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映画監督 伊丹十三・考

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映画監督伊丹十三とは何者だったのか? 伊丹十三と伊丹映画を、13本の記事と4本のコラムをもとに再発見する特集です。
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映画監督 伊丹十三・考 目次

 1997年12月20日。  わずか3か月前に最新作『マルタイの女』が公開されたばかりの映画監督・伊丹十三が突然の死を遂げた。13年にわたる伊丹映画の唐突な終焉だった。  当時、テレビのゴールデンタイムで繰り返し放送されていた伊丹映画もやがて姿を消し、伊丹の名は急速に過去のものになるはずだった。  しかし、伊丹十三と伊丹映画は、過去の遺物とはなることなく、何かが起きるたびに、まるで予感の映画を撮っていたかのように、伊丹映画の話題が出てくる。  没後25年を迎えた今年、日本映

令和五年の伊丹十三

 映画編集者、デザイナー、俳優、エッセイスト、ドキュメンタリスト、雑誌編集長、そして映画監督。  1933年、映画監督・伊丹万作の長男として生まれた伊丹十三は、新東宝の編集助手を皮切りに、商業デザイナーを経て27歳で大映東京に入社。伊丹一三名義で俳優業を開始し、所属した1年半ほどの間に増村保造、市川崑らの作品に出演。後にフランス映画社を取り仕切る川喜多和子との結婚もこの時期である。  大映退社後は、『北京の55日』などの海外大作から加藤泰、大島渚、若松孝二、東陽一といった監

今、伊丹映画を観るなら、この6本+1

長編劇映画第1作『お葬式』から、遺作の『マルタイの女』まで、伊丹十三は全10本の映画を残した。2023年から伊丹映画を観始める人に、オススメする6本+1本。 『お葬式』(1984年) 脚本・監督/伊丹十三 出演/山崎努 宮本信子 菅井きん 大滝秀治  伊丹の妻・宮本信子の実父が亡くなった際の葬儀の光景を、これは映画そのものだと閃いた伊丹がその経験を忠実に再現した長編監督デビュー作。主人公夫婦が俳優という設定もそのため。ついでに言えば、劇中の山崎努と宮本が俳優夫婦という設

伊丹映画の食・性・死

伊丹映画には、毎回きまって「食」にまつわる場面、「性」にまつわる場面、「死」にまつわる場面が登場する。伊丹映画印となるそれらのシーンを振り返ってみたい。 伊丹映画の「食」 『お葬式』の冒頭、生々しい質感で映し出されるアボカド、鰻、ロースハムのアップ。伊丹映画の「食」はここから始まった。  エッセイでも食へのこだわりを示してきた伊丹だけに、単なる食事風景は伊丹映画に存在しない。画面に登場する食物は俳優たちと同じ重量級の存在感を放つ。 『マルサの女』の食料品店のシーンは、ロケ

伊丹十三がいちばん作りたかった映画

やりたいことだけを詰め込んだ映画  初監督作『お葬式』(84年)で、一躍映画監督として脚光を集めた伊丹十三。  それまで『北京の55日』(63年)などの海外の大作に出演する国際俳優・エッセイスト・テレビタレントとして知られてきたが、日本では80年代前半、『細雪』(83年)、『家族ゲーム』(83年)で助演男優賞を受賞するなど、俳優としての評価が高まり始めた矢先の映画監督への〈転職〉だった。  『お葬式』の大ヒットと、各映画賞の総ナメの記憶も新しい翌1985年、監督第2作『タ

『マルサの女』をマルサする

 伊丹十三が亡くなって25年になる。今では、宮本信子の夫が伊丹十三だったと説明した方が通りがいいかも知れない。  伊丹映画は一貫して、ユニークな視点から〈日本人論〉を展開してきた。〈日本人と儀式〉を描いたデビュー作の『お葬式』(84年)に始まり、第2作の『タンポポ』(85年)は〈日本人と食〉の物語である。究極のラーメン作りに挑むヒロインと、彼女を叱咤激励するトラック運転手との仄かな恋が、ラーメンの香りと共に漂ってくる物語は、言ってしまえば『シェーン』(53年)の換骨奪胎だが、

伊丹十三の映画術

 伊丹十三が、日本の撮影現場にもたらした最初の変革は、当時まだCMの現場などでしか使用されていなかったテレビモニターの導入だろう。  今や映画の現場の大半で導入されているカメラからの映像を、モニターに映しだして監督が確認するという行為は、一昔前まではカメラマンの職域を侵すものとして忌避されていた。  実際、『タンポポ』の撮影を担当した田村正毅(たむらまさき)は、後にその不満を口にしている。しかし、どこを切っても全篇伊丹印が刻まれた強烈な個性を放つ伊丹の現場には、モニターを介し

伊丹映画を支えたスタッフたち

 東宝が配給し、東宝邦画系劇場で公開されていた印象が強いせいか、「伊丹映画=東宝」と思いがちだが、『お葬式』以降、1996年に亡くなるまで伊丹映画のプロデューサーを務めた細越省吾を筆頭に、撮影の前田米造、編集の鈴木晄をはじめ、日活出身者がメインスタッフを占めている。こうした撮影所出身スタッフたちは、後期の伊丹映画では、セット撮影が増えたことから、その強みがいっそう発揮されている。セットをどう活用され、どんな照明があたり、カメラがどう映しているかに注目して観るのも一興である。

伊丹映画はメイキング&特報にも注目せよ

 かつて、テレビドキュメンタリーに企画から参加していた伊丹十三にとって、「メイキング」とは、人気俳優のオフショットでもオマケでもなく、映画本編に拮抗する、いや映画以上の面白さが無ければならないものだった。  伊丹映画には、『タンポポ』から『大病人』まで、映画本編に劣らない質の高いメイキングが作られている。『伊丹十三の「タンポポ」撮影日記』『マルサの女をマルサする』『マルサの女2をマルサする』『[あげまん]可愛い女の演出術』『ミンボーなんて怖くない』『大病人の大現場』がそれで

伊丹十三 幻の監督デビュー作『ゴムデッポウ』とチロル

「アマチュアの秀作」  最近、恩地日出夫監督と伊丹十三監督の対談記事を目にした。2人は、伊丹が監督になる前から、監督と俳優としてのみならず、公私ともに親しくつきあっていた仲である。  対談のなかで、「3本目(の監督作)でプロになった、と思った」と言う恩地に、伊丹はこう返している。 「正確には4本、27歳ぐらいのときに撮った16ミリの映画があっただろう。アマチュアの秀作『ゴムデッポウ』(笑)」  そう、『ゴムデッポウ』こそは、『お葬式』以前の、伊丹がまだ一三と名乗っていた

ドキュメンタリスト伊丹十三と『天皇の世紀』

 大佛次郎が、1967年〜73年にかけて朝日新聞で連載した『天皇の世紀』は、黒船来航に始まる幕末の動乱を描いた歴史巨編である。  1971年9月〜11月にかけて放送されたテレビドラマ版(土曜22:00〜22:56 朝日放送 全13話)は、ベテラン映画監督たちと、多彩な俳優たちが顔を揃えた大作として話題を集めたが、もう1本の『天皇の世紀』が存在する。  それが1973年10月〜1974年3月にかけて放送された第二部とも呼ばれるドキュメンタリー版『天皇の世紀』(日曜10:30〜1

俳優・伊丹十三のこの1本〜 『吾輩は猫である』

 俳優時代の伊丹十三といえば、監督デビュー直前の時期にあたる『家族ゲーム』『細雪』の印象が強いかもしれないが、筆者が〈俳優・伊丹十三〉で1本を選ぶなら、『吾輩は猫である』で演じた美学者・迷亭役を挙げたい。  おなじみの夏目漱石の同名原作を、市川崑監督によって映画化したもので、苦沙弥教師役には仲代達矢が扮している。  猫が主人公の映画というのは撮影に苦労しそうだが、すでに『私は二歳』で赤ん坊を主人公にした映画を見事に傑作に仕上げた市川崑からすれば、技工を凝らして猫を擬人化させ

伊丹十三と特権的映画都市・東京

『ぴあ』は東京を映画都市に変えてしまった いささか惹句めいた言い回しに思えるが、『話の特集』(1983年7月号)で、映画評論家・蓮實重彦との対談に挑んだ伊丹十三は、「『ぴあ』は東京を映画都市に変えてしまった」と興奮気味に語っている。  つまり、雑誌『ぴあ』の出現で、思い立った瞬間に見知らぬ町の映画館で何時から何が上映されているかを把握できるようになった。そればかりか、名画座やオフシアターでの自主上映会も網羅されるようになり、それらの情報を蓄積すると、東京はパリにも劣らない〈映

廃墟に現れた幻影の撮影所

 伊丹十三は、自らが設立した伊丹プロダクションで製作費を全額出資して映画を作り続けてきた。デビュー作の『お葬式』は低予算(と言っても1億円以上かかっている)だったものの、伊丹プロの自主映画である以上、ヒットしなければ次回作をつくる目処は立たない。  映画製作における予算配分で、重要な判断を求められるのが、どのシーンをロケーションで撮影し、どのシーンをセットに持ち込むかである。低予算映画ならば、オールロケーションも珍しくない。実際、『お葬式』は、大半のシーンを伊丹の自宅で撮影