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伊丹映画を支えたスタッフたち

 東宝が配給し、東宝邦画系劇場で公開されていた印象が強いせいか、「伊丹映画=東宝」と思いがちだが、『お葬式』以降、1996年に亡くなるまで伊丹映画のプロデューサーを務めた細越省吾を筆頭に、撮影の前田米造、編集の鈴木晄をはじめ、日活出身者がメインスタッフを占めている。こうした撮影所出身スタッフたちは、後期の伊丹映画では、セット撮影が増えたことから、その強みがいっそう発揮されている。セットをどう活用され、どんな照明があたり、カメラがどう映しているかに注目して観るのも一興である。

 伊丹映画のスタッフで忘れてならないのは、「特機」の落合保雄。カットを割らずに移動車によるカメラ移動が多い伊丹映画では、特機が担当する移動撮影のレール、クレーンが重要な位置を担う。一般的な映画では後方にクレジットされることが多い「特機」が、伊丹映画では撮影・照明に次いで表示されるのは、伊丹がこのパートを重視していることの証左でもある。カメラがどんな動きをするかに注目するだけでも、伊丹映画全作で特機を担当した落合が果たした役割が想像以上に大きいことがわかるはず。

 音楽も、伊丹映画では独特の形で使用される。実際に音楽を製作するのは本多俊之だが、音楽プロデューサーの立川直樹がセレクトした上で伊丹と共に曲の前後を入れ替えたり、アレンジを施す。通常の映画音楽で音楽監督を差し置いてこんなことをすればトラブルになるのは必至だが、本多と立川と伊丹の信頼関係が、伊丹映画の個性的な音楽を生み出している。

 黒沢清周防正行も初期の伊丹映画を支えた一員だった。当初にっかつロマンポルノとして製作された黒沢の「女子大生・恥ずかしゼミナール」(後に改題再編集されて『ドレミファ娘の血は騒ぐ』として公開)に出演して以来、才能を見初めた伊丹は、編集途中のフィルムを見せては意見を請う蜜月期が『マルサの女』まで続いた。その幸福な関係は、伊丹プロデュースによる黒沢の監督作『スウィートホーム』に結実するが、後に不幸な裁判となり、その関係は終わりを告げる。
 ピンク映画で監督デビューしていた周防は、『マルサの女』2部作のメイキングを手がけた後、一般映画にも進出するが、伊丹は当初、黒沢に続いて周防監督作のプロデュース構想も表明していた。『スウィートホーム』の興行が芳しくなかったせいもあったのか、そのプランが実現することはなかったが、周防映画を伊丹がプロデュースしていれば、伊丹映画も周防映画も、今とは違った世界を見せていたかもしれない。



初出『映画秘宝 2012年1月号』に加筆修正

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映画監督伊丹十三とは何者だったのか? 伊丹十三と伊丹映画を、13本の記事と4本のコラムをもとに再発見する特集です。

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