自己責任?

日本を出て最初に驚くことは何だったかと聞かれると、私は間違いなく「物乞い」を真っ先に挙げる。

アグレッシブな物乞い(外見的に外国人っぽいひとに手あたり次第声をかけてお金をせびる)や、パッシブな物乞い(ただそこにいてカップかなんかに小銭入れてください方式)、様々なタイプの物乞いがいる。


今から大体6年前、私は交換留学でヨーロッパのとある都市に住んでいた。そして授業の一環で映画祭に行くべく隣国の首都にお邪魔していた。忘れもしない、帰りの電車に乗る前、それは駅で起こった。


私はクラスメイト達を駅で待っていて、近くには先生たちもいた。

身なりのいい男性が英語で"money?"と聞いてきたとき、私の思考回路はショート寸前で(今すぐ君には会いたくならなくなったが)、ややあって"no"と答えた。

なぜ、身なりのいい男性が、小さいアジア人の私(二十歳くらいの小娘)に駅にいる数ある人の中から声をかけ、お金をせびってきたのか私には皆目見当がつかなかった。

その後も幾度となく、私の姿をみるやいなや近づいてきてお金をせびる人はたくさんいた。(傾向的に春が多い、なんでだろう)

いつも疑問に思うことは、なぜ物乞いができるのか、そのマインドセットだ。物乞い=恥の感覚があっての行動なのか、それともないのか。

クリスチャンだから?施しを求められたら与えるのも教え?いやでもこの国の60パーセントは無宗教だし・・・

それとも私がアジア人だから?女だから?弱そうに見えるから?上半身にょろにょろでムーミン谷にいてもおかしくないから?

とこういったように考えられる行動の背景はたくさんある。


この間も散歩中にいきなり前に来てイヤホンを外してというジェスチャーをされて怖くなって早歩きでその場を立ち去った。物乞いに会いすぎて最近は人に話しかけられると怖い。ましてやコロナだし。

こんなことを書いていると、「やっぱヨーロッパって怖いかも」と思う方もいるかもしれない。そう、怖い、だからサバイバル精神が強くなる。今ならハンター試験に合格してゾルディック家の門も開けれるレベル。


さて、ホームレスや物乞いの話になると、いつもきまって出てくるのは「自己責任でしょ」という自己責任論だ。

では本当にそうなのだろうか?本当に自己責任で片付く問題なのだろうか?ホームレスや物乞いの人に「働けよ」と思う気持ちも理解できる。しかし、そこに行きついた過程を無視はできない。

貧困の背景には、劣悪な家庭環境や自立支援サービスの欠如、そして何より人々の無関心によるものじゃないのか。


自己責任論議は、日本での「生きづらさ」問題にも通じる。しばしば生きづらいと言っている人に対して、「でもそれも自己責任でしょ、自分で選んだんでしょ」という人がいる。本当にそうだろうか?

数年前の電通で起こった事件を、自己責任にできるのか?

希望に満ち溢れて入社した会社、自分で選んだ会社、なのに生きづらかった。自分を責め続けて追い込んでしまった。それも自己責任?絶対に違う。


今日私は、物乞いのひとにお金を渡すかとても迷った。

そして彼らの前を素通りするのが苦しいと思った。

カップの中身にはわずかな小銭しか入っていなかった。

手は擦り切れ、赤く腫れていた。

いったいどんな人生を送ってきたんだろう。

もし私がお金を上げたら、彼らはどんなことに使うんだろう。お酒やドラッグには使ってほしくないな・・・。そうやっていつも渡すかどうか迷う。


一方で(これを書いているのは大体真夜中なのだが)、外から物音がすると思ってみてみると、土曜日の真夜中に市のごみ収集の仕事をしている人がみえた。

こんな時間に、一生懸命、生活のために働いている人がいる。

いったいどんな人生なんだろう。


物乞いにしても、ごみ収集のひとにしても、私は何一つ彼らのことを知らない。彼らの声は私のところまで届いていない。いっそエシディシみたいに「あんまりだぁあああ」と声を上げることができれば・・・

知らないことは、まだまだたくさんある。


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