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令和五年の伊丹十三

 映画編集者、デザイナー、俳優、エッセイスト、ドキュメンタリスト、雑誌編集長、そして映画監督。

 1933年、映画監督・伊丹万作の長男として生まれた伊丹十三は、新東宝の編集助手を皮切りに、商業デザイナーを経て27歳で大映東京に入社。伊丹一三名義で俳優業を開始し、所属した1年半ほどの間に増村保造、市川崑らの作品に出演。後にフランス映画社を取り仕切る川喜多和子との結婚もこの時期である。
 大映退社後は、『北京の55日』などの海外大作から加藤泰、大島渚、若松孝二、東陽一といった監督たちの異色作に出演する俳優として知られるようになる。川喜多と離婚後に、十三へと改名し、1969年に宮本信子と再婚。

 経歴を並べれば、60年代だけで伊丹の人生の変遷に驚かされるが、1970年代の伊丹は、エッセイスト、テレビドキュメンタリーの出演者としての活動が目立つ。1980年代に入ると、再び映画出演が活発になり『細雪』『家族ゲーム』で助演男優賞を受賞。

 俳優としてのキャリアがピークを迎えると、それに飽き足らず、次なる天職を見つけ出す。それが映画監督だった。『お葬式』は、性格俳優が監督に手を出した実験作にすぎないと見られていたが、大ヒットを記録した上に映画賞を総ナメにし、以降は監督業に専念。
 51歳でめぐりあった映画監督という職業は、伊丹の経歴の総決算でもあった。自ら映画の企画を立て、取材し、脚本を書く。そして映像表現を模索しながら撮影し、俳優には自らが理想とする型の演技を要求する。撮影後には編集に携わり、タイトルデザインを行い、凝ったメイキングを作り、劇場で販売するパンフレットまで自ら編集する。それらは、伊丹十三という多面体の才能を全て活かす場でもあった。

 『お葬式』は、小津安二郎、カール・ドライヤーの作品などから引用したショットが充満したシネフィル映画でありながら、日本的儀式を普遍的な人間喜劇として描き、幅広い観客に受け入れられた。続く『タンポポ』は、エッセイで発揮されていた食へのウンチクを、『シェーン』を換骨奪胎したラーメンウエスタンとして映画化。マニアックでありながら大衆性を併せ持つ伊丹映画は、絶妙な均衡で成り立っていた。 
 最高傑作の呼び声も高い『マルサの女』は、バブルまっただ中の日本人とカネをテーマに緻密な取材を重ねて税務署と脱税者の攻防を描き、ウォルター・ヒルによるハリウッド・リメイクも構想された。
 以降の伊丹映画は、「女シリーズ」に引きずられたきらいはあるが、常連キャストを外して大江健三郎原作の『静かな生活』を映画化するなど、新たな展開も予感させていた。

 全10本の伊丹映画をふりかえれば、『お葬式』から『タンポポ』、そして『マルサの女』へと至るまでの時期は、伊丹が撮りたいものを撮れば、観客がそこにつめかけて批評家からも絶賛されるという、映画と伊丹と観客にとって最も幸福な時期だったのではないか。
 しかし、前作を超える興行成績を残した『マルサの女2』以降、伊丹は自作を「商売映画」と自称し、奇抜なタイトルを流通させ、興行成績のみを追求する姿が目立つようになる。
 今、『お葬式』や『タンポポ』を撮れば、半分以上のシーンを捨てると公言したのもこの時期である。観客を一瞬たりとも飽きさせないテンポアップされた娯楽映画としての伊丹映画にも、たしかに魅力はあったが、初期作にあった余白の魅力が失われつつあった。そのことに誰よりも自覚的だったのは、伊丹自身ではなかったか。
 実際、『静かな生活』は、『お葬式』の頃への原点回帰を試みたように思えるが、興行は奮わず、エンタメ路線へと舵をもどすことになる。再びヒットメーカーに立つための試金石となった『スーパーの女』は、自己ベスト興行記録を達成し、〈観客が求める伊丹映画〉の健在ぶりがアピールされた。
 しかし、サービス満点のこの映画に、伊丹は本当に満足していたのだろうか。

 「これでダメならもう打つ手がない」と自信を見せた『マルタイの女』が不発に終わり、公開から3ヶ月後、伊丹は自死を遂げた。
 興行成績と死の関係は不明ながらも、ヒットメーカーという枷に自らを縛り付けた末の戦死のような気がしてならない。
 初期作や『静かな生活』のような〈伊丹十三がつくりたかった伊丹映画〉が、撮られていたかもしれない未来を想像すると、死後25年が経った今でもよく言われる、「伊丹十三が生きていれば、こんな伊丹映画がつくられた?」的な設問に対する答えも、まったく違うものになるのではないだろうか。


初出『映画秘宝 2012年1月号』に加筆修正

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映画監督伊丹十三とは何者だったのか? 伊丹十三と伊丹映画を、13本の記事と4本のコラムをもとに再発見する特集です。

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