、撮影助手1人、照明2人。撮影期間は8日、アフレコ1日、音楽収録1日、ダビング1日。こうして20日ほどで1本の映画が完成してしまう。そして250万〜300万で配給会社が買ってくれれば商売が成立することになる。

 その後も若松と足立のコンビは快進撃を見せ、低予算、短期間の撮影日数という悪条件を逆手に取った『犯された白衣』(67年)、『ゆけゆけ二度目の処女』(69年)、『狂走情死考』(69年)等々の先鋭的な傑作群を生みだしていく。
 これらの作品は、成人映画館だけでなく、アート映画を専門に上映する日本アート・シアター・ギルド(ATG)の直営館である新宿文化の地下に作られたアンダーグラウンドシアター・蝎座でも上映され、学生を中心とした若い世代の人気をあつめた。

 この時代の若松プロの様子は、若松の弟子にあたる白石和彌監督が撮った『止められるか、俺たちを』(18年)に詳しく描かれている。若松役を井浦新が、足立役は山本浩司が演じている。


異色のピンク映画を監督し、大島渚とも共闘

 足立は脚本だけではなく、若松のプロデュースで監督としてもピンク映画を撮り始める。以下にその作品群をならべると、マッドサイエンティスト・丸城戸定男が発明した人工胎盤や、究極の避妊具マルキードが巻き起こす騒動を描いた性科学コメディ『堕胎』(66年)、『避妊革命』(66年)。
 1968年1月に下呂温泉の旅館で全身33か所を刺されて殺害された芸者R子の事件を発端に、同日、乳房性器など32か所をえぐられた芸者M子の死体発見へと発展した連続殺人を、同年夏に早くも映画化したエクスプロイテーション映画『性地帯 セックスゾーン』(68年)。
 若者たちの奔放な性と街頭パフォーマンスで描く『性遊戯』(68年)、卒業式粉砕を叫んだ高校生たちが自衛隊から武器を奪取し、山岳アジトで大人たちと戦う『女学生ゲリラ』(69年)。
 『ルパン三世』の脚本家としても知られる大和屋竺を主演に迎えた女性恐怖映画『叛女 夢幻地獄』(70年)、若者の死への憧憬を描いた『噴出祈願 15代の売春婦』(71年)等々、どの作品もシュルレアリストらしい足立の世界観が際立つ異色作ばかりである。
 こうしたピンク映画を監督しつつ、足立は前述した蝎座が開館した際には、オープニング上映に合わせて、再び新映研の仲間たちと自主製作による前衛映画『銀河系』(67年)も監督している。蝎座では、当時はまだ個人映画作家だった大林宣彦が続いて『CONFESSION= 遙かなる憧れギロチン恋の旅』(68年)を撮り下ろしているが、足立と大林はともに実験映画製作グループ「フィルム・アンデパンダン」のメンバーでもあった。

アンダーグラウンド蝎座の特集「足立正生・大和屋竺のマッドなデモンストレーション」パンフレット

 一方、この時期には、若松に脚本を提供した「日本暴行暗黒史」シリーズが大ヒットしている。天皇制を背景に据えた『日本暴行暗黒史 異常者の血』(67年)に始まり、津山事件をモチーフにした『新日本暴行暗黒史 復讐鬼』(68年)などが連作されたが、本シリーズについては、以前行なったインタビューが、作品の成立過程と若松プロならではの撮影風景を伝えていると思われるので、一部を引用する。


――60年代の若松映画最大のヒットとなったのが、『日本暴行暗黒史』シリーズ。
足立 これは俺が学生の頃から付き合っていた性科学者の高橋鐡さんという人がいて、高橋さんのところには性犯罪史の資料がものすごくいっぱいある。それを見ていて、これは普通の日本の歴史ではなくて犯罪史、特に性犯罪史からもう一度歴史を見直すことが出来たらいいかなと思ったのが最初。
――第1作が『日本暴行暗黒史 異常者の血』。明治、大正、昭和と性犯罪にまつわる血縁が代々続く一族をめぐる物語です。
足立 若ちゃん(若松孝二)に「言っとくけど、これは反天皇制がテーマになるぞ」と言っても、「いいよ、俺は関係ない」って言うんですぐOKが出てね。でも配給会社や映画館からブーイングが凄かったですね。お蔵入りになりかけるんだけど、そのあたりから俺は悪名高い脚本家になっていくんです。

――明治初頭の農村が舞台となる挿話は、ほとんど時代劇です。宴会シーンは襖の影だけで表現していますが。
足立 丁髷を2つ用意する予算しかないっていうから、「いや、宴会なんだから最低10個はいるでしょ」と言ってもダメだって言うから、新聞紙を丸めて紐を括り付けてシルエットだけで撮る(笑)。部屋の中にずらっとお椀が並んでるカットも必要だから、近くの農家から立派な一人膳の器を借りてやるんだけど、中身が無いから、みんなで辺りの雑草をちぎって、それに水を足して汁物に見えるようにしてたね。

――『新日本暴行暗黒史 復讐鬼』は村人30人を殺した津山事件をモチーフにした作品。
足立 これはまさに日本の村思想と正面から対峙する内容になるから本気で作ろうって言ってたら、大島渚と美術の戸田重昌が現場に来て何日か見てたよ。
――大島監督は、ちょうどATGとの1千万映画の製作を始める頃なので、若松プロのやり方を見学されていたんでしょうね。舞台となる茅葺きの村が素晴らしい。
足立 当時でも、あれぐらい整ってる村を探すのは大変だった。どこかの温泉地の外れの山奥で『復讐鬼』を撮ったんだけど、ロケ隊の泊まりは温泉街。だから俺はその温泉街で『性地帯 セックスゾーン』という殺人犯の映画を同時に撮って、一石二鳥になってるわけ(笑)。
――『復讐鬼』は、ひたすら虐げられ、遂に復讐に転じる男が主人公だけに若松監督にとっても得意とする内容ですね。
足立 もうちょっと金かけて撮ってよと思うくらい、事件を起こす前と、起こしている間をシナリオにはいっぱい書いてあるんだけど。それはもうバサバサ落として、勢いだけのものにしてしまったけどね。ここらへんの映画で若ちゃんは大儲けしたんだよ。配給会社が寄こした大入り袋が俺のところにまで回ってきたからな。

 『新日本暴行暗黒史 復讐鬼』の撮影現場を見学に訪れた大島渚はその後、ATGで製作費1千万円の低予算映画をスタートさせたが、その最初の作品となったのは、小松川女子学生殺人事件で死刑となった李珍宇をモデルにした『絞死刑』(68年)である。この作品の撮影には足立にも声をかけ、無骨な保安課長役で俳優として登場させている。さらに大島の指名で足立は予告編の監督も兼ねることになり、首に縄を巻いた大島による激しいアジテーションを映し出した予告編が製作された。

 『絞死刑』の出演をきっかけに、『帰って来たヨッパライ』(68年)、『新宿泥棒日記』(69年)という最もラジカルな大島映画へ共同脚本で参加した足立は、前衛映画とピンク映画を監督しつつ、大島と若松の脚本も掛け持ちするという、キャリアのピークというべき時期を迎える。
 さらには、その余熱ともいうべき作品も生まれている。大島映画の脚本を手がけていた佐々木守らと共同で制作にあたった『略称 連続射殺魔』(69年)は、1968年10〜11月にかけて全国4都道府県で19歳の永山則夫が起こした連続射殺事件を、彼が生まれてから逮捕されるまでに各地で見たと思われる風景だけで構成したドキュメンタリーである。

越境と27年の空白、そして再び映画監督に

 1971年、若松と共に参加したカンヌ映画祭からの帰りにパレスチナへ渡った足立は、パレスチナ解放人民戦線のゲリラたちの日常を撮影。それらはプロパガンダフィルムを標榜した『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』(71年、以下、『赤P』)としてまとめられ、これを機にパレスチナ問題に携わるようになっていく。
 『赤P』は全国を赤いバスで巡回上映する方式が取られたが、その様子は、『止められるか、俺たちを』主題歌のミュージックビデオのなかで再現されており、映画で演じた足立役の山本浩司も登場する。

 この後に製作された若松×足立コンビの集大成的な1本となったATG映画『天使の恍惚』(72年)は、革命軍による首都の無差別テロを描いた極めて過激な内容となり、ATGのメイン館である新宿文化以外の上映が中止になっている。
 同じ年には、東宝で寺山修司、赤塚不二夫、中山千夏らが企画に名を連ねた『高校生無頼控』(72年)の監督に彼らの強力な後押しで抜擢されかけるが、東宝上層部の牙城を崩すことはできず、脚本を担当するに留まった。「フィルム・アンデパンダン」の同人だった大林宣彦が撮影所内の反発を押し返して東宝で『HOUSE』(77年)を撮るのはそれから5年後のことである。
 1973年、足立は日活ロマンポルノ『恋の狩人 淫殺』の脚本を執筆するが未映画化に終わり、日本での映画活動はここで一時停止することになる。そして翌年の出国後は日本赤軍に合流し、以降4半世紀に渡る海外生活を送り、日本赤軍の広報として活動していたことが知られている。

 1997年にレバノンで他の日本赤軍メンバーと共に拘束され、旅券偽造による3年の刑期があけた2000年に日本へ強制送還された足立は、映画活動を再開する。
 復帰作として、アラーキーや唐十郎が実名で登場する新宿とパレスチナを舞台にした大作『十三月』を準備するが頓挫。続いて企画された『幽閉者 テロリスト』(07年)では日本赤軍の同士だった岡本公三をモデルに、リッダ闘争と獄中の幽閉生活が想念を交えて描かれ、36年ぶりの監督復帰を実現させる。
 その後も作家の山野浩一と共同脚本でネットをテーマにした『なりすまし』を準備するなど、様々な企画が検討されたが、監督復帰第2作となった『断食芸人』(16年)では、フランツ・カフカの同名作を原作に、舞台を日本のシャッター街へ置き換えて描き、70年代前半に映画界から姿を消した足立正生が30数年の歳月を経て、再び独自の世界観を伴って映画戦線に復帰し、その最前線を疾走している姿を印象づけた。
 そうしたフィルモグラフィを踏まえれば、『REVOLUTION+1』が事件発生直後に企画され、直ちに撮影されるのは、これまでの映画人としての活動を一望すれば、必然であることが理解できよう。

 残念ながら、上に記してきた作品の多くは、現在観ることが難しい。若松孝二の監督作品は、比較的手軽にDVDなどで観ることが可能だが、足立の場合は、ソフト化された監督作が少ない上に、廃盤になっている作品も多い。
 下記に関連ビデオ、DVD、書籍のリンクを貼っているので、肯定するにせよ、否定するにせよ、足立正生と『REVOLUTION+1』を知るために、これらの作品を手繰り寄せるところから始めてはどうだろうか。

 ちなみに、前述の『絞死刑』以外にも、足立は〈俳優〉としての出演歴を持っている。古くは、ジャン=リュック・ゴダールらによるジガ・ヴェルトフ集団の『イタリアにおける闘争』(69年)日本語版での声の出演、近年では瀬々敬久監督『なりゆきな魂』(16年)、大森立嗣監督の『光』(17年)、佐藤零郎監督『月夜釜合戦』(17年)等々で、見事な老人を演じている。
 なお、今年公開の瀬々敬久監督『とんび』で阿部寛の父親役を演じているのも足立正生である。



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