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ショートショート:ある日

今日も何処かへ出掛けることにした。
コートを羽織り靴を履く。
それから家の鍵を手に取り、玄関の扉を開けた。
時刻は午前2時、外は真っ暗で空も曇っているので、街灯の光が無ければ何も見えなかっただろう。
外に出て鍵を閉め、コートのポケットに突っ込んだ。
するとその瞬間、遠くからサイレンのような音がこだましてきた。
そのサイレンの音はどことなく違和感があり、聞き慣れないものだった。
僕の深夜の散歩はそうして始まる。
深夜に外へ出かける時、決まって何かが起こる。外に出るからには何か目的があるのではないかと思われるかもしれないが、特に目的はない。
厳密には、この「何か」が目的だ。
その「何か」を追い求めていると、必ず面白いことが起きる。
今日はこの違和感のあるサイレンがその「何か」ということだ。
僕は小さな笑みを浮かべながら、サイレンの鳴った方角へ歩き出した。


しばらく歩いたが、サイレンは未だ定期的に鳴り響いている。
何が待ち受けているのだろうと考えると、胸が高鳴る。
そして今、おそらく最初の「面白いこと」が起ころうとしていた。
道を歩いていると、遠くに黒いモヤが見えたのだ。進むに連れてそれはだんだん大きくなり、いずれ人型と認識できた。
「おや、そこのあなた、深夜にこんなところをほっつき歩いて何をしているんです?」
モヤが少し遠くから話しかけてきた。しかし、暗くて姿がハッキリ見えない。
僕はそこで立ち止まる。
「どうも。散歩ですが?」
言うと、モヤがこちらへ進み出てきた。だんだんハッキリ見えてくる。身長は二メートルくらいで、頭には異様に長いシルクハットを被っているが、ペストマスクを身に着けているせいで顔が見えない。黒い服を着ていて、いかにもイギリスの紳士のような格好だ。…ペストマスクを除けば。
手には革製と思われる黒い手袋をはめていて、肌の露出はどこにも見られない。
「もしや、異世界への入口を探しているのでは?」
上半身を少しこちらに倒して、俺を上から覗き見るような姿勢になった。その体勢だと、男の高い身長がより強調される。
「あれば見つけたいですね」
僕は挑発的にニヤリとして言い、ペストマスクの目の部分を見た。暗いからかもしれないが、目らしきものは全く見えず、代わりに深淵がこちらを覗いていた。
「ふっふっふ、そうですか。それでは、散歩を楽しんで」
男はそう言うと元の体勢に戻り、俺の横をするりと抜けて歩いていった。その足取りは、どことなく、楽しげに見えた。

会話中、サイレンは偶然来なかったが、男が通り抜けて行くと同時にまた鳴った。
だがそれは、心無しかさきほどより不気味に聞こえた。全く変わっていないはずなのに。

またしばらく歩いて行くと、だんだんサイレンの音が大きくなってきているのに気付いた。音が発されている場所はもうすぐらしい。
そういえば、雲がなんだか赤みがかって来た気がする。そこでふと左腕の腕時計に目をやったが、時刻はおよそ2時半だった。

サイレンの音はもう、少し耳が痛いくらいにまで大きくなっていた。
空はどす黒い赤になり、雲は灰のようだ。それは漂うことを忘れ、空を猪突猛進している。腕時計は猛り狂い、時間という概念が無くなったことを告げていた。
周囲からの無数の人の気配は、僕の心臓の鼓動を早める。
それでも、僕は進んだ。楽しい、楽しい、そう頭の中で言い続ける。
自分では気付かなかったが、僕の顔はとても気持ちの悪い笑顔をしていた。
なんて楽しいんだろう。楽しくてたまらない。
興奮して、口から肺にかけての空気の出し入れが早まる。
心臓がとてつもなく辛い上に、体全身を気持ちの悪い感覚が駆けずり回っている。
何かに押しつぶされそうだ。今すぐにでも倒れ込んで楽になりたい。
僕は今、死へ向かっているという自覚がある。だが、この先を見るためなら死をも厭わないつもりでもいる。


いいや、本当は違う。僕は怖くてたまらないんだ。今すぐ家へ帰ってお風呂に入りたい。朝に作っておいたご飯を温めて食べたい。くだらないテレビをビールを飲みながら見たい。昨日買ってきた小説を読んで、次の展開を想像しながら寝たい。

足は、止まらなかった。


秒針は扇風機のように回転し、雲は光にも負けないくらいの速度で突っ走っていた。サイレンはもうそれと分からず、ただの騒音と化している。
僕は頭を狂ったように掻きむしって一心不乱に叫び回りたい気分だったが、そんな事をしても無駄なので、耳を強く押さえて目をつぶるだけに留めた。


微かに開けた右目は、富士山よりも高さのあろう壁のような黒い何かを遠くに捉えた。
それはだんだんこっちに近づいてくるのが分かる。
僕は逃げたほうが良いことを瞬時に理解した。しかしその思考は悲しくも消えさり、僕の脳は、前に進むということだけを受け入れた。
壁が近づくにつれて既に光速を超えた空は動きをさらに早め、秒針はもう存在するのかどうかも分からなくなっていた。
僕の不快感はもう死んだほうがマシという段階まできて、気を確かに持たないと正気を失いそうだ。いや、もうとうの昔に失っていたかもしれない。

ドーパミンが止まらない。
楽しい。
楽しい。
楽しい。
なんて楽しいんだ。たまらない。
楽しい。
楽しい。
楽しい。
楽しすぎる。

世界が回転している?それもありえる。
眼球が回転している?それもありえる。
地球が無茶苦茶に回転している?それもありえる。
僕が回転している?それもありえる。
もう死んでいる?それもありえる。
魂の叫び声?それもありえる。
心臓の破裂音?それもありえる。
全身の骨が一度に折れる音?それもありえる。
人間がぺちゃんこになる音?それもありえる。


気づけば僕は大笑いしていた。
涎を口から撒き散らす。
全身の臓器が狂ったように笑い、叫んでいる。
壁はもう目前に迫ってきていた。僕は一心不乱にそれを目指して走り出す。
もうずっと歩いていたせいで足が痛い。心臓は爆発寸前だ。骨が悲痛に軋んでいる。

壁は目の前に迫り、もうぶつかりそうだ。
3、
2、
1、



痛みは感じなかった。むしろ心地良いくらいだった。そもそも、壁ではなかったような気がする。ぶつかった感覚はなく、跳ね返りもしなかった。向こう側へ通り抜けてしまったような気がする。
…なんだか頭がスッキリしている。しかも、落ち着いて思考ができる。
少しずつ目を開けると、僕は仰向けになっていたらしく、空がまず一番初めに目に飛び込んできた。そして、その空は正常だった。
もう何十年もこの空を見ていなかったような気がして、凄く懐かしい感覚に襲われ、少し涙が出た。太陽が暖かい。
ハッとして腕時計に目をやると、それは正常に稼働しており、針は6時を指していた。太陽の光を片手で遮り、ため息をつく。

少し笑って、ゆっくりと立ち上がった。

もう深夜に散歩するのは止めておこう。あんな事はもう懲り懲りだ。

これからは太陽に感謝して、道を歩いて行こう。


遠くの家の屋根に黒いモヤが座っている事を、彼が気付くことはなかった。


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