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「正しい」意見、ヤになった。

「とかくに人の世は住みにくい」
私はこの言葉がなんか苦手だった。
嫌な思いをする人がいることを、百も承知で自白する。
自称変人で、周りに白い目で見られる自分、可哀想って思っている人が言う言葉だと思ってた。
私は自分を可哀想だと思う人が苦手なのだ。

今日は私の文章力で説明できるか心配だが、難しい話を…。

昔、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んだ。

日々何となくの不安を抱えた人々は、以下の2つのうち、どちらかの行動をとる。

①自分の言葉を正当化したくて、誰かの意思を拘束させようとする。
たとえば、私は絶対正しい、私の言うことを聞けば幸せになれるのだと子供に言い聞かせるといったところだ。

②誰かの言葉を借りて、自分の意見を正当化しようとする。
かれが言っていることは正しい。かれと同じように行動すれば、間違いは無いといったところである。

ネットの世界でバッシングをする人は、多くの場合、正義感から人を非難するらしい。

「普通に考えて間違ってるでしょ」という指摘は、自分の意見では無い。
自分が「普通」という概念に服従されている。
また、「普通」という言葉を借りて人を服従、強制しようとしている。
バッシングには「服従される・する」の両方の側面が表れている。
「服従される・する」人の心理というのは、実は自分の日常に対する何となくの不安という点で、共通している。
表裏一体なのだ。

最近、なんとなくだけど、世間のおおらかさが減ったなと思う。

ある歌詞を思い出す。

「泣きたい気持ちは連なって冬に雨を齎(もたら)している」と云うと
疑わぬあなた
「嘘だって好くてたくさんの矛盾が丁度善いと」
答にならぬ’’高い無料の論理で’’
嘘を嘘だといなすことで即刻
関係の無いヒトとなる
東京事変「群青日和」

嘘だとしても、騙されてもいいからあなたのことを疑わないというのは、本当に好きな人だけでいいと私は思う。

でも広く人間の矛盾を愛せるくらいの器を持つ人の方が、心穏やかに暮らせそうでいいと思うけどなぁ。

「たくさんの矛盾が丁度いい」とか、特にここ最近言える感じじゃなくなってきた気がする。
矛盾なんて許せない、というピリピリ感を感じる。

別に普通がダメとか、不自由がダメとかじゃなくて、「普通」がネットとかを通じて露骨に表に出すぎた。
「普通」と長時間顔を合わせてるものだから、流石にしんどさを感じてきた。付き合い方がまずくなってきたというか。

常識的、一般的、普通に考えて…エトセトラエトセトラ……ヤなんだよなぁ……あぁうるさい、五月蝿い…

とかくに人の世は住みにくい……
とうとう私もそう思ってしまった。

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