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マーク・マンダースの不在展@東京都現代美術館

6月から美術館も再開し始めましたね。

ごきげんよう、もくれんです。

先日、東京都現代美術館で開催中のライゾマティクス展とマーク・マンダース展を見てきました。


マーク・マンダースのことは全然知らず「誰?」だったし「ライゾマティクス展に行くついでに見ようかな」くらいのテンションで見に行きましたが、断然マーク・マンダースのほうが良かったです。個人的には。

ライゾマティクス展は「テクノロジーってすごいなぁ。」とは思うものの、明和電機のオタマトーン見た時と同じくらいの感激というか「すごーい!」ではあるけどmovedって感じではなくて。もちろん見に行ってよかったし、これこそ体験しないとわからない作品群なので、必見だし楽しかった。2周しました。1人で美術館行くとこういう自分タイムで見られるのは利点だなと思う。好きな作品の前で好きなだけ時間を費やせる。

マーク・マンダースは金沢21世紀美術館で最近展示があったものの、今回は日本初の個展だったのでご本人も来日を待ち望んでいたそうです。コロナがなければ来られたのにね。展覧会の名前が「マーク・マンダースの不在」なのが皮肉にも当たってしまった形に。(というのが、アートテラー・とに~さんのブログに書いてありました。下記参照)

で、マーク・マンダースにおける私の感想ですが、

「これぞ芸術」

と思った。というか、芸術ってこういうものだってことを思い出した。

キャプションがある作品もあるけど、基本的には見る側に委ねられている感じとか、圧倒的に生じゃないと伝わらないゾクゾク感とか、全く意味がわからないところとか、実に芸術だった。

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スフィンクスのような作品だなぁと思う。寡黙かつ雄弁。作品と対峙してこみ上げてくる感情に名前はつかないけど、何かが私の中でmovedしていると感じた。芸術って、技術的にすごいなぁという超絶技巧を愛でる視点もあるけど、よくわからないものを見せられるロールシャッハ・テストのような面もあると思う。悲しくも嬉しくも楽しくもならない作品たちだったし、言葉にするなら平易に「なんじゃこりゃ」で終わってしまう。ただ、その作品と私の中で何か波紋が広がるのを感じる。ちょうど水面の波紋が出会ってひとつになるように。

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ちょっと話が変わるけど、先日フジコ・ヘミングのコンサートに初めて行った。全然感動しないどころかウトウトしてしまい「ピアノ弾いてるだけだと絵面の変化が少なくてつまらないなぁ」と思った自分を少し恥じた。と同時に、私は感受性がどこまでも視覚的に開いていて聴覚的には閉じてるんだろうなと思った。マーク・マンダースの作品と比べたら、フジコ・ヘミングのピアノの方がわかりやすくて心に響いても良さそうなものである。実際、私と真逆でフジコ・ヘミングに泣いてマーク・マンダースを素通りする人だっているだろう。そんなわけで改めて、視覚の人なんだなと自覚するに至った。

感動する心は摩耗するし、新しい出会いもどこかで見たことがあるような体験ばかりになっていくのが歳を取るということだと思う。そのような日々の連綿とした歩みの中で、movedに出会えたことに感謝したい。そして、これはコロナで美術館が閉まっていたからこそ、より感動したのだなとも思う。情報量がとかく多い社会の中で、常に新しいものと出会える私達はどんどん「不感症」になっている。最近上京してきた友達に「東京は色々ありすぎて不感症になりそう。」と言われて、その言い方はなんだと笑ったが、実際一番しっくりくる。

マーク・マンダースの作品は何も教えてくれないし、モヤイ像のようにただあるだけである。あるというか、いるというか。作者の意図は横において、感じることだけをできる至福の時間であった。まさに「マーク・マンダースの不在」!

最近の現代アートはサスティナブルとか病気とか死とか災害とか、いろんな背景を持った作品が多いと思う。もちろんそれありきで見ることは楽しいし、知らなかった事実を知ったり、同じような体験でもこのようにこの作者は芸術に昇華させたのだなと唸ったりする。ただ、時に一生懸命人波をかき分けて見たキャプションに書いてあるタイトルが「無題」だったときの肩透かし感。もう作者の意図なんてどうでもいいな、私が感じたことがこの作品の意味、となる瞬間。それは芸術と対峙する至高の贅沢。

そんなことを思いました。マーク・マンダース展、おすすめです。


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